36 イオを連れて
紀元前76年1月。
「……よし、これで完璧です、旦那様」
イオが細い指先で、レンの革製の腰帯をきゅっと愛おしそうに結び直した。
この二週間、二人の朝はいつもこの“ささやかな儀式”から始まる。
黒髪ロングの美しい髪を揺らしながら着付けを手伝うイオの横顔は、どこか誇らしげだった。
「ありがとう、イオ。じゃあ、訓練に行ってくるね」
そう言うとレンは動きを止め、イオからの『いってらっしゃいのキス』を催促した。
イオは頬を薄く染め、少しだけ爪先立ちになり、恥じらうように目を閉じ、そっとレンの唇に口づけをする。
「……いってらっしゃいませ、旦那様。どうか今日も、お怪我のないように」
「うん、イオも無理はしないでね」
毎日の甘酸っぱい生活。
その余韻を胸に抱え、レンはニヤける口元を引き締めて、訓練場へ向かった。
訓練場の冬の朝は薄暗く、冷たい空気が満ちていたが、既に剣闘士たちが各々に自主訓練を開始していた。
レンが準備運動を終えた頃、
オエノマウス教官が、訓練場の中央で声を張り上げた。
「全員、集まれ! ベスス教官から重大な発表がある!」
その瞬間、訓練場の空気がピリッと変わった。
こういう時に告げられるのは、大抵が“興行への遠征”に向かうメンバーの発表だった。
剣闘士たちが全員中央に集まると、ベスス教官が鋭い眼光で見据えながら、朗々とした声を響かせる。
「全員、よく聞け。
一週間後、ローマで元老院の重鎮ルキウス・マルキウス・フィリップス閣下による興行が行われる。今から、その興行に出るメンバーを発表する」
訓練場の空気がわずかに張りつめる。
誰も声を発さず、ただ次の言葉を待っていた。
「まず今回の遠征に参加する一流剣闘士から発表する。
セウテス、リュティス、ヘクトルそしてレン。以上の4名だ」
(またかよ! ほぼ全部の興行に俺、参加してるじゃん!)
人生で初めての女性を得て、一番楽しい時期に水を差されたレンは、内心で悪態をついた。
「いいか! 昼前には出発する。4名は急いで旅支度に向かえ!」
「はい!」
レンだけが返事をし、他の一流剣闘士はただ頷く。
「次に二流剣闘士のメンバーを伝える。アウグスティヌス、ドロミコス、ガルトス――」
ベススの発表は続くが、名を呼ばれた一流剣闘士たちは、それぞれ自室へ向かって歩き出した。
一流剣闘士は“専属の女奴隷”を複数人持っていることが多く、遠征にどの女を連れて行くか決めなければならない。
そのためセウテスなどは、誰を同行させるかを考えながら歩いていた。
レンも彼らの後に続き訓練場を後にし、エリート長屋へ向かった。
(まあ長屋ほどゆっくり出来ないけど、イオも一緒に連れて行けるし、恋人との旅行と考えればちょっと楽しいかも。ぐふふ
エリートってホント最高だよな。
苦痛だけだった5日間の旅も快適になったし、今回からは鉄枷も無くなる)
レンは家の鍵を回して扉を開ける。
部屋の中ではイオが洗濯物を畳んでいるところだった。
イオが振り返り、黒髪ロングの三つ編みが、左胸の前でふわりと揺れる。
「あっ。おかえりなさいませ、旦那様! ……今日はお戻りが早いのですね?」
レンは一度息を吐き、真面目な顔で口を開いた。
「うん。ちょっと大事な話があってさ。
一週間後にローマで大きな興行があって、俺も遠征に行くことになった」
イオの手が、畳んでいた布の上でぴたりと止まる。
その瞳が、まっすぐレンを見つめた。
「……遠征、ですか」
「そう。だから俺と一緒に遠征に来てほしい」
一瞬だけ、イオのまつげがふるりと揺れた。驚きというより、選ばれたことへの喜びが胸の奥からこみ上げたようだった。
イオは笑顔で応える。
「……はいっ! わたくしでよろしければ、どこへでもお供いたします!」
イオの弾むような声が部屋に広がると、レンは思わず視線をそらし、頬をかすかに掻いた。
「……そんなに喜ばれると、なんか照れるな」
(下心しかなくて、ゴメン!)
「えへへ……だって、旦那様が“わたくしを選んでくださった”んですもの」
(そんな純粋に喜ばないで、ほんとゴメン)
イオは嬉しさを隠しきれないまま、そっとレンのそばに歩み寄る。
そして、自然な仕草でレンの腰帯に手を伸ばした。
「では、まずは着替えから整えましょう。旅に出られるなら……訓練着のままでは寒うございますし」
イオがそう言いながら、レンの腰帯にそっと細い指先をかけた。
この世界に来てから何度も繰り返された、いつもの着替えの風景。
「旦那様、失礼いたしますね……」
イオが少しだけ顔を近づけ、慣れた手つきで腰帯をゆっくりと解いていく。ふわりと、彼女の髪から甘い香油の匂いが鼻腔をくすぐった。
間近で見る彼女の肌は、まるで絹のように滑らかで瑞々しい。
レンの喉がゴクリと鳴った。解かれた腰帯がハラリと石畳の床に落ちる。
その瞬間、レンの身体に電撃が流れた。
(ヤバいッ! 何してんだ俺は!! いや違う! この体はまだ16歳の盛りがついたお年頃だ、俺は悪くない!)
「あ、あのさ……イオ……」
レンは慌てて腰をかがめる。
しかし、イオは帯を解いていた視線を上げ、レンの顔を見て微笑んだ。
「ふふ、旦那様ったら……毎日こうしてお手伝いしておりますのに、どうしていつもそんなに新鮮な反応をなさるのですか?」
レンは激しい本能に逆らえず、愛おしさと欲望を込めて、イオの華奢な身体を強く抱きしめた。
「きゃっ……。旦那様。その……お手柔らかにお願いいたしますね」
腕の中にすっぽりと収まったイオは、嬉しそうに声を弾ませると、レンの背中にそっと手を回して寄り添ってきた。
抱きしめ合うふたりの心臓の音が、トントンと小気味よく重なり合っていった。




