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13 マニウス

紀元前77年5月。


ローマでの興行が終わり、

レンたちはカプアの養成所への帰路についた。


怪我人用の馬車は存在しない。

そのためレンはいつもの荷馬車に放り込まれ、石畳の揺れに耐えて帰るしかなかった。


腹の傷が揺れのたびにズキンと裂けるように痛みがレンを襲い、何度も意識を飛ばしかける。


(剣闘士って最悪だな……)


ローマの歓声がまだ耳に残っているのに、現実は容赦がない。

レンは、もう二度とこんな深手を負うまいと強く思った。



ーーーー

5日後、馬車は無事カプアにたどり着いた。


レンは地下の個室に戻され、

養成所付きの医師──

白髪混じりのギリシャ人医師ニコマコスが診察にやってきた。

レンの診察の結果を聞き、オエノマウス教官が鬼の形相で睨みつける。


「動くなと言っただろうが、馬鹿者! 腹の傷は“内側”がまだ塞がっていない。無茶をすれば死ぬぞ」


(いや、俺じゃなく馬車のせいだからね!!)


レンは面と向かって言えないので、心でそう言うと、力無く藁のベッドに沈み込んだ。



翌朝、医師ニコマコスが再びレンの腹を診た。


「ふむ……皮膚は塞がりつつあるが、腹膜の下はまだ“生肉”だ。

 やはり最低でも一ヶ月は走るな。剣を振るのも、盾を構えるのも禁止だ」


「……そんなに時間が掛かるんですか?」


「むしろ生きているのが奇跡だ。ローマで死ななかったのは運が良かっただけだぞ」


(マジかよ……)


医師は薬草を詰めた布袋を腹に当て、木の板で固定しながら言った。


「いいか、レン。3週間は絶対安静にしていろ。でないと傷口が開くぞ」

「はい……」


(医者が言うなら守らないとダメだよな。回復と、痛み無効のスキルがあればな……)


暫くするとリクトスとタルトがレンを見舞いに来た。


「レン……お腹、大丈夫……?」


「お前、あのギルモナを倒して大金星あげたんだ。しばらくゆっくりしたって、教官は文句を言わないって」


隣の牢のセルギウスが、木格子越しに声をかける。


「レン。来月カプアである興行がある。だが腹の傷は“ひねる”だけで裂ける。だから治るまで試合は絶対に断れよ」


「……分かってます」


(断っても、強制なら出るしかないんだけどな……)


「それと他の剣闘士が言っていたが、お前、ローマで人気が出てるらしいぞ」


「え?」


セルギウスの言葉に、レンは反射的に顔を上げた。


「たった一人でギルモアを含む3人を倒したガリアのガキ、ってな。

 市民の間で噂になってるらしい。……だから、多分大丈夫だ」


(何が大丈夫なの?)


レンの意味が分かっていない顔を見て、セルギウスは声を潜めた。


「人気が出た剣闘士を、負傷しているのにかからわず試合に出して死なせば、興行師としての顔に泥を塗ることになる。だから貴族がお前を試合に出せと言っても、バティアトゥス様は断る筈だ……」


「なるほど、怪我をしているうちは試合に出なくていいんですね」


「そうだ……。だから安心して療養しておけ」

「……はい」


(やっぱ、セルギウス先輩は面倒見がいいよな……)



リクトスとタルトが自分の部屋に帰り、レンがひとりになると、AIが声を掛けた。


《ポーン──レンさん、療養中ですね》


(AI、お前は相変わらず軽いし、唐突だよな……)


《あなたのお腹の傷は、現代医学ならICUレベルです。ローマ医療で助かったのは運がいいです。きっと、元の体が丈夫なんでしょうね》


(そうなのか……)


《はい。ですが、問題は傷ではありません》


(ん?)


《問題は“政治”です。あなたを殺したい貴族と、評判を守りたいオーナー。刺客や毒殺、事故死などに気を付けてくださいね》


(おい、不吉なことを言うのはやめろ!!)



ーーーーー


バティアトゥスが、青ざめた顔で邸宅の広間を歩いていた。


手には、封蝋のついた一通の手紙。


「……マニウス様からだ」


その声は震えていた。


バティアトゥスは深呼吸し、震える指で封を切った。

羊皮紙を広げた瞬間、彼の顔色がさらに悪くなる。


「……これは……無茶だ……!」


手紙を握る手が、わずかに震えていた。


そこへ、養成所から戻ってきた使いの奴隷が報告する。


「オーナー。オエノマウス教官より伝言です。レンは、やはりひと月は試合に出せないとのことです」


「……そうか、下がっていいぞ」

「はっ」


バティアトゥスは苦い顔をした。


(……マニウス様は“来月の興行に出せ”と仰っている……。傷が治っていなくても構わん、むしろ好都合だとな……)


バティアトゥスは額を押さえた。


「これは……直接行って、断るしかないな」



翌日、バティアトゥスは外套を羽織り、商人特有の笑顔を貼り付けながら、馬車に乗り込み邸宅を出た。



ーーーー

5日後。

ローマの一等地。


パラティヌスの丘にそびえ立つ大貴族マニウスの壮麗な邸宅は、息をのむほど美しく、そして冷徹な威圧感に満ちていた。


大理石の床を踏みしめ、カプアの興行師レントゥルス・バティアトゥスは、執務室で深々と頭を下げていた。


商人特有の営業スマイルを貼り付けてはいるが、背中には嫌な汗がだらだらと伝っている。


豪奢な椅子に深く腰掛けた、マニウス・アントニウス・バルバトゥスは、冷ややかな目でその姿を見下ろしていた。


「……バティアトゥスよ。あのガリアのガキがまだ生きていると聞いた。次の興行に出し殺せ」


マニウスは不快そうに眉をひそめ、手元の羊皮紙を指で叩いた。


「そ、それがマニウス様……」


バティアトゥスは喉を鳴らし、決死の覚悟で言葉を絞り出した。


「レンは腹を深く抉られ、現在は走ることも剣を振ることもできぬ重傷にございます。この状態で無理やり試合に出して死なせれば、観客は興行の悪趣味に白け、興行師としての私の名声は地に落ちてしまいます……! ですから、来月の出場ばかりは、どうかご容赦を――」


「バティアトゥス……」


低く、冷徹な声が執務室に響いた。

空気が一瞬で凍りつく。


大貴族の瞳の奥に灯ったのは、地方の商人など虫ケラのごとく踏み潰せる、

圧倒的な権力の光だった。


「お前は、この私の命に逆らう気か?」


「ひ、っ……!」


蛇に睨まれた蛙のように、バティアトゥスの身体がガタガタと震え出した。


逆らえば、レンの処分どころではない。自分の養成所はおろか、バティアトゥス一族ごとローマの歴史から消されるかも知れない。


だが、バティアトゥスはここでただ怯えて引き下がるような男ではない。彼は金の亡者であり、同時に頭のキレる興行師だ。ちゃんと対策を考えてきてある。


恐怖で冷や汗を流しながらも、バティアトゥスは懐から一通の書状を取り出した。


「マニウス様。どうか……こちらをご覧ください」

「……なんだこれは」


不機嫌そうに目を細めるマニウスに対し、バティアトゥスは一気にまくし立てた。


「実は、先日レンが倒した剣闘士のギルモナの所属先のオーナーから、私に申し出が届きました。ギルモアには、同じく実力派の“兄弟剣闘士”が2人おりまして、彼らが兄の仇を討ちたいと激しく直訴しているようです」


バティアトゥスは胸を張り、自信満々に語る。


「レンの傷が回復したあと、2対1のデスマッチを行います! “彗星のごとく現れた新たな英雄か、それとも固い絆で結ばれた兄弟愛の復讐劇か”。ローマ市民が大好物な泥臭い人間ドラマに仕立て上げるのです!」


マニウスは眉を寄せる。

「レンが英雄? 貴様ふざけているのか!」


バティアトゥスは慌てて首を振る。

「いいえ、そうではありません。レンがギルモナに勝てたのはまぐれです。しかも今回は2対1のデスマッチ。兄弟に絶対的な強さはありませんが、ギルモナ同様になかなかの剣闘士です」


バティアトゥスはニヤリと笑う。


「油断しなければ1対1でも新人のレンでは勝てません。それが2人同時に襲いかかるのです。不意打ちなど一切通用せぬ戦いです。レンの回復後に次の興行主に掛け合えば、面白いイベントとして許可されると思います」


マニウスは無言のまま、冷酷な視線でバティアトゥスを値踏みするように睨みつけた。


静まり返る執務室に、バティアトゥスの激しい心臓の音だけが響く。


やがて――マニウスはふん、と鼻を鳴らした。


「……いいだろう。

まぐれで命拾いをしたガキが、2人のベテランの手によって引き裂かれる姿を見てみようではないか。

バティアトゥス、その試合の興行主はわしがなってやる」


「え? ははぁっ! ありがたき幸せにございます!」


バティアトゥスはさらに深く頭を下げながら、剥がれそうになる笑みを必死に堪えていた。


(まさか、マニウス様自らが興行主になってくださるとはな! これで興行主探しの手間が省けたどころか、大貴族からの莫大な開催資金が手に入る!)


バティアトゥスは商人のしたたかな機転で見事にマニウスの牙をそらし、最高額の予算と、レンの療養期間を勝ち取ることに成功した。


「次こそ、奴の死体を特等席で見せてもらうぞ。失敗は許さん」


「かしこまりました。必ずや、ご満足のいく最高の屠殺ショーをお見せいたします」


バティアトゥスは一礼して執務室をあとにした。


カプアの地下牢で眠るレンに、大貴族マニウスが主催する、さらなる絶望的な死へのカウントダウンが突きつけられた瞬間だった。

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