30 女性貴族たちの宴
紀元前77年11月下旬。
イオがレンの家に来てから既に十日が経っていた。
誰かが隣にいる生活にも、レンは少しずつ慣れ始めていた。
朝、冷え込んだ空気が家の石床に染み込み、吐く息が白く揺れるなかで、
レンは寝台の前に立ち、訓練用の腰布を手に持った。
「あっ、旦那様、お待ち下さい。わたくしがやります」
背後からそっと近づいたイオが、
慣れた手つきで腰布の端を受け取り、
レンの腰に巻きつけていく。
「イオ、ありがとう。でも自分でできるよ……」
「いいえ。旦那様のお手伝いをするのが、わたくしの務めです」
イオはそう言って結び目をきゅっと整え、最後に軽く手のひらで皺を伸ばした。
「……はい、これで大丈夫です」
「ありがとう、イオ」
レンが微笑むと、
イオはぱあっと花が咲くように顔を明るくした。
(うっ……。やべぇ、すげえ可愛い!
まだ出会って少しだけど、ドキドキが止まんねえ!
俺、彼女いない歴=年齢だし! イオは優しいし、美人だし、惚れない理由はないよな!!)
(でも……イオが俺をどう思ってるか、全然分からねえんだよな。
初めて会った時からずっと笑顔で接してくれてるし……。
そうだ! まずは褒めて反応を見ればいいんだ。それでついでに距離を縮めて……ぐふふ)
「あの、旦那さま?」
突然黙り込み、ニヤニヤし始めたレンに、イオは不思議そうに訊ねた。
「あ、ああ、ゴメンちょっと考えごとしてた」
レンは慌てて引きつった笑みを浮かべ、イオの方を向くと、モジモジしながら口を開いた。
「あ、あのさイオ……その……今日も……す、すごく……可愛いよ……」
レンは顔を真っ赤にして、言い終わると、さっと下を向いた。
一方、イオはきょとんと目を丸くしたあと、ぱあっと嬉しそうに微笑む。
「ありがとうございます!!
旦那様に“可愛い”とお褒めいただいたのは初めてです!!」
「イオ……」
レンが顔を上げた、その時。
コンコン、
と頑丈な扉が乱暴に叩かれた。
「おい、レン。いるか!」
大きな声と共に、執事のルキウスがずかずかと入ってきた。
「あ、ルキウスさん。おはようございます。今から訓練に行こうかと……」
レンが言いかけると、ルキウスは手を上げて制し、冷淡に告げた。
「今日の訓練には出なくていい。今夜オーナーの邸宅の大広間で、宴があるからお前も出席しろ。
これはオーナーの命令だ。ローマから有力な貴族の女性たちが、お越しになるから粗相のないようにしろ」
「えっ? 今夜ですか? それはどんなパーティーなんですか?」
レンが驚いて訊ねると、ルキウスは淡々と続けた。
「大貴族の皆様をもてなす宴だ。
お前は養成所の一流剣闘士になった、必ず出席しなければならない」
ルキウスはそれだけ言うと、すぐに部屋を出て行った。
レンはベッドの上に腰を下ろし、頭を抱えた。
セルギウスから教わった情報で、そのパーティーの本当の目的がすぐに分かったからだ。
(これ先輩が言ってたやつだ。
金持ちの女たちが“夜の相手”を品定めしに来る、男の品評会……。
この世界の俺はイケメンだし、絶対にヤバい。
初めてが知らない女なんて嫌だ。それにもし、ヤバい女に選ばれたらどうすんだよ……)
「あの旦那様、大丈夫ですか……?」
レンは凄い形相で、パッとイオの方を見た。
(変な貴族に初めてを捧げるくらいなら、今からイオに捧げたい! 悪いけど、もうイオの気持ちを考えてる余裕はない!)
「なあ、イオ。今からさ……。……その……俺と……どうかな……」
イオは一瞬、ほうきを
「……はい。旦那様に望んで頂けるなら、喜んでお相手をいたします」
イオはにこやかに微笑み、恥ずかしそうに頬を染め、そっと黒髪を耳の後ろへかき分けた。
最高級の奴隷として夜の教育も修めている彼女は、緊張に指先を少し震わせながらも、衣服の紐へと迷いなく手をかける。その瞳には、主人に身を捧げる純粋な忠誠と覚悟があった。
その健気で生々しい姿に、女性に奥手なレンは真っ赤になって慌てた。
「ご、ごめんやっぱり、今のナシ!
もうちょっと、イオに俺のことを知って貰ってからする!」
「……はい、旦那さま」
イオは少しほっとしたように、でもどこか残念そうに息を吐いた。
「……でも大丈夫なのですか? 旦那様は初めてはわたくしがよいと仰ってくださいましたが」
レンは少し考え、イオを安心させるように微笑んだ。
「大丈夫、夜の相手に指名されないようにすればいいんだよ。
例えば……そう、見た目を不細工に変装するとかどうかな。髪をボサボサにして、目まで伸ばして、根暗みたいな感じにするんだ」
(普段は地味な青年が、実は髪を上げればイケメンってのは王道だからな、きっといける!)
レンがブサイクにする手伝いをイオに頼むと、「はい、旦那様!」と明るく応じてくれた。
彼女の有能な手際により、レンの頭は見事なまでにダサく、根暗な髪形へとセットされた。
ーーー
夕刻。
バティアトゥス養成所の門前に、女性貴族たちを乗せた五台の豪華な馬車が到着した。
守衛たちが慌てて門を開くと、次々と馬車が門をくぐり抜ける。
やがて馬車は養成所の本館の建物の前で止まり、豪奢な衣装をまとった五人の女性が、それぞれの侍女に手を取られながら優雅に降り立った。
バティアトゥス夫妻が揃って玄関前に並び立ち、恭しく出迎える。
「ファビア様。ようこそお越しくださいました」
夫妻が真っ先に声を掛けたのは、四十代の女性貴族――ファビア・コルネリウス。裕福な体型に、猛禽のような細い目つきをした、最重要顧客だ。
「久しぶりね、バティアトゥス。今日は初めての子も連れて来たの。よろしく頼むわね」
「はい、ファビア様。お任せください。妻に案内させましょう」
バティアトゥスの隣で、
ドミティアがゆるやかに微笑んだ。
その仕草には“この場の女主人”としての余裕があった。
「お久しぶりでございます、ファビア様。どうぞ、わたくしにお任せくださいませ」
こうしてバティアトゥス夫妻が主催する、華やかな宴が幕を開けた。
女性たちが会場に入ると極上のワインと香油の匂いが満ち、
彼女たちを迎えるにふさわしい絢爛豪華な空間が広がっていた。
やがて、上座の長椅子に女性たちが着席し、バティアトゥスが会場の奥の扉を開いて声を張り上げた。
「本日の余興を彩る、20名の我が養成所の戦士たちでございます!」
バティアトゥスの声とともに、上半身裸の剣闘士たちが一列になって入場を始め、中央の広間に整列する。
女性たちが宴に剣闘士を呼ぶ理由は、夜の相手選びと肉体鑑賞だ。そのため剣闘士たちは腰布だけをまとい、油で光る筋肉と無数の傷跡を晒しながら、品評される像のように静かに立っている。
「まずは第一組の戦士たちを、皆さまにご覧いただきましょう!」
二十名の剣闘士は、あらかじめ決められた五人ずつの四組に分かれており、最初の五人がお立ち台に上がると、女性たちの視線が一斉に注がれた。
彼らは訓練で磨いた肉体を誇示するように、静かにポーズを取った。
すぐに三番目の組のレンの番がやって来た。
(……うわ、恥ずかしすぎる。マッスルコンテストに出場してる人ってこんな気分なのかな……)
レンは肩をすぼめながらも、決められた姿勢でお立ち台に立つしかなかった。
全ての剣闘士たちのお披露目が終わると、いったん全員が大広間から退出し、裏方の控え部屋へと向かった。
途中、レンは厠に寄ってから部屋に入った。
するとそこにはガリア派閥を率いる三人衆──
ヴェルコス、アラトリクス、クリクススがレンを待ち構えていた。
クリクススが豪快に笑いながら、レンの肩をバンと叩く。
「おいレン、さっきの顔。
お前、緊張しすぎだって。ガッチガチだったぞ」
「……わ、分かってます……」
友好的なクリクススとは違い、隣のアラトリクスは鋭い視線を向けた。
「おいテメェ、一流剣闘士の癖に、あんなもんでビビってんじゃねえぞ」
「あっ、はい! すいません」
「それになんだその髪型は。ダセえ頭しやがって、貴族の女を相手したくないのが見え見えなんだよ!」
「っ……!」
年長のヴェルコスが穏やかに笑ってレンの肩を持つ。
「まあそう言うな。レンはまだ若い。初めての夜会なんだから仕方ないだろ。それに貴族の女に接近したい剣闘士は大勢いる、問題はあるまい」
(……すいません。俺、中身は30歳のオッサンです)
レンは恐る恐る訊ねる。
「あの……ところで。俺たち、何時までこの部屋にいればいいんですかね?」
ヴェルコスは腕を組み、落ち着いた声で答えた。
「貴族の女たちの食事が終われば、剣闘士による余興試合が始まる。
だが余興に出るのは二流の連中だ、俺たち一流が出る必要はない」
「え、そうなんですか? じゃあ……僕たちはもう帰ってもいいってことですか?」
ヴェルコスは鼻で笑った。
「バカを言うな。余興が終われば女どもの“指名”が始まる」
クリクススが豪快に笑う。
「そこで選ばれなければ、まあ無事に解散ってわけだ!」
(じゃあ、選ばれたら……。うわっ、考えたくもねえ!)
やがて、女性貴族たちの食事が終わった。
二流剣闘士たちが余興の模擬戦を始め、その歓声が控室まで響いてくる。
(そろそろ試合が終わりそうだな……。
大丈夫、俺はモブだ。
モブの髪型にしたんだから、絶対に相手にされない筈だ……)
レンが必死に自分に言い聞かせていると──
控室の扉がノックされ、息を切らした若い奴隷が顔をのぞかせた。
「し、指名の時間です……!
剣闘士の皆さま、広間へ移動をお願いします!」
「よし、行くぞ」
「しゃあねえな。行ってやるか」
ヴェルコスとアラトリクスが立ち上がる。
クリクススがレンの背中を叩きながら笑った。
「レン、いつまでも緊張してんだ。心配しなくても当たりはたった5人しかいないぞ」
「はい……」
(うう……頼むから俺を選ぶなよ……)




