28 黒髪黒目の美少女イオ
ガリア派閥の歓迎会から、1週間。
レンは今日も朝から昼過ぎまで、訓練場でオエノマウスの厳しい指導を受ける。
「ほらレン! また遅れ始めてるぞ!」
「っ……はい!」
レンは息を切らしながら、必死に足を動かした。
レンは一流剣闘士に昇格したため、
これまでの三流剣闘士を相手にした訓練から、
一流や、二流の上位者を相手にした訓練に変わっていた。
特に――上位者同士の模擬対戦は、想像以上に厳しかった。
レンが強者になれるのはスキルの使用時間だけだ。
その間は一流剣闘士と互角に戦える。
だが──
その時間が短すぎた。
そのせいで、周囲の評価は微妙なものになりつつあった。
「瞬発力はあるが、長続きしない」
「時間が経つとすぐに弱くなる」
「長期戦になれば下位の中堅でも勝てるレベルだ」
そんな噂が、訓練場のあちこちで囁かれていた。
(……まあ、言われても仕方ないよな。スキル切れたら俺、ただの雑魚だし……)
訓練を終えたレンは、訓練場の隅にある井戸で冷たい水を汲み、ざばっと頭から浴びた。
汗と砂埃を流し落とすと、ようやく一息ついて体が軽くなる。
「ふう、今日もいい汗かいたな……」
「レン、今日も水浴びか?」
後ろを振り向くと、セルギウスが立っていた。
「あっ、セルギウス先輩、お疲れ様です」
「お前なら一番に養成所の大浴場に入れるだろ。風呂の方がもっとさっぱりするぞ」
本来なら、一流剣闘士になった今、レンは真っ先に大浴場へ行ける立場だ。
訓練後の入浴の順番は厳格である。
はじめに一流の時間帯、
次に二流の時間帯、
そして三流以下の時間帯、
と決められている。
上位の者が下位の時間に入るのは許されるが、
逆は絶対に許されない。
「まあ、そうなんですけどね……その、一流の先輩たちと一緒はちょっと……」
(……セウテスやクリクススと一緒に風呂とか絶対無理。クリクススなんて絶対体触って来そうだし……)
セルギウスは苦笑した。
「レンは、妙に気が小さいところがあるな。なら、あとで俺と一緒に行くか?」
「そうですね……。でも今日は止めときます。また今度一緒に行きましょう」
「……そうか、分かった」
結局、レンは今日も温泉には向かわず、井戸水だけで済ませた。
濡れた髪を手で払いながら、レンはエリート居住区の門をくぐり路地を歩く。
これまでと違い、家でゆっくり休めると思うだけで、足取りは自然と軽くなる。
(あー、疲れた。今日は早くベッドにダイブして、新スキルのレベルアップの計画でも考えよっと)
そんなふうに内心でほくほくしながら、居住区の中央付近にある【十三番目】の家の前で立ち止まる。
腰布から真鍮の鍵を取り出し、いつものように頑丈な木の扉の鍵穴に突っ込んだ。
ガチャリ──と、手慣れた動きで鍵を回し、そのまま扉を押す。
(……ん? なんで?)
扉はびくともしなかった。
(もしかして鍵を閉め忘れてて、いま閉めたか?)
もう一度、今度は逆向きに鍵を回す。
カチリ、と軽い手応え。
レンが押し開けた、その瞬間だった。
(……え? な、何ごとっ!?)
レンの体は、その場で固まった。
部屋の中は、この数日で散らかした、汚い部屋ではなかった。
床の石畳は隅々まで磨かれ、机の上はチリ一つない。
奥のタンスには、数少ない衣服が信じられないほど綺麗に畳まれて収められている。
ベッドの大きなクッションも、まるで貴族の寝室のように整えられていた。
そして──
そのベッドのシーツを、必死に引っ張って整えていた人影が、扉の音に気づいて弾かれたように振り返った。
「あっ、おかえりなさいませ!」
(え、誰!? 日本人!? いや中国人か?)
現れたのは、パトロンのクラウディアがレンに送った女奴隷。
黒髪黒目の美少女イオだった。
「えっと……君は?」
イオは両手を前で揃え、深く頭を下げた。
その拍子に左胸に垂らした細い三つ編みが、ふわりと揺れた。
「お初にお目にかかります、レンさま!
わたくし、クラウディア様に命じられ、今日からレンさまの身の回りのお世話を務めます、奴隷のイオと申します!
夜のお世話も申し付けられておりますので、どうぞよろしくお願いいたします!」
(は? 夜のお世話? それってまさか……え、マジで!?)
レンが硬直していると、イオは不思議そうに首を傾げる。
「もしかして、レン様ではありませんでした?」
イオは首を傾げたまま、少し不安そうに黒い瞳を上向かせた。
「あ、いや! レンです!
俺がレンです! 間違ってないです!!」
女性、特に美女に極端に弱いレンは、
美少女に見つめられただけで顔を真っ赤にし、大慌てで両手を振った。
「わあ、よかったぁ!」
イオはパッと花が咲いたような笑顔を浮かべ、ほっと胸をなでおろした。
「ルキウス様から予備の鍵をいただいて先にお部屋に入ったんですけど、なんだか緊張してじっとしていられなくて……。勝手にお掃除を始めてしまったから、違う方のお部屋だったらどうしようってドキドキしちゃいました」
少し照れくさそうに笑うその姿は、まるで新しい主人に捨てられないか怯える、従順な子犬のようだった。
しかし、レンの頭の中は、それどころではなかった。
(この子……めちゃくちゃ可愛い! ストライクゾーンど真ん中だよ!
クラウディア様、本当にありがとうございます!!)
レンはもう一度、イオの姿を頭からつま先まで凝視した。
(見た目はほぼ、黒髪ロングの日本人の美少女じゃん! っていうか『夜のお世話』ってことはこの子と……)
――ゴクリ。
前世で三十年間童貞だったレンの魂は、目の前の極上の獲物にガタガタと震え出していた。
「あの……レンさま?」
再び固まってしまったレンの顔の前で、イオが手をパタパタと振った。
間近から漂う甘い香りに、レンは慌てて一歩後ろに飛び退いた。
「あっ、ごめん! ちょっとびっくりしちゃって……。ええと、イオちゃん……だっけ?」
「はい! イオとお呼びください!」
「……うん、よろしく。あ、あのさ、その『夜のお世話』っていうのはどういうこと……?」
レンが恐る恐る核心に触れると、イオは素直に、そして少し抜けた様子で小首を傾げた。
「はい、クラウディア様からは、レンさまが快適に過ごせるようお仕えし、夜も寝所をご一緒するようにと、厳しく仰せつかっておりますが……。あの、わたくし、何か間違ったことを言いましたでしょうか?」
(間違ってない! たぶん予想通りです、よろしくお願いします!!)
レンは心の中で叫びながら、必死に興奮を抑える。
「あの……イオさんは大丈夫なの……。俺とするの……ほら……初めてとか……」
イオは首を傾げる。
「初めて……? レン様は初めてなのですか?」
「えッ……あ、うん。……実は、そうなんだ……」
イオは胸に手を当て、どこか誇らしげに微笑んだ。
「大丈夫です。わたくしにお任せください!
これまで、多くの貴族の方にお仕えしてまいりました。
初めての方はおられませんでしたが、心得は十分です!」
「え? ……そっか……イオは……初めてじゃないんだ……」
レンがガックリと肩を落としたのを見て、イオは申し訳なさそうな顔で黒い瞳を揺らした。
「あの……もしかして、初めての女性の方がよろしかったでしょうか?」
「あ、いや! そうだったら嬉しいってだけで……、別にこだわってるとか、そういうことじゃなくて……!」
レンは慌てて手を振り、顔から火が出るほど真っ赤になりながら、しどろもどろになって言い訳を並べた。
一方、イオは目の前の新しい主人が、本当は『非処女の奴隷なんていらない』と自分を部屋から追い出したいのだと思った。
クラウディアと交わした『十年後に自由の身にする』という、人生唯一の希望の糸が切れるの感じた。
「……ごめんなさい、レンさま」
イオはぎゅっとチュニックの裾を掴み、小さく肩を震わせた。
さっきまでの明るい笑顔が嘘のように消え、その顔には奴隷としての深い諦めと悲しみが混ざっている。
「わたくしのような傷物が、レンさまの初めての相手では不釣り合いですよね……。クラウディア様のところへ戻って、初めての女性と替えてもらえるように頼んでみます……」
イオは今にも泣き出しそうな声でつぶやき、トボトボとした足取りでドアへ向かった。
その健気で、どこか痛々しい背中を見た瞬間、レンの頭の中で暴走していた“焦りと混乱”は、すっと冷めていった。
(何やってんだ俺は、めちゃくちゃいい子じゃないか!!)
「待って! ……俺の初めては君がいいから……」
レンの言葉に、イオの足がピタリと止まった。ゆっくりと振り返る彼女の瞳には、大粒の涙がたまっている。
「レン、さま……? でも、わたくしは……」
「さっき俺が慌ててたのは、君が嫌だったからじゃないんだ。ただ、その……心の準備ができてなくて、パニックになってただけだから」
レンはイオの元へ歩み寄った。
そして、怯える彼女を安心させるように、その小さな両肩をそっと包み込む。
「ただ……その……。実際の行為は、もう少し待って欲しいんだ」
「え……?」
イオは不安そうな表情でレンを見つめる。
レンは少し照れくさそうに頬を掻きながら、まっすぐに彼女の目を見つめた。
「俺……君のことをちゃんと好きになって、ちゃんと向き合って……その先に進みたい。……それじゃ、ダメかな」
それは、奴隷であるイオにとっては考えもしない、あまりにも誠実な言葉だった。
自分の体を差し出すことが当たり前だと思っていた彼女の胸に、温かい光が差し込んでいく。
「ご主人さま……」
ぽろぽろと、我慢していた涙が彼女の頬を伝い落ちる。
今度は悲しみではなく、嬉しさと救われた安心感の涙だった。
「っ……はい……っ! ありがとうございます……! 喜んで、お待ちします……!」
イオは嬉しさで胸をいっぱいにしながら、レンの胸へと飛び込んだ。レンは愛おしさを噛み締めながら、彼女の背中を優しく何度もさすった。




