24 カエサルとクラウディア
紀元前77年11月。
ローマ クラウディアの邸宅
十一月の冷涼な朝の光が、二階の大きな寝室に静かに差し込んでいた。
「クラウディア様。朝でございます」
「ん……おはようアンナ」
寝室に女奴隷たちが次々と入り、手慣れた動きで朝の支度を始める。
部屋の中は、まだ昨晩の男女の営みの名残が漂っていた。
ベッドの乱れたシルクのシーツに、床に投げ出されたままの豪奢なトガ。
「カエサルはそのまま休ませておいてあげて。アンナとレナは、わたくしの身支度を」
「はい、クラウディア様」
クラウディアはカエサルをベッドに残し、姿見(鏡)の前へと向かう。
ベッドの上では、かつての恋人(愛人)と、昨晩、久しぶりに逢瀬を楽しんだカエサルが幸せそうに眠っている。
二十一歳の未亡人であるクラウディアは大きな姿見の前で、アンナたちに髪を整えさせる。彼女の肌は、昨晩の情事のおかげか瑞々しく火照っていた。
やがて、背後のベッドから衣擦れする音がし、カエサルがゆっくりと身を起こす。
そして薄手の寝衣をまとい、ベッドから降りた。
カエサルは足音もなく、ゆっくりとクラウディアの背後に忍び寄ると、彼女の豊かな赤髪にそっと唇を寄せ、愛おしむようにキスをした。
鏡の中で二人の視線が絡み合う。
「――おはようカエサル」
「おはようクラウディア」
クラウディアは、彼の愛撫を慣れた様子で受け流しながら、楽しげに訊ねた。
「今日はね、レンに送る新しい衣服を買いに行くの。あなたも来る?」
カエサルは一瞬目を細め、彼女の肩に軽く手を置き、悪戯っぽい笑みを浮かべる。
「なるほどクラウディア。昨晩の君が、どこか上の空だった原因は彼だったんだね」
「あら、失礼ね。十分に楽しんだはずよ」
「そうだね。でも君は私に身を預けていたとき……私ではなく、彼のことを想っていたのではないのかい?」
クラウディアの眉がわずかに上がる。
「……彼を想う? 変な冗談はやめて。私があんな子供を? あり得ないわ」
クラウディアは笑って否定したが、カエサルは、すべてを見透かしたような目で微笑んだ。
「本当に?」
「ええ、本当よ」
カエサルはわざとらしく肩をすくめ、愉快そうに続ける。
「それなら私が彼に、夜の相手をする美しい女奴隷を一人プレゼントしてもいいだろうか。私も彼のパトロンになりたいと思っていたところだ」
その言葉を聞いた瞬間、クラウディアの胸の奥に、鋭い何かが走った。
(レンに、女を……?)
カエサルの手によって、レンに見知らぬ女奴隷があてがわれる。
その女にレンが触れる、そして――
そこでクラウディアは想像を拒絶し、止めた。
彼女は今の感情を、自分のお気に入りが、見知らぬ女奴隷に汚されるのが嫌なのだと考えた。
ならば――自分の信頼する、最高の女奴隷を与えればいい。
「……必要ないわ」
クラウディアは少しムッとした声で、カエサルの提案をはねのけた。
「私の物に、あなたが余計な世話を焼く必要はないの。彼への褒美なら、私の方で最高のものを用意するわ」
クラウディアの目が、先ほどから部屋の隅で、静かに床を掃いていた一人の女奴隷へと向けられた。
「……イオ。あなた、今すぐ荷物をまとめなさい。カプアにいるレンの所へ行って欲しいの。あなたがあの子の身の回りの世話をするの……夜の相手も含めてね……」
部屋の隅で影のように動いていたイオが、弾かれたように顔を上げた。
「……っ!? 私がですか?」
黒い瞳が、困惑に大きく揺れる。
カエサルが、イオをじっと見つめた。
「イオか……以前はまだ子供だったが……二年見ない間に、随分といい女になったな。たしか──東方の民の血を引いていたかな?」
「はい……」
「……そうか。東方の血を引く娘は、やはり目を引くな。美しい黒髪に、絹のようなきめ細やかな肌をしている」
イオはホウキを握りしめ、深く頭を下げた。
「亡き母は、ペルシャより遥か東の国から売られてきたと聞いております。母は……私をローマで産んだ際に亡くなりました」
「そうか、それは大変だったな……」
「いえ、私の記憶にはありませんので大丈夫です」
カエサルは、目を細めてイオの身体をねめ回した。
「クラウディア、イオは実にいい女になった。君の屋敷にはローマで一番の宝石が転がっていたようだ。彼にはもったいない、わたしが欲しいくらいだ」
カエサルの挑発的な視線に気づき、クラウディアはフンと鼻を鳴らした。
「イオ。あなたが真面目にレンに仕えるなら、10年後に解放してあげてもいいわ。どう? いい条件でしょ」
イオは唇を噛み締め、声にならない息を漏らした。
――10年後の解放。
それは普通の奴隷ですら、涙を流して縋り付くほどの慈悲だ。
イオは17歳。
母譲りの黒髪黒目の神秘的な美貌を持ち、絹のように滑らかな肌と、東アジア人とガリア人のハーフという極めて珍しい血統を持っている。
そのため、多くの貴族客の相手をさせられ、処女ではない。
しかし容姿も、気立ても、教養もある、三拍子揃った人材である。
ゆえに、その価値は並の奴隷の数十倍はあった。
通常奴隷が解放されるのは以下の場合である。
①長年仕えた功績による、主人の“恩恵(気まぐれ)”による解放
②ペクリウム(小遣い)を貯めて“自分を買い戻す“
③ 主人の子を産んだ女性奴隷
④ 老齢・病気・役に立たなくなった場合
⑤ 特別な功績を立てた場合
彼女の価値を考えれば、彼女自身が自由を買い戻すのは不可能だった。
そのためイオの心に、初めて『解放奴隷』になれるという希望が生まれた。
(わたしが自由の身に……)
どれほど有能で美しくとも、一歩間違えれば、残忍な金持ちに売られ、なぶり殺されるかもしれない。
そんな恐怖と常に隣り合わせの籠の鳥。
それが、クラウディアの『10年後に解放してあげる』という気まぐれな一言で、一筋の光が見えた。
「クラウディアさま……本当に私は自由になれるのですか?」
「そうよ。レンにしっかり仕えなさい。いいわね」
イオは身を震わせながらも、膝を突き、床に額を伏せた。
「寛大なる御主人様……。仰せのままに。この命、そのレン様というお方に捧げます」
カエサルはそれを見ながら、実につまらなそうな笑みを浮かべた。
こうして、ローマで最高級の「宝石」が、レンの元へと送り出されることになった。




