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17 あたたかい仲間

「……い、……おい、レン……」


低く、掠れた声がレンの耳の奥に届いた。


ゆっくりと重い目蓋を開けると、視界に映ったのはセルギウスだった。


「……レン。生きてるな……?

 もう夕方だぞ。……ほら、かゆを持ってきてやった。少しは食べろ」


セルギウスはレンの寝台の横に腰掛け、抱えていた大麦のお粥の器を差し出した。

その声は低いが、レンの体を心の底から気遣う、深い優しさが滲んでいた。


「レン起きたんだね! 大丈夫!?」


タルトとリクトスが近くの自分の部屋から出て、レンの元に駆け寄ってきた。


「おいおい、そんなに大声を出すな。レンの頭に響く」


セルギウスがいつも通りの落ち着いた声で、慌てて飛び込んできた二人を制した。


リクトスとタルトの二人の体は汚れている。

朝から昼まで行われた、激しい訓練のせいだ。


「レ、レン……本当によかった。今朝、訓練に行く前に生きてるのを見たけど、夕方までずっと目が覚めないから、心配したぞ……!」


タルトが少し声を詰まらせながら、レンの寝台の横に膝をつく。


「う、うああん! レン、本当によかったぁ……! もう死んじゃうかと思ったよお!」


泣き虫のリクトスにいたっては、ボロボロと大粒の涙を流して、レンの足元にしがみついて声を上げて泣き始めた。


「……おいおい、お前ら。泥だらけの体で怪我人に触るなよな」


レンは痛む腹を庇いながら、かすれた声で苦笑する。


(前世の日本じゃ、自分のために泣いてくれる友達は一人もいなかった。こんな地獄のような奴隷世界で、心から心配してくれる仲間に出会えるなんてな……)


「ほら、粥が冷めるぞ。横になったまま動くな」


セルギウスは不器用な手つきで、お粥をそっとレンの口元へ運んだ。

レンの腹の傷はまだ酷く痛んだ。

だが人の温かさに触れ、レンの凍り付いていた心が、少しだけ溶けはじめた。


ーーーー

夜。

養成所の豪奢なオーナー室の扉をノックし、白髪混じりのギリシャ人医師ニコマコスが入ってきた。


「……オーナー。レンの容体について報告に来ました」


バティアトゥスは書類から顔を上げ、

面倒そうに片眉を動かした。


「で? いつ試合に出せる?」


ニコマコスは淡々と、しかし断固とした声で言った。


「二ヶ月後は無理です」


バティアトゥスの目が細くなる。


「……二ヶ月では治らないと言うのか?」


「はい。腹膜の下がまだ脆い。

“ひねる”動作だけで再び裂ける可能性があります」


ニコマコスは続けた。


「最低でも四ヶ月は必要です。

それ以下の期間で試合に出せば、動きから負傷していることが客にも分かります」


バティアトゥスは深く息を吐き、額を押さえた。


「……クソッ。

マニウス様は二カ月後の興行をお考えなのだぞ!」


バティアトゥスは舌打ちし、机に拳を軽く叩きつけた。


「……あの方は“レンを殺す興行”を楽しみにしておられる。

だが、負傷したまま殺せば、観客は白ける……」


ニコマコスは静かに言った。


「ならば四ヶ月待つべきです、それ以上ならなお良い。

完全に治れば、どれだけ残酷な試合に出しても“事故死”に見えます」


バティアトゥスは深く息を吐き、

椅子に腰を落とした。


「……分かった。

マニウス様には“回復に半年必要だ”と伝えよう。そうすれば4か月で決着がつくだろう」


そう言いながら、

彼の目がふと鋭く細められた。


「……いや、待てよ……」


バティアトゥスは指先で机を軽く叩きながら、苛立ちと計算が入り混じった声で続けた。


「……そうだ。

いっそレンが傷が原因で死んだ方がよかったのだ。

あのガキが死ねば、マニウス様はそれだけで喜ぶ」


ニコマコスは眉をひそめた。


バティアトゥスは身を乗り出し、

低く問いかける。


「……ニコマコス。

今からでも死ぬ可能性はあるか?

感染症でも、熱でも、何でもいい。

こちらが手を下さず、自然に死ねばそれでいいのだ」


ニコマコスは短く息を吐き、

冷たい目でバティアトゥスを見た。


「……ありません。

峠は越えました。今のレンは死にません。下手に剣闘士を暗殺すれば、貴方は一生剣闘士の信用を失います。それは剣闘士の反乱に繋がるかも知れません」


バティアトゥスの顔が歪む。


「……クソッ……!」


机を拳で叩く音が響いた。


「もっと早く気づいていれば、お前に治療などさせなかったものを!」


バティアトゥスは舌打ちし、深く椅子に沈み込んだ。


「……仕方ない。

ならばやはり三ヶ月後だ。

不自然に思われない程度には動けるのだろう?」


「三ヶ月なら“動ける”だけです。

四ヶ月なら“戦える”状態になります。」


バティアトゥスの眉がわずかに動く。


「……三ヶ月では不自然か?」


「戦えはしますが、動きに硬さが残ります。観客の目は誤魔化せません。

“まだ治りきっていない”とすぐに気づくでしょう。そうすればオーナーの評判はガタ落ち、興行主からお呼びが掛からなくなります」


バティアトゥスは深く息を吐き、机の上を指でトントンと叩いた。


「……つまり、三ヶ月では“見世物”としては不完全というわけだな」


ニコマコスは静かに頷いた。


「その通りです。

四ヶ月あれば、レンは完全に治る。

その状態で殺せば、誰も不自然に思いません」


「やむを得まい……マニウス様にはやはり半年かかると手紙を書こう」


ニコマコスは軽く頭を下げた。


「では、レンには絶対安静を続けさせます。四ヶ月後には、どれだけ残酷な試合でも耐えられる身体になります」


バティアトゥスは深いため息をしながら頷くと、椅子の背にもたれた。




ーーーーー

4ヶ月後

紀元前77年11月。


レンが九死に一生を得て4ヶ月後。

レンの腹の傷が癒え、痛みはようやく過去のモノになってきた。


朝、レンは久しぶりに訓練場の広場に顔を出した。


幸いなことに、あれからドロミコスがレンにちょっかいをかけてくることは無かった。


一番の要因は、ドロミコスがセウテスに「手を出すな」と釘を刺されたことだ。

それに加えて、養成所内では私闘が厳禁とされている。

ドロミコスはすでにオエノマウスから目を付けられているため、次にレンと問題を起こせば、私闘として死んでもおかしくない罰が下されるだろう。



(私闘が禁止されてる以上、俺もドロミコスには手を出せない。何か上手い手を考えないとな……)



レンが久しぶりに広場に出ると、朝の冷たい空気の中で、剣闘士たちがそれぞれ準備運動をしていた。


レンも試しに広場を走ってみたが、もう刺すような痛みはなかった。


息を切らしながら中庭を一周して、レンは大きく息を吐く。


(……よし。全力で走っても大丈夫だな)


「レン、本当にもう平気なのか?」

タルトが嬉しそうな顔でレンの元に来る。


「平気だ。今日から本格的に訓練の再開だ」


レンはそう言って笑い、軽く腹を叩いた。


――そのときだった。


「レン」


低い声が、背後から落ちてきた。


振り向くと、オエノマウス教官が立っている。

いつも通りの無表情だが、その目だけがどこか鋭い。


「今日から訓練再開します。俺もう、ちゃんと走れるように──」


そう言いかけた言葉を、オエノマウスが切り捨てた。


「訓練はいい」


一拍置いて、オエノマウスは続ける。


「レン。ローマに行く準備をしろ。

一週間後にある、マニウス様の興行に出る」


レンの心臓が、ドクンと跳ねた。


(……は? 今、なんて? マニウス!?)


頭の奥が一瞬だけ真っ白になる。

その隙に、オエノマウスの声が容赦なく落ちてきた。


「聞こえただろう。

一週間後、ローマで興行だ」


空気が変わった。

訓練場のざわめきが、遠くへ引いていくように感じる。


「……ちょ、ちょっと待ってください。

俺、今日から訓練を再開したばかりで──」


「だから言った。訓練はいい」


オエノマウスは一歩近づき、低い声で言い放つ。


「レン。

お前は“もうとっくに治った”そういうことになっている。

マニウス様の興行に出す、これはバティアトゥス様が決めた」


レンの背筋が、ぞわりと冷える。

だが意味が分からず困惑した。


(とっくに治った? なんだよそれ……どういうことだ?)


オエノマウスは続ける。


「準備をしろ。ローマまでは五日の行程だ。もう俺たちに出来ることは何もない」


その言葉が、胸に重く沈んだ。


(……何も出来ることはない? いや違うぞ。俺の力の源はスキルだ! 1週間あれば数レベルは上げられる!)


オエノマウスは振り返らずに言った。


「覚悟を決めろレン。これは上の命令だ」


そう言って背中を向け、歩き始めたオエノマウスの後ろ姿を見送りながら、レンは理解した。


──四ヶ月の平穏な時は終わり、再びマニウスとの戦いが始まったのだと。

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