29 イオのお披露目
紀元前77年11月。
レンの所にイオが来て、2日後。
冬の冷涼な空気が漂うエリート長屋の一室で、
レンは朝の訓練へ向かうため、腰のベルトを締め直し、入り口へと向かう。
「じゃあイオ、行って来るね」
「はい旦那様、訓練頑張ってくださいね!」
イオは黒髪ロングの三つ編みを胸の前で揺らしながら、
両手を前で揃えて、にこっと無邪気に微笑んだ。
女性に奥手なレンは、
「旦那様」と呼ばれるたびに未だに少し顔が熱くなる。
(やっぱり可愛い……。
この人が俺の嫁だなんて、まだ信じられない。
……まあ、厳密には嫁じゃないけど)
レンはそんなバカなことを考えながらイオを見つめていた。
するとイオが不思議そうに首を傾げたので、
レンは「あ、うん。行ってくる」と頷き、
ドアを開けて家を出た。
中庭の訓練場では、朝から基礎体力・武器術・組手の三本立てで、
地獄のような訓練が続いた。
何度も砂に倒れ込みながらも、レンは必死に食らいつき、昼まで耐え抜いた。
やがてオエノマウス教官が、訓練の終了を告げる。
訓練後、いつものように井戸へ向かうと、
セルギウスが先に水で汗を流していた。
レンは手にした木剣をコツンと壁に立てかけ、隣に並んだ。
「セルギウス先輩、お疲れ様です」
「ああ、お疲れ。今日も随分としごかれていたな」
「ええ、まあ……」
レンは苦笑したあと、少し言いづらそうに視線を落とした。
「……あの、ちょっと話があるんですが……」
「改まってどうした、レン」
「実は……俺の部屋に、2日前からクラウディア様から贈られた“女奴隷”が来てるんです」
レンが真面目なトーンで告げると、
いつも動じないセルギウスが、一瞬だけ驚きに目を見開いた。
「……なるほど。レンのパトロンが試合で、100万デナリウスを儲けた話は有名だ。そのぐらいの褒美は出してもおかしくはないな」
「……はい。
なので先輩とリクトスたちには、俺の嫁、いえ奴隷を紹介しておこうかと思いまして」
セルギウスは面白そうに口元を緩めた。
「ふっ、あいつら驚くだろうな」
二人は上位者が使う訓練区画を離れ、
そのまま大きな訓練場の手前にある“一般剣闘士の区画”へ向かった。
一般剣闘士の区画では、今日のシゴキを終えた二人──タルトとリクトスが、地べたに座り込んで息を切らしていた。
「おいリクトス見ろ、レンたちが来たぞ!」
「あ、ホントだ!」
「おーい、レン! セルギウスさん俺達はここです!」
レンたちの姿を見つけるなり、二人は弾かれたように立ち上がって駆け寄ってきた。
「レン、一流になっても、僕たちのところに顔を出してくれて嬉しいよぉ!」
「相変わらずリクトスとタルトはいつも一緒だな。お前らもしかして、できてるのか?」
「はあ!? なに言ってんだよ、周りに誤解されるから変な事言うなよな!」
「そうだよレン、酷いよ!」
レンは笑いながら、『悪かったって』と両手を軽く上げて降参のポーズを取った。
「あのさ、今日は二人に言っておきたいことがあるんだけど……」
レンが言いづらそうにしているのを見て、
タルトとリクトスは「なんだなんだ?」と身を乗り出してきた。
「実はいま……俺の家に“女奴隷”がいるんだ」
一瞬の沈黙。
だが次の瞬間、訓練場に絶叫が響いた。
「「はあぁぁぁーーーーっ!? 女奴隷ぇぇぇっ!?」」
この閉ざされた養成所の奴隷社会では、
普通の女性を口説いて恋人にするなど絶対に不可能。
いるのは、オーナーの所有物である女奴隷だけだ。
女奴隷には大きく二種類ある。
共有の女奴隷と、特定の剣闘士に与えられた専属の女奴隷だ。
共有の女奴隷の場合、全ての剣闘士に“有料で”提供される。
養成所には“メリトリクス(娼婦奴隷)”が数多くおり、
彼女たちは剣闘士から 1回ごとに料金を取って利用される、
つまり養成所が管理する“性のはけ口”だった。
一方、専属の女奴隷。
それは──上位のベテランにだけ与えられる、特別な特権である。
ただし、専属の女奴隷の主に個室や家がない場合、
彼女は一般の女奴隷たちと同じ住まいで暮らすことになる。
「ちょっと待てレン! 一流に昇格したばかりなのに、もう女奴隷を貰ったのかよ!?」
タルトが羨ましすぎて、レンの肩をガタガタと揺さぶる。
「れ、レンがもうエリートの生活をしてる……!
うああん、この前まで僕たちと同じ牢屋で泥水すすってたのに、
本当に遠い世界の人になっちゃったよぉぉ!」
リクトスは格差の衝撃に、うそ泣きを始めた。
その様子を、セルギウスは腕を組んだまま、静かに温かい目で見守っていた。
「そんな訳でお前達に、俺の自慢の女を見せつけて、ゴホン。紹介しておこうと思ってな、今から俺の家来る?」
「いま、見せつけてっていったよな!」
「ふざけんな!」
レンはきょとんとした顔で訊ねた。
「え? じゃあ来ないの?」
「行くよ!」
「いくに決まってんだろ!!」
レンは苦笑しながら「じゃあ行こうか」と返事をし、
セルギウスも「少し付き合おう」と短く応じ、歩き出した。
エリート地区の入口で守衛ティモンの検問を受けたあと、四人は居住区へと足を踏み入れた。
静かな路地を進み、レンの家の前で立ち止まる。
レンが鍵を差し込み、カチャリと音を立てて開けると、木製のドアがゆっくりと押し開かれた。
「ただいま、イオ」
リクトスたちが部屋に足を踏み入れた瞬間、甘く清潔な香油の香りが鼻をくすぐった。
掃き清められた一室のベッドの傍らで、主人の帰りを待っていたイオが、弾かれたように立ち上がり、振り向いた。
「おかえりなさいませ、旦那様!」
絹のように滑らかな肌。
夜の闇を溶かしたような美しい黒髪ロング。
息を呑むほど整った神秘的な美貌。
「「…………っ!?」」
ドアのところでタルトとリクトスが、立ち止まって完全にフリーズした。
驚きのあまり声も出ず、ただ目を見開いて硬直している。
その背後で、セルギウスだけは、静かにイオを観察していた。
元軍人の鋭い審美眼は、彼女が“ただの奴隷”ではなく、ローマの貴族ですら滅多に手に入れられない「最高級の宝石」であることを一目で見抜いていた。
イオは見慣れない男たちの突然の来訪に、一瞬だけ身を固くしたが、すぐに彼らがレンの仲間だと気づいた。
ほっと表情を和らげると、両手を前で揃えて、にこやかに微笑んで一礼した。
「お初にお目にかかります。クラウディア様より命じられ、旦那様にお仕えしておりますイオと申します」
鈴を転がすような美しい声が、静かな部屋に響く。
その瞬間、固まっていたタルトの顔が引きつった。
「……お、おいリクトス。今、このとんでもない美人、レンのことをなんて呼んだ?」
「だ、旦那様……って、言ってた、よね……?」
我に返ったタルトが、猛烈な勢いでレンの肩を掴んで揺さぶり始めた。
「おいレン! 囲ってるだけでも羨ましすぎるのに、なんだよその『旦那様』って呼び方は! お前、女性に奥手だって言ってた癖に、クソっ。羨ましすぎるぞ!」
「わ、わかった! レンは格好いいから、クラウディア様を誑かして褒美を貰ったんだ! うああん、レンがどんどん僕たちの手の届かない悪人になっていくよぉぉ!」
リクトスは地団駄を踏み、悔しがる。
「いや、誑かしねえし、悪人でもないからな……」
そんな男たちの騒ぎを、イオは微笑みながら見守る。
「お前達、イオが呆れてるじゃないか。すまないイオ。こいつはリクトス、あっちはタルト、そしてこちらはセルギウス先輩だ」
イオはタルトとリクトスに、にこっと微笑んで頭を下げた。
「タルト様、リクトス様、セルギウス様。
旦那様がいつもお世話になっております。
……もしよろしければ、ハチミツ水をご用意しましょうか?」
「「えっ……!? ハチミツ水!? 俺たちに!?」」
イオは嬉しそうに頷く。
「はい。旦那様の大切な仲間ですから」
「……レン……お前……天国に住んでるのかよ……?」
タルトとリクトスは崩れ落ち、
レンは勝ち誇ったように胸を張った。




