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19 金貨3000枚

試合の前日。

ローマ郊外──剣闘士用の臨時テント。


夕闇が迫る中、剣闘士たちが収容されているテント陣営には、重苦しい緊張が漂っていた。


「次、ラヴェンナのトルネロス! 前へ出ろ!」


監視兵の怒声が響き、剣闘士たちが一人、また一人と大テントへ吸い込まれていく。

中では、興行主によるメディカルチェックとレンタル料の最終査定が行われていた。


「次、カプアのレン! 前へ出ろ!」


レンの番がやって来た。

彼は足首に付けられた鉄枷てつかせを繋ぐくさりをジャラリ、ジャラリと響かせテントへ向かう。


(このテントの中に……マニウスはいるのか?)


レンは息を呑み、豪奢な大テントの幕を押し分けた。


テントの奥。

冷徹な威圧感を纏う初老の男が、豪奢な椅子に深く腰掛けていた。


大貴族にして今回の興行主──

マニウス・アントニウス・バルバトゥス。


(元のレンの記憶通りの顔だ。

こいつが俺の命を狙っているのか……)


レンがふと見ると、マニウスの傍らには二人の女性が佇んでいる。


燃えるような赤髪を揺らす妖艶な美女──クラウディア。


そして、ドレスの裾をぎゅっと握りしめ、怯えるように俯く金髪の美少女──ルクレティア。


レンのパトロンと仮初めの恋人だ。


マニウスは二人を侍らせながら、入ってきたレンを虫ケラのように見下ろした。


「……ふん。ガリア人の羽虫め、まだ生き残っているとはな。やはりガリア人には剣闘士がお似合いということか……」


マニウスが顎をしゃくると、お抱えの医師がレンの体を乱暴に調べ始める。


腹の古傷、筋肉の張り──すべてを確認し、マニウスへ耳打ちした。


「……筋肉は衰え、線も細くなっております。

 運動不足は明らか。戦うことはできますが、コンディションは最悪です」


マニウスは満足そうに鼻で笑った。


「なるほど。では、この処分品へのレンタル料は──デナリウス銀貨『1枚』だ。帳簿を書き換えろ」


興行主の鶴の一声。

通常なら数十枚は下らないレンの価値が、一瞬で最低額に叩き落とされた。


レンは歯を食いしばる。

だが今回は、興行主を睨むという愚行は犯さなかった。


マニウスはゆっくりと立ち上がり、冷酷な笑みを浮かべながらレンの前へ歩み寄る。


「我が娘に近づいた不届き者め。

 これまで運だけで命拾いしてきたようだが、貴様の薄汚い命運もここまでだ。

 明日のデスマッチで、格上の二人のベテランたちが、お前の五体を無残に引き裂いてくれるだろう」


レンは眉を顰め、マニウスを見た。


「……二人?」


「そうだ、二対一のデスマッチだ。

相手はお前が倒したという、ギルモアの弟たちだ。きっとそいつらにとっても、いい復讐になるだろうな。ハッハッハ」


大貴族からの死刑宣告。

普通の奴隷なら、その場で崩れ落ちるが、レンは踏み止まった。


(……ここで弱音は絶対に見せられない!)


レンは臆することなくマニウスの目を正面から見据え、ニヤリと口元を歪めた。


「ご期待に添えず申し訳ありませんが、明日も俺は五体満足で生き残りますよ。

 ギルモア程度の敵なら、たとえ四人でも俺一人で十分に戦えます」


レンのハッタリに、ルクレティアの顔がパッと明るくなる。

一方、マニウスは苦虫を噛み潰したように眉間に皺を寄せた。


「なんだと……」


(ふふっ、不愉快そうだな。いい気味だ)


「マニウス様が特等席から御覧になるのは、俺の死体じゃない。

 “ギルモア兄弟の死体”です!」


「貴様……っ」


マニウスは怒りで拳を握り締めたが、

すぐに鼻で笑い飛ばした。


「ハッハッハ! 強がりはせよ。

 そのギルモア程度に重傷を負わされたお前に、何が出来るというのだ」


レンはクラウディアへと視線を向けた。


「クラウディア様。今、俺とその兄弟のオッズはどの程度ですか?」


クラウディアは、その切れ長な目を細め、レンの心を読み取るかのようなに見る。


「……一対七十よ。

レン……あなたが勝つなんて誰も思っていないわ」


レンは一歩身を乗り出した。

「ならクラウディア様。

 俺に賭けられるだけの金を賭けてください。これが俺の応えです! 俺は決して貴女を失望させない!!」


(死んだらゴメン。ホントは自信無いです)


クラウディアはしばし、扇を掌でゆっくりと回しながら考え込んだ。

やがて、艶やかな唇の端を僅かに吊り上げる。


「そうね……。なら貴方を信じて、金貨三千枚を賭けてみるわ」


(き、金貨三千!?)


レンは頭の中で素早く計算する。

現在の金貨と銀貨の交換比率は1対20。つまり金貨三千枚は、デナリウス銀貨六万枚だった。


(それって六万デナリウスじゃねえか!)


レンが内心で絶叫する中、マニウスが不快そうに目を細め、クラウディアを睨みつけた。


「クラウディア……正気か?」

「叔父様だって、この興行に十万デナリウスくらいは使っておられるのでしょ?」


マニウスは静かだが、冷酷な声で言う。

「私は名声のためだけに金を出してなどおらぬ……」


「ふふふ。存じております、興行資金は賭博で回収されるのでしょ。ちゃんと叔父様が代理人を立てているブックメーカー以外の所に賭けますわ」


マニウスはクラウディアの考えが読み切れず、少し呆れ顔をする。

「……お前は本気で、この奴隷が勝つと思っているのか?」


クラウディアは艶やかに微笑んだ。


「分かりません。ですが──」


扇を閉じ、楽しげにレンを見つめる。


「殿方に“私に全てを賭けろ”なんて言われたのは初めてですもの。女として応えてあげたいではありませんか」


(いや、俺は全てを賭けろなんて言ってませんけど!?)


マニウスは薄っすらと笑みを浮かべる。だがその目は笑っていない。


「……クラウディア。まさかそなたまで、コヤツに誑かされたと言うつもりではあるまいな?」


クラウディアは肩をすくめ、微笑んだ。

「ふふふ、いやですわ。ほんの冗談です」


姪の不敵な戯れ言に対しても、マニウスは冷徹な余裕を崩さなかった。


「……フン、好きにするが良い」


マニウスは顎をわずかにしゃくって衛兵に合図を送った。


「衛兵、その『銀貨1枚の処分品』を下がらせろ。

これ以上、我が姪と愛娘の目を汚させるな」

「はっ!」


「……お父様」


ルクレティアは、消え入りそうな声でマニウスを見たあと、悲痛に揺れる青い瞳で、まっすぐレンを見つめた。


その視線に、レンの胸の奥がわずかに熱くなるが、衛兵が腕を掴んだ。


レンの身体が引っ張られ、入り口の方へ連行される。


「……レン……」


レンの後ろでルクレティアの小さな声が聞こえ、彼は首を横に曲げたが、振り返って彼女を見ることは出来なかった。

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