14 ドロミコス
紀元前77年6月。
レンは養成所に設置されている療養のための温泉に入り、ホカホカになった体でリクトスとタルトを連れて、自分の部屋へと向かっていた。
歩く度に腹の奥がズキズキし、湯で少し楽になったのは、勘違いだったとレンは思った。
地下の通路に戻ると、豪奢な木箱を抱えている使用人の奴隷と鉢合わせた。
「あっ、レンさん。クラウディア様よりまた贈り物が届きましたよ」
「……こ、これはもしかして!」
レンは細長い箱を見て目を輝かせた。
ローマを出る時、レンはクラウディアから欲しい物はあるかと聞かれ、『二刀流にするつもりなので、二本の剣が欲しい』と応えていた。
(もしかして本当に剣を買ってくれたのか!)
箱を開けると、細身の2本の直剣が静かに光を放っていた。
既製品だが、見るからにいい品だった。
刃は真っ直ぐで、赤い革を巻いた柄と、銀細工が施された鍔と鞘が目を引く、
「おいおい……またかよレン」
贈り物を見た、タルトが呆れたように笑う。
「この前も別のパトロンの男から肉料理の差し入れがあっただろ?
今度はまたクラウディア様からの差し入れとは、ホントいいご身分だよなぁ」
リクトスは尊敬のまなざしでレンを見た。
「新人なのにパトロンが二人目って凄いよ。……やっぱりいい試合をすると、いいパトロンが付くんだねレン」
レンは苦笑した。
(いや、男の方はあったこともねえし、興味もねえよ……)
そのとき──
通路の奥から、重い足音が響いた。
トラキア派閥だった。
先頭には、この養成所の看板スター、セウテス。
だがセウテスは、レンたちを一瞥すらしない。
無言で通り過ぎていく。
その後ろにはナンバー2のコティスが腕を組んで続き、さらにその後ろを中堅のドロミコスがニヤニヤと笑いながら歩いていた。
「よぉ、ガリアのクソガキ」
ドロミコスがレンの前で立ち止まる。
レンは目を細めて、見返した。
(なんだよコイツ。いいからさっさと、向こう行けよ!)
「ああん、なんだテメエ! 俺がせっかく声を掛けてやったのに、不愉快なのか!? ガン垂れてんじゃねえぞ小僧が!」
「いや……別に、俺はそんなつもりじゃ……」
「黙れ!」
突然、ドロミコスの拳が飛んできた。
レンは腹をひねることもできない。
避けようとした瞬間、傷がズキンと痛み、身体が止まった。
拳は頬を打ち抜き、レンは吹き飛ばされて地面にひれ伏した。
「たまたまパトロンが付いたからって調子こいてんじゃねえぞガキが!
この養成所にはな、序列ってもんがあるんだよ、よく覚えておけ!」
ドロミコスは倒れているレンの腹を、サッカーボールを蹴るように思い切り蹴り抜いた。
――ドス
「ぐはっ」
ドロミコスの一撃で、レンの腹の傷が開き、視界が白く弾けた。
(……っ……!)
ドロミコスがさらにもう一度、蹴ろうとしたとき──
「やめろ、ドロミコス」
コティスが低い声で制した。
ドロミコスは舌打ちしながらも下がる。
コティスはレンを見下ろし、冷たい目で言った。
「……ガリア。お前はまだ“弱い”。パトロンの贈り物で強くなった気になるな」
「……はい」
(くそ、俺が何をしたって言うんだよ……贈り物を貰っただけだろ……)
セウテスの姿は既に無い。
レンが襲われていようと、振り向きもせず立ち去っていた。
三人の背中が遠ざかると同時に、リクトスとタルトが駆け寄ってきた。
「レン! おい、しっかりしろ!」
タルトがレンの肩を支える。
「まずい……レンのお腹の傷、開いてるよ! 血が滲んでる!」
リクトスの声が震えた。
「大丈夫だ……心配するな」
「っ……いや、これは大丈夫じゃないって!」
レンが立ち上がろうとした瞬間、腹の奥がズキンと裂けるように痛み、膝が勝手に折れた。
「ダメだ! 動くな!」
タルトがレンを抱きとめる。
リクトスは慌てて走り出した。
「医者を呼んでくる! ニコマコス先生だ!」
通路にリクトスの足音が響き、レンはタルトの腕の中で、ただ必死に呼吸を整えるしかなかった。
(……くそ……なんでこんな目に……
俺がなにをしたって言うんだよ……)
悔しさと痛みで、視界がじわりと滲んだ。
リクトスが走り去ってから、ほんの数十秒しか経っていないのに、レンには永遠のように時間が長く感じた。
腹の奥がズキズキと脈打ち、温泉で温まったはずの身体が、今は冷たい汗でびっしょりになっている。
「レン、喋るな! 動くなよ!」
タルトが必死に肩を支える。
(……くそ……息をするだけで痛ぇよ……)
そこへ、足音が早足で近づいてきた。
「どけ!」
白髪混じりのギリシャ人医師、ニコマコスがリクトスに案内されて飛び込んできた。
レンの腹を見るなり、彼の顔が一瞬で険しくなる。
「……馬鹿者どもめ。
“絶対に動かすな”と言ったはずだ!」
「す、すみません先生! でも、ドロミコスが……!」
「言い訳は聞かん!」
ニコマコスはレンの腹に手を当て、血で湿った布をめくった。
その瞬間、彼の眉がピクリと動いた。
「……開いている。内側の癒着が剥がれたな」
「っ……!」
痛みでレンの身体が跳ねる。
ニコマコスは低く、しかし怒りを押し殺した声で言った。
「レン。お前は今、死にかけている」
(は……?)
リクトスとタルトが息を呑む。
「腹膜の下がまた“生肉”に戻った。このまま動けば、内出血か感染症で死ぬ。
次に同じ衝撃を受けたら、本当に終わりだ」
(……マジかよ……)
ニコマコスは薬草袋を押し当て、木板で固定しながら続けた。
「いいか、レン。“絶対安静”の期間を延ばす。
最低でも一ヶ月半だ。
剣も盾も持つな。歩くのも最小限にしろ」
「……そんな……」
「文句を言うな。生きたいなら従え」
ニコマコスはリクトスに向き直る。
「お前たち。
レンを一歩でも動かしたら、
私が許さん。次に傷が開けば、私でも助けられん!」
タルトは青ざめて頷いた。
「わ、分かった……!」
リクトスも震えながら言う。
「先生……レンは……助かるんですか……?」
ニコマコスは短く答えた。
「……今は五分五分だ」
通路が静まり返った。
レンはただ、痛みと悔しさで、拳を握ることしかできなかった。
下唇を噛み、涙ながらに誓う。
(……くそ……ドロミコスの奴……。
治ったら、絶対にぶっ殺してやるからな!)




