37 アンドリューとダリウスの陰謀
昼前、遠征の集合時間をすっかり忘れ、夢中になっていたレンとイオは、慌てて家を出た。
「旦那さまお待ち下さい!」
「イオ急いで! やっぱり荷物は俺が全部持つよ!」
「すいません旦那さま」
2人が中庭まで走ってくると、そこは既に遠征前の慌ただしい空気に包まれていた。
興行に出る剣闘士たちが整列し、監視兵が点呼を取っている。
その列の端へ、レンとイオは駆け足で滑り込んだ。
「レン! 遅いぞ!」
オエノマウスが腕を組んだまま、鋭い声を飛ばした。
「す、すみません教官!!」
イオも慌てて深く頭を下げる。
「申し訳ございません……!」
オエノマウスは深いため息をつき、顎で門の外を示した。
「馬車は外にもう並んでいる。点呼が終わったら外へ出るぞ。レンとその女は特別車両だ。今回の遠征にはベスス教官が同行する、遅れずにベスス教官についていけ」
「はい!」
点呼が終わり、ベスス教官の長い訓示が始まった。
訓示が終わると移動が始まり、監視兵たちの誘導で、レンたち剣闘士は列を崩さず中庭を出ていく。
やがて養成所の門の外に出ると、馬車がずらりと並んでいた。
イオは格子付きの特別な車体を見て、小さくつぶやいた。
「……あの、旦那様。あれ……格子が付いていますね。わたくし、本当に乗ってしまってよろしいのでしょうか?」
レンは落ち着いた声で答えた。
「ああ、あれは剣闘士が逃げないようにしてあるんだよ。だから移動中は外から施錠されるんだ」
イオは一瞬だけ肩を震わせたが、すぐにレンを見上げて小さく頷いた。
「……そうなのですね。少し怖いですが、旦那様とご一緒なら大丈夫です!」
レンはフンスと気合を入れたイオを先に馬車に乗り込ませ、自分もあとに続いて入った。
監視兵がバタン、と扉を閉め、外からガチャリと重い錠が掛けられる。
密室となった車内から外の喧騒が遠ざかると、それを合図に御者が手綱を引き、馬車はローマへと走り出した。
ーーーーーー
ローマ市街の一等地に建つ、クラウディアの広大な邸宅。
外は冬の凍てつく寒さだったが、大理石の居室の中は、上質な炭が熾る火鉢のおかげで春のように温かい。
クラウディアは長椅子に身を預け、湯気を立てるスパイス入りのホットワインの芳香を優雅に楽しんでいた。
扉が静かに開き、執事のアンドリューが銀のトレイに一通の書状を載せてやって来る。
「クラウディア様。カプアのバティアトゥス殿より、手紙が届いております」
「バティアトゥスから? ふふ……もしかしてレンの次の試合の知らせかしら」
クラウディアは指先で蝋封を軽く撫で、期待を隠しきれない微笑を浮かべながら封を切った。
流し読みするつもりだった彼女の瞳が、ある一文に触れた瞬間、ぱっと見開かれる。
「まあ! レンは、一週間後のフィリップス閣下の興行に出るそうよ!」
クラウディアは弾かれたように身体を起こし、少女のように頬を上気させて声を弾ませる。
「アンドリュー、来週から予定していたティボリの別荘はキャンセルよ。他家からの招待も全部断ってちょうだい」
「……キャンセル、でございますか? 予定は一ヶ月前から組まれていたはずですが」
アンドリューは平然とした声を保ちながらも、わずかに視線を険しくした。
「そんな予定、どうでもいいわ。レンの試合の方が大事よ。今度はどんな戦いを見せてくれるのかしらね、今からとても楽しみだわ」
アンドリューは神妙な態度で頭を下げる。
「かしこまりました。それでは闘技場は特等席を手配しておきます」
「ええ、よろしくね」
クラウディアに礼をし、立ち去るアンドリューの胸の奥では、どす黒い嫉妬の炎が静かに燃え上がっていた。
クラウディアの自分には向けられたことのない、レンへの盲目的な熱情。
それがただの奴隷剣闘士ごときに向けられている事実が、彼のプライドを激しく逆撫でしていた。
(……剣闘士ごときが、これ以上クラウディア様の心を狂わせるのは許されん。……もはやマニウス様だけに任せてはおけない……)
部屋を一歩出た瞬間、アンドリューの顔から“完璧な執事の笑み”がすっと消えた。
冷酷な灰色の瞳をギラつかせ、邸宅の奥深く、限られた者しか立ち入れない薬部屋へと足を向ける。
アンドリューは薬部屋の前で、周りに誰もいないことを確認すると、扉の鍵を開けて中に入った。
薄暗い室内。
棚の奥から彼が取り出したのは、不気味な黒いガラスの小瓶だった。
中に入っているのは、人ひとりを殺せる量の『マンドレイクの根の抽出液』。
神経を狂わせ、呼吸を止めるほどの劇薬である。
アンドリューはその小瓶を懐に忍ばせると、屋敷の奴隷たちが寝起きする地下の区画へ向かった。
――コンコン。
「ダリウス。私だ。入るぞ」
アンドリューが部屋に入ると、休憩をしていたダリウスが、急いでベッドから起き上がる。
「……アンドリュー様。こんな所までわざわざ来られるとは、なにか俺に急用でも?」
アンドリューは軽く笑顔をみせる。
「朗報だ、ダリウス。一週間後のフィリップス閣下の興行に、あのレンが出る。恐らくイオも一緒にローマへ来るだろう」
「っ……それの何が朗報なのですか! 俺にイオが他の男と一緒にいるのを、見に行けとでも言うのですか!!」
ダリウスが強い口調で抗議する。
その瞳には狂気じみた光が宿っていた。
アンドリューは、ダリウスのイオへの執着が消えていないことを確認し、わずかに口角を上げる。
「そうだ。前にも言ったが、ヤツが死ねばイオは戻る。
……ダリウス。確実に、ヤツを消したくはないか?」
アンドリューは懐から黒い小瓶を取り出し、テーブルの上にコトン、と置いた。
「殺したいなら、これを使え。中身はマンドレイクの毒だ。
これと薬草を混ぜて、色をつけて飲み物にするんだ。
そしてローマに到着したイオに会い”試合で元気の出る強壮薬”だと言って渡すのだ。
奴が死ねば、イオは屋敷に戻ってくる。その時は、私が奥様に掛け合って、お前たちを組ませてやろう」
ダリウスは、悪魔の誘惑のように差し出された毒の瓶を、ためらいもなく掴み取った。
「これをレンに飲ませればいいんだな! それで奴は確実に死ぬんだな!」
「その通りだ。その中には致死量の毒が入っている。
お前が剣闘士たちのテントに入れるよう、私が手配してやる。しくじるなよ」
「わかった」
ダリウスが深く頷くと、アンドリューは満足げに目を細め、狂気じみた笑みを浮かべた。




