33 ダリウス
窓から差し込む優しい朝の光が、レンの体に当たる。
ゆっくりと意識が覚醒していく中、レンは右腕に心地よい重みと、柔らかい温もりを感じて視線を落とした。
そこには自分の腕を枕にして、イオがすやすやと小さな寝息を立てて眠っていた。
(……イオ……)
朝の光を浴びて、彼女の美しい黒髪がキラキラと輝いている。
女の子に腕枕なんてしたのは初めてだったレンは、内心で心臓をバクバクさせていると、その気配を察したのか、イオの長い睫毛がかすかに震えた。
「う、ん……。……あ、旦那様……?」
寝起きの少し掠れた声。イオはパチリと目を瞬かせ、自分が主人の腕を枕にしているという現在の状況を認識した。 その瞬間、彼女の顔が、一気に真っ赤に染まった。
「す、すいません旦那様っ……! 私としたことが、すっかり寝過ごしてしまいました……っ!」
イオは弾かれたように跳び起きると、ベッドの上で慌てて平伏した。
「朝食の準備もまだなのに、ご主人様に腕まで枕にさせてしまうなんて、奴隷失格です……っ! どんなお咎めでも受けます、本当に申し訳ありません!」
普段の明るさはどこへやら、少し抜けた天然さを発揮しながら本気でパニックになっている。その必死すぎる姿に、レンは思わずクスッと笑ってしまった。
「いいよ、頭を上げて。俺のせいで寝るのが遅かったからね。俺もイオの隣だったから、久しぶりにぐっすり眠れた。ありがとう」
「だ、旦那様……」
レンがそっと頭を撫でると、
イオは犬が耳をペタンと寝かせるように肩の力を抜き、
安心したように目を細めながら、頬を少し赤らめた。
自己価値の低さゆえにすぐ恐縮してしまう彼女だったが、レンの温もりに触れると、嬉しそうに目を細めてしまうのだった。
――イオが急いで用意した簡単な朝食を口にし、レンは訓練場へ向かう入口のドアに向かった。
「では旦那様、お気をつけて。本日の訓練も無事に終えられるよう、祈っております」
玄関の扉の前。イオはいつもの従順で健気な笑顔を浮かべ、深く頭を下げて見送ろうとした。
だが、レンはそこで少し照れくさそうに頭をかきながら、足を止めた。
「あ、あのさ、イオ。……行く前に、その……いってらっしゃいのキスをしてくれないか?」
「いってらっしゃいのキスっ!?」
イオは驚きに小さく息を呑んだ。
朝に夫婦や恋人同士がすることは知っているが、求められたの初めてだった。
彼女は奴隷として多くの貴族の夜の相手をさせられてきたため、男を悦ばせるキスの経験や技術を豊富すぎるほど持っている。
主人の命令であれば、いつでも、どんなキスでも応じる覚悟はあるし、それが奴隷としての“忠義”だと思っていた。
だが──今、レンから求められたのは、そんな義務としての行為ではなく、ただ純粋に、一人の男として、一人の女の子に向けられた言葉だ。
「はい、旦那様。喜んで……」
過去のどんな貴族にも、こんなキスをしたことはない。
そのためイオは恥ずかしくて、頬をうっすらと赤く染めた。
「……では、失礼いたします」
覚悟を決め、レンの方へ一歩近づき、ほんの少しだけ背伸びをして、レンの頬に軽いキスをする。
「……その……いってらっしゃいませ、旦那様」
イオは顔を真っ赤にし、胸の前でぎゅっと手を握りしめた。
(いいな、この初々しさ! 唇じゃなかったけど、これはこれで凄くいい!)
レンは思わず笑みをこぼす。
「うん。じゃあ行ってくる」
扉を開けると、
冬の朝の冷たい空気が流れ込んできた。
その冷たさとは対照的に、
頬に残ったイオの温もりだけが、
いつまでも消えずに残っていた。
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ローマ市街の乾いた風が吹き抜ける石畳の路地を、
ダリウスは長い旅で土埃がついた外套を軽く払いつつ歩いていた。
手には、小さな包み。
それは幼馴染の少女の土産に思わず買った、
遠いシリアの市場で見つけた黒曜石の髪飾りだった。
「イオ……気に入ってくれるかな……」
もうすぐイオに会えると思うと、ダリウスの歩みは自然と早くなり、胸が高鳴った。
クラウディア邸の裏口に近づくと、
厨房の方から香草の匂いと、
奴隷たちの忙しない声が聞こえてきた。
数カ月ぶりの懐かし仲間たちの声に、
ダリウスの顔に笑みが浮かんだ。
重い木の扉を押し開けると、
厨房の方から香草の匂いと、慌ただしい足音が聞こえてくる。
「──あら、ダリウスじゃないの!」
呼びかけたのは、年季の入った腕っぷしの強い料理係の女奴隷ビアンカ、
若い世代からは“おばちゃん”と呼ばれ慕われる古参の女だ。
「シリアへのお使いからやっと帰ってきたのかい? もう死んじゃったのかと心配してたんだよ!」
「おばちゃんは相変わらずだな。そう簡単には死なないから大丈夫だよ」
ダリウスが微笑むと、
ビアンカは目を細めて彼の顔をじろじろと眺めた。
「相変わらず綺麗な顔してるねぇ。
向こうの貴族様に可愛がられたんじゃないのかい?」
「仕事をしただけだよ。
……まあ、向こうの家の奥方連中には気に入られたけどな」
ダリウスが肩をすくめると、
ビアンカは「やれやれ」とため息をついた。
「まったく、あんたみたいな美形は苦労するねぇ。
ほら、さっさと行きな。
アンドリューが“帰ってきたらすぐ報告に来い”って言ってたよ」
その声に、
背後から低い男の声が重なった。
「──おい、ダリウス。
こんなところで何を油を売ってるんだ、アンドリュー様への報告は済ませたのか」
振り返ると、
中年の男アーヴィンが腕を組んで立っていた。
ダリウスより身分が上のため、いつも偉そうに振る舞っている男だ。
ダリウスは軽く眉をひそめた。
「分かってるよ。今行くところだ」
「なら急げ!
アンドリュー様は“待たされるのが一番嫌い”だからな」
その言葉に、ダリウスは苛ついたが、そのままアンドリューの部屋に向かった。
クラウディア邸の奥、静まり返った執事室の前に立つと、
ダリウスは一度だけ深呼吸をした。
彼が扉をノックすると、すぐに「入れ」と返事が返って来た。
ダリウスが扉を開けると、アンドリューは帳簿を閉じ、
冷たい灰色の瞳をこちらに向ける。
「無事に仕事を終え、帰って来ました。これはあちらから貰った報告書です」
アンドリューは頷きもせず、
ただダリウスの差し出した手紙を受け取り、
無言で目を通した。
「……そうか。
向こうの奥方は、お前を随分と気に入ったようだな。奴隷の貸し出し料金を上乗せするとある」
淡々とした声。
褒めているのか、値踏みしているのかダリウスには分からなかった。
彼は表情を崩さず、静かに答えた。
「仕事を評価していただけて光栄です」
「ふっ。まあいい。お前は“使える奴隷”だ。これからも期待しているぞ」
アンドリューはそう言って、手元の書類に視線を戻した。
ダリウスは胸の奥に小さな誇りを感じながら、
静かに一礼して部屋を出ようとした──
その瞬間。
「──ああ、そうだ。ダリウス」
アンドリューは書類から目を離さず、
淡々と告げた。
「イオは、もうこの屋敷にはいない」
空気が一瞬で凍りついた。
「……え?」
ダリウスは目を見開いた。
アンドリューはようやく顔を上げ、薄く笑った。
「クラウディア様のご決定だ。
イオは剣闘士のレンに送られた、今後は“あちら”で仕えることになった」
ダリウスの心臓が、どくん、と大きく跳ねた。
「……剣闘士……? レン……?」
アンドリューは肩をすくめる。
「お前がシリアに行っている間に、クラウディア様はカプアの剣闘士レンを気に入られ、パトロンになられた。そしてカエサル様が女奴隷をレンに送ると言われた時、自分で最高の奴隷を送ると仰ったそうだ」
ダリウスの拳が震えた。
「カエサル……」
アンドリューは椅子から立ち、ダリウスの肩に手を置いた。
「残念だったな」
ダリウスは怒りで拳をギュッと握り締めた。
「……アンドリュー……
あんた……言ったよな……
“あと数年すれば、イオと組ませるよう進言してやる”って……」
――“組ませる”
それは奴隷たちにとって結婚させるという意味ではない。
ローマには奴隷にヴェルナ(屋敷生まれの奴隷)と呼ばれる子を産ませ、
主人の資産を増やすための制度がある。
組ませるとは、その制度における“繁殖用の男女の番”を指していた。
結婚でも家族でもない。
ただの所有物同士の交わりに過ぎない。
だが、ダリウスはそれでもよかった。
イオと同じ屋敷で、共に働き、共に生き、
二人の間に、愛する子供が生まれれば、それで幸せだと思っていた。
アンドリューは不敵な笑みを浮かべる。
「安心しろ、まだ機会はある。剣闘士のレンが死ねば――イオは屋敷に戻って来る」
ダリウスの目が大きく見開かれる。
「っ! 本当か!?」
ダリウスの声が震えた。
アンドリューは肩に置いた手を、わざとらしく軽く叩いた。
「本当だとも。
……ただし、レンが死ねば、の話だ」
「じゃあ……そのレンって男が死ねば、イオは戻ってくるんですね!!」
アンドリューは鼻で笑った。
「そうだ。それに――レンという男はマニウス様に命を狙われている。恐らくすぐに死ぬだろう」
アンドリューはまるで天気の話でもするかのように淡々と告げた。
ダリウスは息を呑み――そして笑った。
「マニウス様に狙われてる……。それじゃあ、間違いなく死にますね!」
「そうだ」
アンドリューはダリウスの肩を軽く叩いた。
「だから──余計なことは考えず、黙って働け。
レンが死ねば、イオは自然とお前のところに戻る」
ダリウスの胸の奥で、一度は諦めかけた執着が、黒い炎となって再び燃え上がった。




