35 天才将軍ポンペイウス・マグヌス
紀元前77年12月。
元老院の重鎮ルキウス・マルキウス・フィリップス の元に、養成所のオーナー・バティアトゥスからの手紙が届いた。
フィリップスは来月の興行を予定している興行主であり、バティアトゥスはその試合に、レンをねじ込もうとしていた。
広大な邸宅の、
大理石の柱が並ぶ豪奢なサロンで、年老いたフィリップスは、バティアトゥスからの書状に目を通した。
彼は手紙を読み終えると、口元に不敵な笑みを浮かべる。
「ふむ……“クラウディアの小娘”が 100万デナリウス の勝利を得たとの噂は聞いておる。その勝利をもたらしたのが、この剣闘士か……」
(レンと言う剣闘士を実際に見たことはないが、バティアトゥスめ、なかなか面白い見せ物を提案してくるではないか)
フィリップスはバティアトゥスの書状を卓上に放り出した。
その直後、
ガチャリと扉が開く。
現れたのは――
豪華な鎧に身を包んだローマの将軍、
グナエウス・ポンペイウス・マグヌス。
整った顔立ちに、
自信に満ちた眼差し。
29歳で、すでにローマの未来を担うと目される天才将軍である。
――本来の歴史では、カエサルと三頭政治を行い、
やがてローマの覇権を巡ってカエサルと争い、惜しくも敗れた人物である。
「フィリップス閣下。
この度は元老院を説得し、私にヒスパニア遠征の全権をお与えくださり、
誠にありがとうございました。
現在は部下に進軍のための道の整備をさせており、来年には、私が自ら大軍を率いて出陣いたします。
本日はそのお礼と、出陣のご報告に参りました」
ポンペイウスが颯爽と一礼すると、
フィリップスはまるで我が子を見るかのように目尻を下げ、満足げに深く頷いた。
「いやいや、ポンペイウス君。気にする必要はないぞ。
君は私の期待通り、反スッラを掲げて挙兵したレピドゥスの反乱軍を見事に鎮圧してみせたのだ。それに比べれば元老院の頑固な老人どもを黙らせることなど造作もないことだ」
「いえ閣下、私は当然のことをしたまでです」
「ふむ。その謙遜は君の美徳だ。
だが覚えておきなさい、ポンペイウス君。
ローマでは、功績とは“事実”ではなく“語った者”に与えられる。
真実よりも、誰が先に声を上げたかの方が、はるかに重要なのだよ」
「はっ、肝に銘じます閣下」
「……そうだ、君は来月もまだローマ近郊にいるかね?」
「はい。部隊の最終編成と物資の積み込みがありますので、私がローマを離れるのは春先になる予定です。
……何かあるのですか?」
ポンペイウスが首を傾げると、フィリップスは卓上の書状を指先で弄び、誇らしげに胸を張った。
「実はな。君のレピドゥス討伐の祝勝と、これからの壮行会を兼ねて、
私が私財を投じ興行主となり、市民に“本物の威光”を示すための大規模な剣闘士試合 を主催することにしたのだ。
どうだ、出発前に私の特等席で見ていかんかね?」
「閣下直々の主催ですか。それは素晴らしい。ぜひ拝見させて頂きます」
ポンペイウスは剣闘士などに興味は無かった。だが自身が父親の様に慕う、フィリップスの誘いだったため笑顔で応じたのだ。
フィリップスは頷くと、椅子にふんぞり返り、ローマの政治を吐き捨てるように語り始めた。
「スッラ閣下が亡くなってからというもの、元老院の老人ども(メテッルスやカトゥルス)は腰が重くていかん。
おまけに、あの成金クラッススは金に物を言わせて、派手な自主興行で民衆の歓心を買っておる。
それにマリウス派の生き残りの若造――カエサルの奴は、
スッラ派の元老院の汚職を法廷で告発し、貧民どもの人気を得てヒーロー気取りだ 」
「……さようですな、実に痛ましい限りです閣下」
ポンペイウスが深刻そうに受け止めたのを見て、フィリップスは満足そうに頷く。
「だからこそ、ローマを支える者として、ローマの伝統と威光がどこにあるかを市民の目の前で見せつけてやる必要があるのだよ。
クラッススも、カエサルも、元老院のドンたちも、全員を観客席に座らせてな」
「……なるほど。それで、今回の興行の目玉となる試合はどのような内容なのですか?」
ポンペイウスの問いに、フィリップスは楽しそうに微笑んだ。
「カプアの王者セウテスとポンペイの王者フェルロックスの対決だ」
「なんと! あの有名な二人の剣闘士の戦いですか! ならばこの興行は成功したも同然ですな」
ポンペイウス自身は剣闘士に興味はない。
だが、その二人の名には聞き覚えがあった。
社交の場で貴婦人たちが、いつも熱を上げて語り合っていた剣闘士たち――
その名こそ、セウテスとフェルロックスだった。
「その通りだ、この二人の貸出料だけでも、3万デナリウスも掛かっておるからのう、成功せぬ方がおかしいわ。わっはっは」
フィリップスは散財をこともなげに笑った。
「ああ――そうだ、あと“クラウディアの小娘”に 100万デナリウス の勝利をもたらしたという、レンと言う剣闘士も中日の目玉試合に使うことにした。カプアの興行師のバティアトゥスがなかなか面白い見せ物を提案してくれたのだ」
「ほう、それはまたどのような?」
「二流剣闘士5人と、そのレンが率いる3人による【5対3の変則チーム戦】だ」
ポンペイウスは目を大きく開け、驚いた。
「5対3、ですか? 剣闘士同士の集団戦では、そのような話は聞いたことがありませんが……」
「そうだろうな。このレンと言う剣闘士は、2対1のデスマッチで中堅2人のベテランに、無傷で勝った実力者なのだそうだ。どうだ、見ものだとは思わんかね。君ならどちらに賭ける?」
ポンペイウスは一瞬だけ考え、淡々と答えた。
「数の多い──5人側ですね」
「ほう? なぜかね?」
フィリップスが興味深そうに身を乗り出す。
「戦いは、数がすべてです。
いかに強者であっても、囲まれれば終わりです。
3人では、正面を守るだけで精一杯でしょう」
若き将軍らしい、冷徹で簡潔な分析だった。
その答えに、フィリップスは愉快そうに腹を揺らして笑った。
「ハハハッ! だからこそ見ものなのだよ!
そのレンという男が、数の暴力に押し潰されるのか──
それとも、ふたたび奇跡を起こすのか。
どちらにせよ、市民は大喜びするはずだ」
フィリップスは心底楽しそうに語る。
だが彼は、この試合に潜むさらなる罠を知らない。
ただ圧倒的に不利なハンデ戦に、レンという剣闘士が挑むだけだと思っていた。
「なるほど……それは確かに、楽しみな見世物になりそうですね閣下」
ポンペイウスも、大先輩の笑顔に合わせて、静かに微笑んだ。
36話は6/30(火)に投稿予定です。
以降は2日に1回の投稿を予定しています。




