3:六甲おろし
断罪の槌の音を奏でていたピンヒールが、その持ち主の停止と共に、長きダンスを止めた……。
「あんたたち、……何見てんのよ。」
そんな目立つ格好をして、『見るな』と言えるその神経に、さらに葛西は萎縮する……。
しかし、この女だって、タイムサービスに駆け込む途中に、他人の視線を気にするほど馬鹿ではなかった。
なら、何故……? 答えは明朗にして簡単。……邪魔だったのだ。自らが目指す地下一階へのエスカレーターを塞ぐ若い男がッ!!
女には、葛西も五十嵐もあまりに若く見えたのだろう。だから、子供が調子にのってエスカレーターで遊んでいるように、彼女には見えたのだった。
「どきなッ、あかんよぉこんなことしちゃあッ!!」
独特のイントネーションで迫られる。それは子供を叱るかのように。……ドスのきいた声、という形容も、あながち間違ってはいなかった……。
迫られる葛西をよそに、五十嵐は無線でこの状況を連絡する……。
「専門店側入り口より……おばさん。葛西を越えようとしてるぜ……。」
「大丈夫だッ、別に違法なことをしようとしているわけじゃない。…道徳的に問題があろうとなァ。もう30秒を切った。問題はな……」
ブチッ。多少の、呻き声にも聞こえる電子音のあとに、無線が切れてしまう。……何故?
いや、違った。五十嵐は自ら『切った』のだ。それは人間にもあった、元来の野生の感覚。
本能が、彼に無線を続けることをやめさせたのだ。……それをやめなければ、危険が訪れることを、体の全感覚が訴えかけているから。
ドシーン……! 重たく、響く、音。その数瞬に聞かれた風を切る音も、……悲鳴も、全てが現実感を喪失していて……あぁ、あれだ、死神が鎌を振るう音にそっくりじゃないか……。
五十嵐は視線を葛西に向ける。……あぁ、良かった、視界を葛西に向けられたよ、あぁ良かった、葛西の体、ちゃんと残ってるよ……そんなあまりに小さな一つ一つに幸福を感じながら。……五十嵐は一つの絶望にたどり着く。
あれ……?葛西、何で倒れてんの?
五十嵐はそう思考したことを、後に後悔することになる。何で、そんなことを考えている間に逃げなかったんだ……ッ。
「う、ぐぅ……。」
葛西は呻く。倒れた本人ですら、何が起きたか分からなかった。だが、一つだけ分かることがある。
「どきぃな、おばちゃん、こんなんやりたくないんやから。」
この女が、やったということ……ッ。
「……。邪魔いうッてんねんッ!! 聞こえへんのかッ!?」
動けないのはあんたのせいだろ……。
五十嵐はこの女がどうやって葛西を倒したのかが分からず戸惑いを隠せない。
しかし、数瞬のうちにそれを見ることになるのだった……。……自分の体をもって。
「仕方なァ。恨まんといてぇな。」
その女はうずくまる葛西に近づく……! その手には、……つまようじが握られていた。……つまようじ? 刺すのかッ、毒でも塗られてるのかッ!?
五十嵐の体に悪寒が走る。膝がガクガクと振るえ、思考が止まる。
葛西がいくら気が弱くても、一瞬の内に一人の男を倒す、その女の強さに戦慄する……ッ。
そして、つまようじが葛西に向けられた時、五十嵐は叫んでいた。
「やめやがれッ!!」
それも本能ゆえ。目の前で同志が傷つけられ、それを助けたい、救いたい、という電気的かつ反射的な叫び。
「兄ィちゃん、この子の友達かぁ? あかんよ、こんなトコで遊んじゃあね。」
その台詞と共に、つまようじが五十嵐に向けられる……ッ。
五十嵐は一応の構えをとる……。それがいとも簡単に解かれるであろうことを知りながら。
「……兄ィちゃん、やめときぃ。おばちゃんも、こんなんやりとうないんや。」
「…………ッ!!」
次の瞬間ッ、女は五十嵐の懐に一瞬にして入り込むッ!!
……そして、あぁ、それはあまりに小さな動作……ッ!! そう、例えるなら『たこ焼きをひっくり返す』かのような……ッ。
「大阪食倒流……。」
五十嵐は白く濁った思考の中で、それを聞いた。意味を咀嚼する暇もなく、視界がぐるりと回転して……。
それは、現実からの虚脱。無重力に漂うかのような、一瞬の体験。
「一甲おろし。」
轟音、爆音。その五十嵐の姿を見たのは葛西だけだった。そして同時に、いかにして自分が倒れたのかを知った。
五十嵐の体が……、高さを維持したままひっくり返り……、『墜落』したのだ……。
「終わりや。」
女は静かにそう告げると、地下に行くため葛西を跨ごうとする。
「ま、まだ、だぜ…。」
「……ッ!?」
女はその声に素早く振り返る。それは驚愕を伴っていた……。
……女は自分の技を食らって立ち上がった男を、今まで知らなかったのだ。だから、それは、純粋な驚き。
五十嵐は間一髪で受け身を取り、首への大ダメージを防いだのだった。……女はその受け身すら許さない速度で投げた。なのに……ッ。
「……ほ、ほほォ……。なかなか気骨のある兄ィちゃんやなぁ……。」
女の顔に初めて動揺が浮かぶ。……五十嵐だってダメージを防げたわけじゃない。
首への致命的なダメージを避けただけで、全身にはやはり痛みがあるのだ。
立ち上がった五十嵐は、女に問いかける……。
「ぐッ……。あんた、何者だ……? ただの主婦とは、……言わせねぇぜ……。」
女は応える。
「野沢晴子。……ただのしがない主婦や。」
そして、晴子は五十嵐を睨む。つまようじを向け、言った。
「……やめといた方がええで。私の『おろし』は『六甲』まである。」




