願い
「伊藤さん、お願いします。伊藤さんなら私の思いをわかってくれるはず。
初めて外国の強豪と戦った時、同じような思いだったはず」
伊藤さんは困った顔をして、頭をぽりぽりとかいた。
「気持ちはわかるよ。しかし」
私がすがるような目で見ると、伊藤さんは更に困った顔になって目を逸らす。
「そんな目で見るな。俺は100kgをいったりきたり。
ある程度の打撃には耐えられる。だが、お前はそうはいかん。
一発ボディにくらえば途端に動けなくなる。おまけに、頭突きも蹴りも肘も反則だ。
ローブローもだめ。貫手も使えん。
俺がブレイブで使っている、
クリンチの時に耳後を殴るテクニックを教えてやってもいいが、クリンチいやだろう?」
「伊藤さん、それダメです。ラビットパンチも反則です」
「なぬ? じゃあ、ますますまずいじゃないか。
何も不利な条件でやる必要はない。まだ契約書も交わしてないんだ。
俺が頭を下げれば話だ」
「不利なのは重々承知しています。
でも、やりたいんです。この機会を逃したくないんです」
「機会ってお前なあ」
「皆さんのおかげで、私は強くなれました。
でも、もっともっと強くなりたいんです」
「その気持ちはわかるが」
私は伊藤さんの手を両手で握って頭をさげる。
「お願いします! やらせてください!」
「俺はいいんだけど、山下師範がなあ」
伊藤さんが困り果てた表情で山下師範を見る。
話を振られた山下師範は、ぎょっとした顔になって、
私からあわてて目を逸らした。
しばし、山下師範を見つめていると、ドアが開けられ、
木村さんがシャドーボクシングをしながら入ってきた。
いつもながら、木村さんの行動は意味がわからない。
呆れながら木村さんを見る。
行動は意味不明だけど、鋭く速い。拳が空気を切り裂く音が、部屋にこだまする。
「話は聞かせてもらった。俺がコーチしよう」
伊藤さんが、木村さんの胸を叩こうすると、
木村さんは見事なフットワークで避けた。
「てめっ。後から出て来て、何言ってやがる! ボクシングぐらい俺が教えるよ」
「お前、ほんとに馬鹿だな。お前がパンチを教える?
ストレートもまともに打てないのに。お前のは突き。俺が今やってるのがボクシングのパンチ」
「へっ。見てろや!」
伊藤さんが構え、ストレートを放つ。
風きり音がすごい。こんなの当たったらただじゃすまない。
「な? 大野、俺が教えてやる」
木村さんが、意地悪い顔で、伊藤さんの顔をしたから見上げる。
「おいおい。俺がしばらくいない間に、ごまかすのが上手くなったなー。
嘘教えて、大野が負けてもいいんだ。へー」
「ぐっ。磯野さんだってなあ。ストレートはそこまで打てなかったじゃねえか」
「ふん。やっと負けを認めたか。というわけで、俺が基本を教える。
これでも、プロボクサーのライセンス持ってるし」
「え?! 木村さん、プロボクサーなんですか!」
「うん、まあ。暇つぶしにね」
「うわー。すごい。木村さんなら世界チャンピオンになれそうですね」
「いやいや、そんなことないよ。もうずっと試合なんてでないし。
ちなみに日本ランキングは4位までいった。
日本チャンプが逃げるもんでさー。なんか、飽きちゃって辞めちゃった」
「へっ。飽きっぽいんだよ。お前は、空手は辞めやがらなかったくせに」
木村さんは勝ち誇った顔をしてから、山下師範の方を見た。]
「師範、いいですよね?」
「まったく、お前たちときたら。ここで私がダメと言ったら、私だけ悪者じゃないか。
いいだろう。やれるだけやってみなさい」
「押忍! がんまります!」
「ところで、今日はだめだぞ。肩が治ってからにしなさい」
「だいぶいいんですが……」
「ダメだ。治ってからにしなさい」
「はい……」
私が肩を落とすと、山下師範は本棚から、
ボクシング入門と背表紙に書かれた本を一冊取り出し、
私に差し出してくれた。
「これで、勉強するといい。といっても、忘れてはならんのは、我々は空手家ということだ。
何も戦い方までボクサーを真似る必要はない」
「お、押忍!」
「ははは。泣いた烏がもう笑うか。しかしまあ、磯野が起きたら、なんでこんなことにと
目を丸くしそうだな」
「ダメでしょうか?」
「ダメじゃないさ。磯野や私は自分に有利な状況にもっていくのに腐心していたが、
大野のようにあえて、不利な状況に跳び込むというのも、面白いかもしれないな」
伊藤さんが、にやにやして山下師範を見る。
「なんだ伊藤、何か言いたいのか?」
「いいえー。山下師範は、大野には甘々だなあと思いましてね。がははは」
「ぐっ……。まあ、そのなんだ。大野はまだ若いんだ。
いろんな経験を積む必要があると思ってな」
「がはははは。いいですって。誤魔化さなくても。
大野が強くなると、磯野さんの強さにも繋がるんですから。
まだまだ伸びしろがあるこの娘が、どこまで強くなるのか俺も興味ありますよ」
褒められすぎて、私は恥ずかしくて、体をよじってしまう。
頑張って、もっともっと強くなったら、二人はもっと褒めてくれるだろう。
木村さんが、お手上げのポーズで、首を振る。
「娘がいると、女性に甘くなるっていいますけど、二人はそのまんまだな」
「うっせえよ。ホモのくせしやがって」
伊藤さんが蹴りを出すと、木村さんは滑るようなフットワークで、避けた。
足は、ほとんど元に戻っているみたい。
「じゃ、道場に行こうか? パンチは無理でも、フットワークはできるだろう。
山下師範、かまいませんよね?」
「うむ。キチンと教えてやってくれ」
「押忍! 馬鹿な伊藤もこいよ。お前も暇だろうから、手伝え」
「ちっ。むかつく野郎だ。言われんでも、付き合うさ」
木村さんと伊藤さんに続いて、私も道場へ向かった。




