32 運命の夜
「――いらっしゃい、レンちゃん」
ファビアの細く鋭い目が、獲物を捕らえた肉食獣のように妖しく光る。
レンは蛇に睨まれたカエルのように、身体は完全に硬直させた。
「ふふ、わたくしの前では、若い子はみんな緊張してしまうのよね」
(それ緊張じゃなくて、恐怖や絶望だから!)
ファビアは妖艶に微笑むと、ベッドからその豊満な腰を上げ、レンの元へとゆっくり歩み寄る。
「怖がらなくて大丈夫よ。あなたよりも、若い子の扱いにも慣れているの。だから安心しなさい」
(安心出来るかぁぁ!)
レンは今すぐ逃げ出したかった。
だが、大貴族の圧倒的な権力に逆らえない。
今のレンの実力では、イオを連れて逃げることは勿論、たとえ一人で逃げても、逃げ切ることは不可能だった。
ファビアはニッコリとほほ笑み、白く肥えた両手でレンの頬を包み込み、引き寄せる。
(ヤバい、こいつキスする気だ!)
ファビアの顔が近づき、ねっとりとした香油の匂いに、レンは顔を引き攣らせた。
(うぇ、吐きそう)
ゆっくりと、しかし確実に、ファビアの肉厚な唇がレンの唇へと近づく。
(くそっ……俺のファーストキスが、
こんなババアに奪われるのか!!)
レンが絶望してぎゅっと目を瞑った、
――その瞬間。
『トントン』
部屋の空気を引き裂くノックの音が響いた。
「なんなのよ、今いいところなのに。不躾ね!」
あと数センチで極上のイケメンを“味わえる”はずだったファビアが、盛大に不機嫌な声を上げる。
重厚な木の扉が開き、一人の大男――
クリクススが堂々と姿を現した。
「失礼しますよ、ファビア様。……俺です」
ファビアが目を丸くする。
「クリクスス……!? あなた、どうしてここに?」
(クリクスス?)
レンが振り返ると、後ろに立つクリクススが不敵な笑みを浮かべた。
クリクススはファビアのお気に入りだ。
そのため外の守衛はクリクススの「ファビア様は必ず喜ぶ」との言葉を信じて通した。
彼は落ち着いた様子でレンの肩に手を乗せ、グイッと後ろへさがらせ、ファビアの前に進み出た。
「宴の席で、ディアナ様からレンを奪い取ったあなたを見て、俺も極上の女を奪い取ってやりたくなってね。
こうして我慢できなくなって来ちまった。……こんな青二才じゃ、ファビア様ほどの女を満足させられねえだろ? 今夜は、俺一人に相手をさせてくれないか」
昔から夜の相手をさせる事の多かった、大本命のクリクススから、そんなワイルドな“逆指名”を受けたファビアは、一瞬で顔を輝かせた。
「あらぁ、まああなた……。相変わらず野生の獣みたいに強引なんだから……。ふふ、仕方ないわね。
いいわ、レンは下がりなさい」
ファビアはすっかり上機嫌になり、レンの存在など一瞬でどうでもよくなった。そしてクリクススの腕に 勝手に寄りかかりながら、満足げに息をつく。
クリクススはその重みを受け止めつつ、ゆっくりと振り返り、
レンにだけわかる角度で 片目を細めてウインクした。
その表情には、
『俺に任せろ』という兄貴分の余裕 がにじんでいた。
(……く、クリクススさん!!
ありがとう、本当にありがとう!!
この恩、絶対に忘れません、一生恩に着ます!!)
クリクススはファビアに聞こえるよう、
わざと勝ち誇った声で言い放った。
「――そういうことだ。ファビア様は俺の女だ。さっさと出て行け!」
その言葉にファビアはますます上機嫌になり、
レンは深く頭を下げ、部屋をあとにした。
ーーーーー
控室を出た瞬間、レンの張りつめていた緊張がぷつんと切れた。
(……怖かった……
ほんとに……人生終わるかと思った……。
もし、クリクスス先輩が来なかったら……)
そう考えるだけでレンの視界が揺れ、背筋が凍りついた。
気づけば、レンはイオの待つ家へと走り出していた。
バティアトゥスの邸宅を飛び出し、エリートの居住区まで一気に駆け抜ける。
そして息を切らせながら、ようやく我が家の前まで辿り着いた。
勢いよく扉を開けると、
扉の前で待機していたイオがパッと顔を輝かせた。
「旦那様、お帰りなさいませ!」
だが――その笑顔は一瞬で消えた。
レンの顔色が、あまりにも酷かったからだ。
イオは一歩近づき、胸の前で手をぎゅっと握りしめた。
「……っ、あの旦那様……
その……無事……だったのですよね……?」
“選ばれなかったのですね”
と言いたかったが、イオは口にできなかった。
でも、彼女の目だけは必死にそれを尋ねていた。
レンはもう耐えられなかった。
「……イオ……!」
そのままイオに抱きついた。
イオは驚きで目を丸くしたが、
すぐにレンの背にそっと腕を回した。
「……大丈夫です……
ここは……旦那様の家です。
もう、怖いことはありません……」
イオの声は優しく、でもどこか震えていた。
レンは肩に顔を埋め、かすれた声で言った。
「……怖かった……
ほんとに……
もうダメかと思った……」
イオは小さく息を吸い、
レンの背中に回した手に力を込めた。
「よく戻ってきてくださいました。
旦那様が無事なら、わたくしはそれだけで……嬉しいです……」
普段は明るいイオが、一瞬だけ動きを止めた。
レンが他の女を抱いたのだと思った瞬間、胸がきゅっと締め付けられたのだ。
たが彼女は、それが嫉妬だとは気づかなかった。
レンはイオの肩に顔を埋めたまま呟く。
「危なかった……クリクススさんが俺と代わってくれたんだ。
……イオの顔見たら……安心した。無事に帰れて本当によかった」
イオの指先がぴくりと震える。
「……よかった……」
レンが他の女に汚されなかったことに、喜びの声が漏れた。
レンはイオの肩から顔を離し、イオの瞳を見つめた。
「……今日は……そばにいてくれないか……」
イオは頬を赤らめ、静かに迷いなく頷いた。
「はい。わたくしはずっと旦那様のそばにおります」
二人はベッドの端に並んで座り、
手を握ったまま、しばらく寄り添った。
やがて静けさの中で視線が重なり、
互いの唇がそっと触れ合う距離まで近づいていった。




