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22 ガイウス・ユリウス・カエサル

「そこまで!! 勝者、ガリアの新星レン!!」


主審の叫びがアリーナに響き渡った。


その瞬間、日よけの天幕が張られた特等席のバルコニーでは、興行主マニウス・アントニウス・バルバトゥスが手すりをきつく握りしめたまま、凍りついていた。


(ば、ばかな……なぜだ……。

なぜ、ガリアの小僧に、あのような動きが出来るのだ……!?)


マニウスの頭の中は激しい混乱と怒りで真っ白になる。


長期休養で筋力は衰え、コンディションは最悪。

しかも二対一のデスマッチという、勝率0%の死地を用意したはずだった。


それなのに――


レンは、かすり傷一つ負わず、

完璧な立ち回りで『復讐の獅子兄弟』を全滅させた。


大貴族としてのプライドが粉々に砕かれ、マニウスの拳が、ミシミシと音を立てて震える。


だが右隣では、祈るように俯いていたルクレティアが、大粒の涙をこぼしながら歓喜の声を上げていた。


「レン……! 凄い……! よかった……っ!」


さらにマニウスの左隣に座るクラウディアは、扇子を口元に添えたまま、上品な微笑を崩さず肩を震わせていた。


「ふふ……あの子、凄いわ。ただの大ぼら吹きじゃなかったわね」


だが、興奮を隠しきれず手元が揺れている。

それを彼女は賭けのせいだと思った。


彼女は今回、金貨三千枚(銀貨六万枚)の大穴を的中させた。

配当は実に――百万デナリウスを超えるのだ。


さらにはマニウスに招待されて、特等席に座っている周囲の貴族たちも素晴らしい試合だったとレンに拍手を送る。


そこへ、バルコニーの入り口から軽やかな笑い声が近づいてきた。


「いやあ、実に見事だ。これほど素晴らしいデスマッチを見られるとは思いませんでしたよ、マニウス殿」


姿を現したのは、白いトガを優雅に纏った若い貴族――

ガイウス・ユリウス・カエサル。

(英語名ジュリアス・シーザー)


この時、齢二十三歳。

ローマの法廷で汚職貴族を告発し、

今もっとも市民の注目を集める若き俊英だ。


その黒い瞳には、天才特有の鋭い光が宿っている。

だが後に、『全ての元老院の妻と寝た』とデマを流されたほどの女好きでもあった……。


「……ユリウス家の若造が。何の用だ」


マニウスが不快そうに睨むが、

カエサルは意に介さず手すりへ歩み寄り、

アリーナで両手にスパタ(剣)を掲げるレンを見つめた。


「用というほどのことはありませんよ。

ただ、このローマで最もホットな“金貨三千枚の賭け”の結末を、拝見しに来ていただけです」


そして、楽しげに肩をすくめる。


「閣下、あのガリアの少年はただの闘士ではありません。

大楯二枚の重装歩兵に対し、自ら円を描いて回り込み、常に敵の一人を肉壁にして援護を遮断し続けた。

あれはローマ軍の戦術――

ひいてはハンニバルの包囲陣の応用です」


カエサルはマニウスの顔を覗き込み、上品な笑みを浮かべた。


「ご自身の主催する興行で、これほど知略に満ちた英雄の誕生を演出されるとは。

さすがはマニウス閣下。

ローマ市民は大熱狂、閣下の名声もさらに高まるでしょうな」


「……っ! ふん。私の評価をする暇があれば、自身の借金の心配をしたらどうだ」


 この時代のカエサルは、若くしてすでに“ローマ一の借金王”として名が知られていた。

 市民の人気を得るために宴会を開き、競技会を主催し、選挙活動には法外な金を注ぎ込み、さらに貴族らしい贅沢な生活も一切やめなかった。

 結果、彼の借金は二十代にして数百万デナリウス――

 ローマでも指折りの大富豪クラッススが保証人につくほどの“桁外れ”だったのである。



「はっはっは。大した借金の額ではありませんよ」


カエサルはアリーナで歓声を浴びるレンを見つめる。


「さて……初日の目玉試合を制した英雄には、相応の褒賞が必要でしょうな」


そしてわざと観客席にも届く大声で言った。


「皆聞いて欲しい!

ガイウス・ユリウス・カエサルから、あの素晴らしい剣闘士に二百デナリウス贈ろう!!」


観客席から拍手が起こり、マニウスのこめかみがぴくりと跳ねた。


慣例では、観客を沸かせた剣闘士には、

興行主が“ヤシの葉”とともに 金貨の皿や袋をその場で渡す。

これは逃げることも、後回しにすることも許されない。

ゆえにマニウスにもレンに褒賞金を出す必要があった。


マニウスは歯ぎしりしながらも、

大貴族としての威厳を保つため、声を張り上げた。


「……よかろう!

ならば私は興行主として、見事な試合を披露した剣闘士に、千デナリウスを与える!!」


観客席から歓声が上がる。

「おおおおお!!」


クラウディアは扇子をぱちんと閉じ、その影でいたずらっぽく微笑んだ。


「まあ……それなら私もレンのパトロンとして“儲けさせてもらったお礼”をしませんとね。わたくしも――千デナリウス出しますわ」


カエサルはニヤリと笑い、観客席に向かって叫んだ。


「皆聞け! こちらにおられるクラウディア・アントニウス・バルバトゥス嬢からも千デナリウスの報奨金が与えられるぞ!!」


その瞬間、観客席が爆発した。


「これで二千以上だぞ!」

「新人でこの額は前代未聞だ!」

「一流剣闘士に近い報酬だぞ!!」


マニウスは顔を引きつらせたが、やむなく家令のポッルスに顎をしゃくり指示を出す。――これは賞金を用意しろという意味だ。


家令はマニウスの命を受け、他の奴隷に指示を出す。

奴隷は闘技場の裏方に設置された、興行主テントへと走った。

ここに報酬のための金庫が設置されているのだ。


このあとの流れは、

財務管理係ディスペンサトルが金庫からかねを取り出し、

奴隷が金をアリーナの主審スマ・ルディスへと運び、

主審がそれを勝者のレンの足元へ放り投げることになる。


金が投げられるのは、一流剣闘士だろうと、スター剣闘士だろうと同じだ。剣闘士は所詮、奴隷であるため、手渡しで受け取ることはない。


なお、金額が五千〜一万デナリウスを超える場合には、現物ではなく“目録”が主審へ届けられ、主審の手から勝者の足元に投げられる。




「……あいつは、面白い。ただ強いだけの剣闘士ならいくらでもいるが、あやつは“大衆の心を掴む見せ方”を知っている」


カエサルはマニウスからクラウディアへ視線を移し、ウィンクを送った。


「……クラウディア、あなたはあの少年のパトロンだと聞いている。

私は近々剣闘士を使った催しを“企画したい”と思っている。

その際、バティアトゥス殿に“貸し出し”を打診しても構わないだろうか?」


クラウディアは扇子を閉じて優雅に微笑んだ。


「まあ……ユリウス様のような方に気に入られるなんて、レンも光栄ね。

もちろん、私は歓迎するわ。

でも、急がないと、あの子の“値段”はこれからもっと高くなりましてよ」


カエサルはわずかに口元を緩めた。

「ふむ……君がそう言うなら、急ぐとしよう」


カエサルはクラウディアをジッと見つめる。

「……そう言えば大金を手にしたのだろう?

久しぶりに、あの店で食事でもどうだ。

もちろん、君の勝利を祝してだ」


クラウディアは扇子を軽く揺らし、

その影に隠れた瞳でいたずらっぽく笑った。


「まあ……相変わらずお誘いがお早いこと。

でも、二人きりだなんて……また“奥様”に心配されますわよ?」


カエサルは肩をすくめた。


「心配するほど、私は放蕩ではないさ。

……知っているだろう?」


クラウディアは扇子で口元を隠しながら、

わざとらしく視線を逸らした。


「ふふ……そうね。

あなたが“コルネリア様”を一番大事にしていることは、

きちんと存じておりますわ」


カエサルはクラウディアの言葉に、わずかに目を伏せて笑った。


「それは……光栄だ。

君にそう言われるのは、昔から悪くない気分でね」


クラウディアは扇子をぱちんと閉じた。


「まあ……お上手。

でも、あまりそういう顔をなさらない方がよろしくてよ。

“奥様”に誤解されますわ」


「誤解されるほど、私は後ろ暗くないさ。

……少なくとも、今はね」


クラウディアの扇子が止まる。


若い二人の会話を他所よそに、隣ではマニウスがレンに対して怒りに震えていた。


興行はレンのおかげで初日から成功し、貴族としての名声も権威も上がった。

だが、プライドは粉々に砕かれていた。


(あの不届き者の奴隷め許さんぞ……!!)


手すりを握る拳が、血がにじむほど強く握り締められる。


(次こそは……。

 次こそは二度と生きて戻れぬ地獄に叩き落としてやる……!!)


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