25 レンの昇格
ローマからカプアへの五日間の旅路を終え、レンはバティアトゥス養成所へと帰還した。
馬車から降り、僅かな荷物を持って、カビと汗の臭いが染みついた自分の牢屋のある建物に足を踏み入れる。
通路を進み、自分の部屋に向かっていると、レンに気づいたリクトスとタルトが、自分たちの牢屋から出て、弾かれたように駆け寄ってきた。
「レンッ、おかえり!!」
「おい、レン! 無事だったんだな!」
その後ろからは、無口なセルギウスも安堵の色を浮かべて歩いてくる。
「……みんな、ただいま。なんとか生きて戻ったよ」
レンが静かに答えると、タルトは興奮のあまりレンの体をペタペタと触って確かめ、リクトスも同じくペタペタと触る。
彼らは、レンがどんな地獄に放り込まれたのか知らない。
「よかったぁ……! 怪我が治ったばかりなのに、興行に出されたから心配してたんだよ! で、試合はどうだったの? 怪我はしてないみたいだけど」
「うん、怪我はないよ。……ただ、試合はちょっと面倒だった。
ベテランの獅子兄弟って奴らと、二対一のデスマッチをやらされてさ……」
「……はぁ? 二対一の、デスマッチ!?」
リクトスとタルトの動きが止まり、顔から血の気が引いた。
無口なセルギウスでさえ、目を見開いて絶句している。
「お、お前……一人で二人を相手して勝ったのか……!」
タルトが聞き返すと、
盗み聞きしていた周囲の剣闘士たちも、ざわつき始めた。
その時だった。
入り口のドアをガンガンと叩く音が響く。
「おい、三流剣闘士のレン! いるか!」
現れたのは、バティアトゥス養成所の執事、ルキウスだ。
「はい! ここです!」
「オーナーがお呼びだ。今すぐ執務室へ来い」
レンはルキウスの後ろに続き、オーナーのバティアトゥスの執務室へ向かった。
部屋に入った瞬間、恰幅の良いオーナー、バティアトゥスが両手を広げて極上の笑みで迎える。
「おお、帰ったか、我が養成所の若き獅子よ!」
本来、バティアトゥスは、マニウスの命でレンを殺す必要がある。
そのため試合でレンが死ぬことを望んでいた。だが、今回、レンが生き延びた時に稼ぎ出す、大金の味を覚えた。
そして思った。
『死んでもいい剣闘士に無茶な試合をさせれば、もっと金が稼げる』
だが、養成所の運営のためには、レンや他の剣闘士たちに悪意を向けられては困る。
だからこそ、バティアトゥスは“慈悲深いオーナー”を演じる必要があった。
「既に分かっていると思うが、私はマニウス様には逆らえない。今後もマニウス様の命で、お前には過酷な試合をさせてしまうだろう」
「……はい」
レンが否定しないのを確認したバティアトゥスは、ひと呼吸置き続ける。
「お前の名声はローマでのデスマッチにより跳ね上がった。……だが、まだ一流剣闘士の名声には、少し届いていない。分かるか?」
「はい……」
(今回の昇格は二流剣闘士までってことだな……。ワンチャン、一流剣闘士への昇格も期待してたけど)
レンが残念そうに返事をしたのを見て、バティアトゥスはニヤリと笑う。
「だがな――私は寛大な男だ。お前の境遇を考慮してやる。少し早いが、お前を一流剣闘士に昇格させる」
(おおっ! じゃあ俺は最高ランクになるってことか!!)
「本当ですか!」
「ああ、本当だ。あの薄汚い大牢屋から出し、ちゃんとした部屋も与えよう」
(よっしゃ〜!)
バティアトゥスはそう言うと、机の上に置いてあった真鍮製の大きな【鍵】を一本つかみ取り、レンの前に放り投げた。
「今日からお前を、我が養成所の十二番目の『一流剣闘士』とする。
そして一流剣闘士だけが住む居住区の、十三番目の家がお前の新しい住まいだ。これからは普通の人間と同じように、鍵付きのまともな部屋で暮らすがいい」
(おおっ、やっと囚人の牢屋みたいな個室から出て、本物の個室を貰えるのか!!)
「ありがとうございます、バティアトゥス様!!」
レンは頭を下げて礼を言うと、真鍮の鍵を拾い上げ、握りしめた。
(ヒャホー!! これで周りを気にせずに、いろいろ出来るぜ!!)
「レン、これからもデスマッチなど、厳しい試合が組まれるが、頑張って生き延びるのだぞ」
「はい! お心遣いに感謝します!」
執事のルキウスが、後ろからレンに声を掛ける。
「レン、荷物を持って広場に来い。私が家へ案内しよう」
「はい!」
レンが短く答えると、ルキウスは一足先に執務室を出て、レンがあとに続いた。
レンは自分の牢屋に戻り、セルギウスたちに昇格の件を伝えながら数少ない私物をまとめ始める。
すぐにリクトスたちから羨望の入り混じった声が上がった。
「レン、本当! それが家の鍵なの!?」
「お前、もうエリートの仲間入りかよ……! 本当、すげえよな!」
無口なセルギウスも、小さく頷きながらレンの肩をポンと叩いた。
「おめでとう。荷物運びを手伝おう」
「セルギウス先輩、ありがとうございます……」
セルギウスが軽く笑い、首を振る。
「……お前はもう一流剣闘士だ。先輩なんて呼ぶな。セルギウスでいい」
「いえ、俺たちの関係はこれからもずっと同じです。先輩は俺の先輩です! リクトスとタルトも同じだ、それでいいよな」
レンがそう言うと、三人は顔を見合わせた。
タルトが最初に勢いよく頷いた。
「もちろんだ! レンがエリートになっても、俺たちは仲間だ!」
「レン……嬉しいよ。レンがここから出て行くのは寂しいけど……」
セルギウスは短く頷いた。
「……なら、これまで通りだ。よろしくな、レン」
「はい!!」
四人は荷物を持って広場へ向かい、そこで待機していたルキウスの案内でエリートの居住区へと移動した。
エリート地区に入る門には、槍を持った守衛奴隷のティモンが立っていた。
ティモンはレンたちの姿を見るや否や、槍を構えた。
「ここはお前達が近づいてよい場所ではない。立ち去れ!」
だが、ティモンはルキウスの存在に気づいた瞬間、表情を強張らせた。
「失礼しました! ルキウス様がおられるとは気づきませんでした!!」
ルキウスは軽く顎をしゃくった。
「ティモン、通せ。今日からこのレンは一流剣闘士だ」
ティモンは慌ててレンに頭を下げた。
「し、失礼しました……どうぞお通りください、レン様! どうか無礼をお許し下さい!」
「うん、大丈夫、気にしなくていいよ」
「ありがとうございます!」
レンが平然と通り抜ける後ろで、リクトスたちが声を潜めて興奮を爆発させる。
「す、すげえ……! レン、あの威張ってた守衛がビビってたよ!」
「これが『エリートの権威』か……。ハンパねえな」
レンがエリートの居住区に入ると、中央の路地に沿って、左右に石造りの一戸建の家が並んでいるのが見えた。
どの家も同じ作りで、間口が狭く奥行きが長い。いわゆるウナギの寝床のような家々だ。
中央の路地を進み、一番目と二番目の家の前を通りかかったとき、中から女たちの華やかな笑い声が聞こえてきた。
執事のルキウスが立ち止まる。
「レン、ここはカプアの王者、セウテスの家だ。彼には特別に二つの家が与えられ、女奴隷を五人囲っている。命が惜しければ、道でセウテスの女たちと、すれ違っても面倒を起こすなよ」
リクトスがゴクリと喉を鳴らし、声を潜める。
「ここがあのセウテスの家……」
「さすがセウテスだ。女を五人も侍らせてたのか……」
ルキウスが鼻で笑う。
「勘違いするな。セウテスには他にもう二人の女がいる。その二人は養成所の外に住んでいて、交代でセウテスの子供たちを育てているのだ」
(え、マジかよ!! トップスターの剣闘士になれば、マジモンのハーレムが作れるのか!!)
レンが興奮気味に訊ねる。
「……あの、トップの剣闘士になれば子供が持てるのですか!?」
「……それはオーナー次第だ」
ルキウスが深く息を吸った。
「レン、ローマでは奴隷が奴隷を持つことはできない。
お前が金を出して女奴隷を買ったとしても、所有権はバティアトゥス様のものとなる。
そのため女に子が出来ても、産ませるかどうかを決めるのもバティアトゥス様なのだ」
「……では、全てバティアトゥス様のお考え次第と言うことですか?」
「そうだ。……だが、お前が子供の生活費を負担するなら許可は出るだろう。産まれた子は、例外なくバティアトゥス様の奴隷となるからな、バティアトゥス様にとって損のない話だ」
(なにそれ。じゃあセウテスの子供も奴隷だってこと?)
「おいおい、下っ端の剣闘士がなんでこんなに大勢きてるんだ。ここは一流剣闘士の居住区だぞ」
路地の奥から、ずっしりとした威圧感のある声が響いた。




