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03 レンが剣闘士になった理由

試合が終わると、レンは退場口から広間の待機所へと戻った。


この後すぐ地下牢の個室に戻ることになる。試合後すぐに剣闘士を地下牢へ押し込むのは、暴動や逃亡を防ぐための闘技場の鉄則だ。


レンは勝ち取った銀貨の入った革袋を、待機所にいるオエノマウス教官に差し出した。


貰った報奨金の全てがレンの物になる訳ではない。法律上、この金は剣闘士養成所のオーナーの金なので、一度全額を渡す必要がある。


本来はオーナー自身が受け取るのだが、今回オーナーのレントゥルス・バティアトゥスは不在だった。

彼はカプアで200人以上の剣闘士を所有する大物で忙しいのだ。そのため、現場を仕切る最高責任者であるオエノマウス教官が受け取っていた。


「……ふん。初戦にしては上出来だったぞレン。バティアトゥス様への報告も、少し色をつけておいてやる」


教官は革袋から銀貨をつまみ出し、その中から俺の取り分として銀貨2枚を抜き取って手のひらに押し込んだ。残りの3枚はオーナーの懐に行くことになる。


「これはお前の特有財産ペクリウムだ。丁重に仕舞っておけ。……この金で支給品以外の食べ物や道具を買うことができる」


やり取りが終わると、武装した監視兵たちがレンを迎えに来た。

彼らに連行され、地下の個室へと向かう。


後ろで広間との境にある厚い木格子の扉がバタンと閉まり、遠ざかる。

この時代の鉄は貴重なので、闘技場の入り口の鉄のゲート以外は殆どが硬い木で出来ていた。


レンは地下で、薄暗く分厚い木格子の牢の中に入れられた。

隣の牢屋に入っている人がもろに見えるが、一応は個室だ。


部屋の中には、薄汚れた藁のベッドと、水の入った瓶があるだけだった。


(はぁ……これじゃまるで囚人だな。いや同じようなものか)


レンがふと手元に目を落とすと、指先が小刻みに震えていた。


(これ……初めて人を殺したから?)


レンは気づいていなかったが、闘技場にいた時からずっとこうだった。


この指先の震えが、人を殺したことへの罪悪感なのか、それとも命が危険に晒されたことへの恐怖なのか、レンには分からないかった。


レン自身には、脳内に出ているアドレナリンのせいで不思議なほど、そのどちらも感じていなかった。


だが――やがでレンの良心が『人を殺して何も思わないのか!』と激しく訴えかけた。


(違う! 俺たちは正々堂々と闘技場で戦っただろ! お互いに命を懸けた試合だった!)


自分の心に殺人への正当性を主張し、言い訳をした瞬間、レンの胸の奥で何かが弾けた。


(というかさ! いきなり闘技場に転生させたのは神様だろ! どう考えても神様が悪い! 俺は悪くない! 一番悪いのは神様だ!!)


その後も、レンは考えつく限りの言い訳を、自分の心に言い聞かせた。

暫くしてアドレナリンが切れ、レンは急に疲れを感じ、藁のベッドの上に腰を降ろした。


 レンは握り締めていた手を開け、掌の上の2枚のデナリウス銀貨を見た……。


(1枚が普通の労働者の日当1日分らしいから、現代感覚で言えば約2〜3万円といったところか……)


レンは命懸けの戦いの、値段の安さに心が虚しくなった。


(……自由を買い取るには、最低でも銀貨が1,000枚は必要らしい。

……でもまずは今を生き延びないとだよな……)


 レンは、脳内でHELPを開いた。


《ポーン――はいはい、サポートセンターのAIですよ。レンさん、また何か質問ですか?》


レンはAIの軽さに一瞬でぶち切れる。


「はあ!? なんでお前そんなに軽いんだよ! こっちは命がけで戦って来たんだぞ!!」


《お静かに! 周りに変な目で見られていますよ! 心の中で呟いてください!》


 ハッと我に返り、周りを見ると、隣の部屋の黒人の剣闘士セルギウスが木格子の向こうからレンをジッと見ていた。


すぐに立ち上がり、頭を下げる。

「すいません! 静かにします」


ついうっかり大声を出して喋ってしまった恥ずかしさで、レンは頭を掻いた。


(変な独り言を呟く危ない奴だと思われたよな……)


「まあ、気にするな」


 セルギウスは藁のベッドの上に腰をおろしながら、不敵に笑った。


「同じ養成所の仲間だ。初めての試合をよく生き残ったな。普通は15歳でデビューはしないものだ。しかも、手渡されたのはあの錆びたグラディウスと、お守り程度のバックラー(丸盾)だけだったんだろ?」


「あ……はい。死ぬかと思いました。相手が弱くて助かりました……」


 レンが何とも言えない顔をすると、セルギウスはふっと目を細めて、レンの手元に握られた2枚のデナリウス銀貨を見つめた。


「教官から2枚も、もぎ取ったか。悪くない。きっとデビュー戦だからサービスしてくれたんだな。だがなレン、その金をすぐに食べ物に変えるなよ。この闘技場の地下で売られている大麦粥や果物は、地上の5倍の値段でふっかけられる。バティアトゥス様の養成所に帰るまで、その銀貨は絶対に手放すんじゃないぞ」


「物価が5倍……。こんなところまでぼったくりなのか……」


現代日本のスタジアムの売り子どころではない悪質な商売に、レンは思わずため息をついた。


「ふっ、地獄の沙汰も金次第だからな。その2枚は大事に持っておけ」


セルギウスはニカッと白い歯を見せて笑い、そのまま自分の藁ベッドにゴロリと寝転がろうとした――が、ふと何かを思い出したように動きを止め、再びレンに鋭い視線を向けた。


「……なぁレン。さっきも言ったが、普通は15歳のガキがこんな遠征先の興行でデビューなんてしねえんだ。お前、養成所で誰かに恨まれるようなことでもしたのか?」


「え……? 恨まれる、ですか?」


「ああ。あの鬼のオエノマウス教官が、オーナーのバティアトゥス様の許可なく勝手に奴隷を試合に出すわけがない。お前をこの地獄に放り込んだのはオーナー自身だ。ろくに訓練も受けてねえガキを前座の捨て駒にするなんて、明確な『間引き』か『嫌がらせ』以外に考えられねえんだよ」


セルギウスの言葉が、冷たい石牢の中に重く響く。


(嫌がらせ……? 間引き……?) 


レンは慌てて、脳の奥底にある『元のレンの記憶』を必死に手繰り寄せた。


セルギウスの言葉をきっかけに、レンの脳裏に濁流のような記憶が溢れ出してきた。それは、この身体の本来の持ち主――十五歳の少年レンが刻んだ、愚かで、あまりにも致命的な過ちの記憶だった。


(ま、待て……思い出したぞ。俺がここへ売られた理由……!)


二年前。

レンは十三歳の時、カプアの有力貴族であるマニウス・アントニウス・バルバトゥスという男の館で働いていた。


レンの仕事は、マニウスの九歳の一人娘であるルクレティアの「専属奴隷」だった。


ルクレティアは少し我儘だが、人形のような可愛い金髪の少女だ。


問題はレンが黒髪黒目のイケメンだったことだ。


世間知らずの幼い貴族令嬢が、年上の少年奴隷に恋をするのに時間はかからなかった。


ルクレティアは、いつも影のように寄り添ってくれ、優しく微笑むイケメンのレンに、いつしか淡い恋心を抱くようになったのだ。


だが、前の人格のレンは決して純粋な少年ではなかった。記憶の中の彼は、自分の立場を冷徹に計算していたのだ。


(お嬢様に気に入られて『恋人ごっこ』の相手をしていれば、辛い労働を免れる。美味い飯が食える。上手くいけば、いつか自由の身にしてもらえるかもしれない……!)


そんな打算まみれの甘い生活は、長くは続かなかった。一年前、二人が人目を盗んで手を握り合い、愛を囁き合っていた現場を、よりにもよって父親であるマニウスに見つかったのだ。


プラトニックな関係だったが、高貴な血筋を汚されたと激怒した貴族の怒りは、凄まじいものだった。その場で打ち首にされてもおかしくない状況だったが、マニウスはあえて一瞬で死ねる慈悲を与えなかった。


『そのガキを、剣闘士の養成所に叩き込め。泥水をすすらせ、最も残酷な見世物として、じわじわと苦しみながら死なせてやれ』


そうしてレンは、処刑の代わりに剣闘士として売り飛ばされたのだ。


(う、嘘だろ! ちょっと待て!!)


藁のベッドの上で、レンは頭を抱え、心の中で絶叫した。


(何やってんだよ前のレン!! 貴族のお嬢様と恋愛ごっこって!!

しかも純愛じゃなくて100%打算じゃねえか!!)


あまりの身勝手な動機と、その結果として残された特大の負の遺産に、レンは眩暈めまいがしてくる。


つまり、今回の唐突なデビュー戦は、ただの不運ではなかった。

オーナーのバティアトゥスは、貴族のマニウスから裏で金を積まれたか、あるいは圧力をかけられて、レンを『合法的に処理』しようとしたのだ。


「……おい、レン? 顔色が真っ青だぞ。なにか心当たりがあるみたいだな」


鉄格子の向こうから、セルギウスが面白がるような、だがどこか憐れむような視線を向けてくる。


「はは……まぁ、ちょっと、貴族に恨まれてるようです……」


レンは力なく笑うしかなかった。


「そいつは……まあ大変だな。頑張れよ」


セルギウスは同情混じりの苦笑いを浮かべると、それ以上は詮索してこなかった。これ以上首を突っ込んでも、陰謀に巻き込まれるだけで自分にメリットがないと分かっていた。


「じゃあな、レン。俺は試合に備えて一休みする。お前も無駄に頭使ってねえで、今のうちに少しでも体力を戻しておけよ」


セルギウスはそう言うと、藁のベッドにゴロリと寝転がり、すぐに壁を向いてしまった。


「……はい。ありがとうございます、セルギウスさん」


レンは静かに応え、自分の藁ベッドへと腰を降ろした。

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