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15 オエノマウス教官

医師のニコマコスが治療を終え、血の滲んだ布を新しく巻き直したところだった。


ドンッ!


地下の扉が乱暴に開いた。


「レンはどこだ!」


低く、地鳴りのような声。

オエノマウス教官だ。


リクトスとタルトがビクりと肩を揺らす。


「きょ、教官……!」


オエノマウスは俺の姿を見るなり、目を見開き、次の瞬間には怒りで顔が歪んだ。


「……何をした」


その声は低く、しかし刃物のように鋭かった。


ニコマコスが答える。

「トラキア派のドロミコスに殴られた。

 腹の傷が開いた。助かる可能性は五分五分だ」


オエノマウスの拳が、

ギリッと音を立てて握り締められた。


「……療養中の剣闘士を殴った、だと?」


空気が一瞬で凍りつく。

リクトスもタルトも、息をするのすら忘れていた。


「どっちに行った!」

「む、向こうです」


オエノマウスはゆっくりと通路の奥、

トラキア派が去っていった方向を睨みつけた。


「……あの愚か者ども。

 規律を破るにも限度がある」


その声には静かな怒りが宿っていた。


「セウテスはともかく……

 ドロミコス。

 あいつは今日中に叩き直す」


リクトスが慌てて言う。


「きょ、教官! でも、相手はトラキア派で……!」


「関係ない」


オエノマウスは一歩、俺の前に膝をついた。


そして、俺の肩に手を置く。


「レン。お前は悪くない。

 殴られたのも、傷が開いたのも、全部あいつらの責任だ」


その声は怒りに満ちているのに、どこか静かで、温かかった。

「……すまん。守れなかった」


(教官……)


「レン。死ぬなよ」


そして、怒りを押し殺したまま、トラキア派の方へ歩き出した。



ーー


オエノマウスは、トラキア派のたまり場へ向かった。


足音は静かだ。だが、その背中には本物の“戦場の空気”がまとわりついている。たまり場では、ドロミコスが仲間と下品に笑っていた。


「見たか? あのガリアのガキ、腹を押さえて転がってやんの。パトロンに剣をもらって調子に乗るから──」


ゴンッ!


言葉の途中で、ドロミコスの顔が机に叩きつけられた。

オエノマウスが、いつの間にか真後ろをとっていたのだ。


「……ドロミコス」


低い声だった。怒りを限界まで押し殺した、軍人の声だ。


「療養中の剣闘士を、襲ったそうだな」


ドロミコスの顔が、一瞬で青ざめる。


「い、いや……あれは、その、不慮の事故で……!」

「言い訳は聞かん」


オエノマウスはドロミコスの胸ぐらを掴んだ。

そして、大男の身体を片手で軽々と持ち上げた。


「規律を破った犬にはきつい躾をする。それがこの養成所のやり方だ!」


ドロミコスの顔が恐怖で引きつる。


「きょ、教官……っ! 待ってくれ、悪かった……!」


そこへ、トラキア派の実力者コティスがゆっくりと立ち上がった。


「教官。ドロミコスがやりすぎたのは認める。だが──」

「黙れ、コティス」


オエノマウスは、一切振り返らずに言い放った。


「お前は、そこにいて止めなかった。それが全てだ!」


コティスの表情が、わずかに揺れた。だが、それ以上の反論はしない。


一流の剣闘士であっても、オエノマウスの放つ“本物の軍人の怒り”には逆らえないのだ。


奥では、看板スターのセウテスが壁にもたれ、腕を組んで見ている。だが──その表情は一切変わらない。


オエノマウスは、ドロミコスを容赦なく床に叩きつけた。

そして、床に這いつくばる小悪党へ低く言い放った。


「次に同じことをしたら、お前の両腕を折る。二度と戦えなくなるまで、私が直々に叩き潰す」


ドロミコスはガタガタと震えながら、頷くしかなかった。

オエノマウスは最後に、セウテスへと鋭い視線を向けた。


「……お前の派閥の問題だ。次は頭として止めろ」


セウテスは一瞬だけ目を細めた。

だが、やはり何も言わなかった。

ただ、ほんのわずかにあごを引いた。

それが“了承”なのか、“たまたま”なのかは、誰にも分からない。


オエノマウスはきびすを返し、歩き出した。

その大きな背中には、激しい怒りと、そして“傷ついた剣闘士を守れなかった悔しさ”がにじみ出ていた。



ーー


オエノマウスが去ったあと、詰所には重い空気が流れた。


ドロミコスは壁にもたれ、悔しさと痛みで顔を歪める。


「……くそ……あのガリアのガキ……次は殺して──」


その言葉を、コティスが冷たい声で切った。


「やめておけ」


ドロミコスが睨む。


「なんでだよ!

 あいつ、パトロンに剣まで貰いやがって──」


「だからどうした」


コティスは腕を組んだまま、淡々と続けた。


「ガキを殺してどうする。教官を敵に回すだけだ。

 オエノマウスは“規律”に関しては容赦しない。お前だけでなくトラキア派が潰される」


ドロミコスは歯を食いしばる。


「……教官はガリア人だからガリア人の肩をもってやがるんだ……!」

「オエノマウスはそんな奴じゃない。それに──」


コティスはちらりと横を見る。


セウテスが椅子に腰掛け、革紐を巻き直していた。

一言も発さず、こちらを見ることすらしない。その無関心が、圧力のように重かった。


コティスは静かに言った。


「セウテスが動かないなら、“動く価値がない”ということだ」


ドロミコスは息を呑む。


「ガリアのガキはまだ弱い、そのうち試合で死ぬ。

 殺す価値も、潰す価値もない奴だ。放っておけ」


セウテスは革紐を締め終え、立ち上がる。


「コティスの言う通りだ。雑魚に構うな」


それだけ言うと、セウテスは詰所を出ていった。

その背中には、“覇王の風格”があった。


ドロミコスは拳を壁に叩きつけながら呟く。


「……ちくしょう……!」


コティスは冷たく言い放つ。


「動くなと言われたんだ。動くなよ。

 セウテスの言葉は絶対だ」


たまり場の空気は、重く沈んでいた。



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