交渉
次の日。
光臨会に向かうと、受付の前で伊藤さんが待ち構えていた。
「押忍! 磯野さん、また何かやらかしたんですか!」
「押忍。すいません。今は大野です。生理になっちゃってて……」
「おお、そうか。ボクシングジムの会長とかいうのが、えらい剣幕で、
大野を出せって怒鳴り込んできてるぞ。今、山下師範が対応してる」
伊藤さんはどこか嬉しそうだ。
私は、昨日の巻瀬さんのことで、どぎまぎしてしまう。
「す、すみません。昨日、咄嗟に」
「咄嗟に?」
「股間を……。その、潰してしまいまして……」
「股間? 金玉か! がはははは!!」
「伊藤さん! 声が大きい! 大きいですって!」
「ボクサー生命がなんて言ってたから、拳でも潰したかと思ったぜ。
あっちから突っかかってきたんだろ?
大丈夫。山下師範が、うまいことやってくれるよ」
『話にならん!』上から怒号が聞こえてきて、
私はビクッと体を震わせてしまった。
対照的に伊藤さんは、嬉々として階段をあがっていく。
「伊藤さん」
「いい、いい。大野はもう帰れ。俺たちに任せとけ」
伊藤さんが最上階の山下師範の執務室へとあがっていき、
私は帰れと言われたものの気になってしまって、
事務所前をうろうろするばかり。
5分程経って、私は最上階へ向かった。
おそるおそる最上階の執務室前に立つと、中から言い争う声が聞こえてきた。
『出るとこ出たってこっちはいいんですよ?』
『まあまあ。何も試合しないと言ってるのではありません。条件が悪すぎると言っているのです』
どうやら、私のせいで試合をするとかの話になっているらしい。
私は、深呼吸してからドアをノックした。
「押忍。大野です。失礼します」
私が執務室に入ると、昨日あった中年の男性が、にやっと笑った。
「大野さん、あんたえらいことしてくれたな。
巻瀬は再起不能だよ。ボクシングどころか、
普通の日常生活を送れるかも危うい。あんたどう責任取るつもりだね?」
「いえ、その……」
男性から私を隠すように、伊藤さんがすっと立ち位置を変えて、腕組みする。
「矢野さん、芝居はいい加減、止めにしたらどうだい?
あんたは、大野の人気にあやかって、一儲けしたい。それが本音だろ?」
「ふん。さっきから試合でお互いすっきりしようと言ってるだけだ。
喧嘩じゃないんだ。ボクサーが素手で試合などできん」
「わからんおっさんだな。試合してほしけきゃそれなりの条件もってこい。
こっちが納得するだけのなあ。50万なんてはした金で、
大野を引っ張り出せると思ってんのか?
出るとこでたら、困るのはあんただろう。
ボクサーが素手で殴りかかってきたんだからな」
山下師範が、伊藤さんを鋭い目で見る。
「伊藤、言葉が過ぎるぞ」
「押忍。失言でした。とにかくさあ、やるなら何でもあり。
ファイトマネーは、そうだな。きり良く1000万でどうだ?」
「な?! 世界戦じゃないんだぞ!」
「あんた、年末にあった試合のギャラいくらか知ってて、言ってんのかい?」
あれ? 年末の試合って、リチャードソン戦のことか。あれって、ファイトマネーあったんだ。
伊藤さんの敵をとろうと必死になってて、契約書ちゃんと見てなかった。
「いくらだと言うんだ?」
「あんときは、出るだけで800万、勝ったら1500万さ。
大野の人気は知ってるだろ? 今出れば、もっと上がるだろうね」
「う、うちにはそんな金は……」
「わかってるよ。何もあんたに出せって言ってるわけじゃない。
テレビ局にはこっちから話とく。あんたのところには、
放映料として結構な金額がはいるよ。
こっちは会場の手配とかチケットの印刷といったことは不慣れなんだ。そこらへんは任せるよ」
「やってくれるというんだな? 1000万のファイトマネーなら」
「光臨会はな、挑まれた勝負からは逃げねえよ。
試合したら1000万、勝ったら2000万でいいさ」
「2000? 法外過ぎる!」
「いやいや。あんたんところが勝ったら、1000万でいいんだから、
お得じゃないの? それとも勝つ自信がないのかな? こんな細身の女子高生に」
「……。グローブありの、蹴りなしだ」
「おっ。乗ってきたね。グローブハンデは?」
「無論だ」
伊藤さんはニヤッと笑って、山下師範の方をみた。
山下師範はやれやれといった顔で、頷く。
「よっしゃ決まりだ。今の条件、書類にして持って来たらすぐサインしてやるよ。
じゃあ、早く、会場の手配をお願いしますわ」
「わかった。すぐに持ってくる」
中年男性が、ばたばたと部屋をでていく。
山下師範は苦笑しながら、コーヒーカップにポットからお湯を注いだ。
「2000万とは吹っ掛けたな」
「本気で来てくれんと、大野のためにならんですからね。
1000万のためなら、死に物狂いでくるでしょう」
「ボクシングの試合ですか……」
「ん? どうした、浮かない顔して。大丈夫。今は生理中で、大野なんだろ?
磯野さんが戻ったら、真正の突きでばこーんとやっちまえばいいんだよ。
やつらたまげるぜー。大野に威力のあるパンチがあるとわかったら」
「だ、だめです」
「へ? 何がよ? 何も上半身裸でやれって言ってんじゃない。
まあ、俺としてはこう、露出度の高いコスチュームの方がだな」
「違うんです。真正の突きは使えません」
「あ? それは今、生理だからだろ? 試合の時には」
「違います! グローブを付けてると、
ちゃんとした構えが作れません。だから打てないんです」
「またまたー冗談が過ぎるぜ。マジ?」
「はい」
山下師範と伊藤さんの顔色が変わる。
「伊藤、早く追いかけ行って、先方に断りをいれなさい!」
「お、押忍!」
伊藤さんが部屋から出ていこうする。
「待ってください!」
怖い。でも……。
「私、やります。やらせてください」
伊藤さんが足を止め、山下師範が困り顔で答える。
「しかし、あの突きがだせんのなら」
「だからこそ、やりたいんです。ぎりぎりの勝負をしてこそ、
強くなれると思うんです。お願いです。やらせてください」
「うーん。しかしなあ」
山下師範は、渋い顔で、うんと言ってくれそうにない。
私は伊藤さんに、救いを求めた。




