過去編 4話目 たった一人のために
ミレーヌと出会ってから、一年が過ぎようとしていた。
グリムとミレーヌは、これまで数え切れないほどの魔物や強敵を討伐してきた。
青竜をはじめとする強力な魔物でさえ、二人にとっては大した脅威ではなかった。ミレーヌが魔法で敵を撃ち落とし、グリムが残った敵を圧倒的な身体能力で叩き伏せる。
その連携は、まるで何年も前から互いの動きを知っていたかのように自然だった。
いつしか二人の名は街中に知れ渡り、冒険者ギルドではこんな噂が囁かれるようになっていた。
『たった二人で、最強の冒険者パーティー』
それが、グリムとミレーヌの評判だった。
「今日のワイバーンは数が多かったわね」
討伐依頼を終え、ギルドへ戻る道すがら、ミレーヌが疲れた様子もなく言った。
「だな。だが、ほとんどミレーヌが撃ち落としていただろ」
「まぁね。あれくらいなら大したことないわ」
ミレーヌは得意げに胸を張った。
「それなら、俺はほとんど何もしていないことになるな」
「そんなことないわよ。落ちてきたワイバーンを全部倒してくれたじゃない」
「落ちてきた相手を倒すだけなら簡単だからな」
「はいはい。さすがグリム様ですね」
「おい、からかうなよ」
ミレーヌは楽しそうに笑った。
そんな何気ない会話を交わしながら、二人はギルドへと向かっていく。
出会ってから一年近く。
二人は数々の死線を共に乗り越え、誰よりも息の合う相棒になっていた。
……ただし、恋愛の進展については、驚くほど何もなかった。
お互いに一緒にいることが当たり前になり、二人で食事をしたり、街を歩いたり、ときには何時間もカフェで話し込んだりする。
周囲から見れば、どう考えても仲の良い男女だった。
それでも、どちらも決定的な一歩を踏み出せずにいた。
もっとも、グリム自身は自分の気持ちを少しずつ自覚し始めていたのだが。
ギルドへ入ると、いつものように大勢の冒険者たちが酒を飲み、依頼の掲示板を眺めていた。
その中で、グリムはふと視線を感じた。
顔を向ける。
何人かの冒険者が、こちらを見ていた。
目が合うと、彼らはすぐに視線を逸らす。
また別の場所からも視線を感じた。
そこにあったのは、憧れや尊敬とは違うものだった。
「はぁ……何なんだよ」
グリムが小さく息を吐く。
「どうかした?」
「いや、別に」
「そう? 何かあったら言ってね」
「ああ」
ミレーヌは少し不思議そうに首を傾げたものの、それ以上は尋ねなかった。
その後、二人はギルドで別れ、それぞれの帰路についた。
宿に戻ったグリムは、ベッドの端に腰掛ける。
「……何か嫌な予感がするな」
今日に限った話ではない。
ここ最近、冒険者たちから向けられる視線が、以前よりも露骨になっていた。
気のせいならいい。
そう思いながらも、胸の奥に小さな引っかかりが残っていた。
しかし、考えたところで答えが出るわけでもない。
グリムはそのままベッドに横になり、目を閉じた。
そして、一週間が過ぎた。
*
いつもなら、昼頃になるとミレーヌは教会を抜け出し、グリムとカフェで待ち合わせていた。
聖女としての仕事が忙しい日でも、短い時間を見つけては顔を出す。
ところが、この一週間、ミレーヌは一度も姿を現さなかった。
最初の二日ほどは、仕事が立て込んでいるのだろうと思っていた。
だが、三日、四日と経っても連絡はない。
そして一週間が経った今、グリムはさすがに心配になっていた。
「そんなに大変なのか、聖女って……」
カフェの椅子に座り、誰にともなく呟く。
いつもなら、少し遅れてやってきたミレーヌが、申し訳なさそうに笑いながら向かいの席に座る。
そんな光景が、今はひどく遠く感じられた。
そのときだった。
「聖女様……どこにいらっしゃるの……!」
切羽詰まった声が聞こえた。
見ると、一人のシスターが周囲を見回しながら、慌ただしく誰かを探していた。
やがて彼女はグリムと目が合うと、すぐさま駆け寄ってきた。
「グリムさん!」
「どうした? そんなに慌てて」
「聖女様を見ませんでしたか!」
シスターは息を切らしながら、必死の形相で尋ねた。
「いや、見ていないが……」
「本当ですか!?」
「ああ。最後に会ったのは一週間前だ」
「そう、ですか……」
シスターの表情が一層暗くなる。
「最近、聖女様があなたと一緒にいらっしゃるという話を聞いていたので、もしかしたらと思ったのですが……」
「ミレーヌに何かあったのか?」
グリムの声が低くなった。
シスターは一度唇を噛み、やがて覚悟を決めたように口を開いた。
「聖女様が……ここ一週間、教会に戻られていないんです!」
「……え?」
思わず聞き返した。
「聖女様は、ほぼ毎日お昼頃に教会を抜け出されていました。でも、夕方には戻られますし、朝もきちんと教会に顔を出して、お仕事をされていたんです!」
「それが、一週間も帰っていないってことか?」
「はい! 朝も夕方も姿を見せず、連絡もありません。ご自宅にも伺ったのですが、いらっしゃらなくて……!」
グリムは立ち上がった。
「……家にもいなかったのか」
「はい……」
「じゃあ、どこへ……」
考えようとしても、頭がうまく働かなかった。
ミレーヌは、何も言わずに突然いなくなるような人間ではない。
少なくとも、グリムはそう信じていた。
ならば、何かがあったのだ。
「俺も探すのを手伝おう」
「本当ですか!? ありがとうございます!」
シスターは深々と頭を下げると、再び慌ただしく駆け出していった。
その背中を見送りながら、グリムは考え込んだ。
「ミレーヌが、誰にも言わずに逃げるような人じゃない……」
ならば、どこへ行ったのか。
何かに巻き込まれたのか。
そして、脳裏に浮かんだのは、ここ最近ずっと感じていたものだった。
冒険者たちの視線。
あの、明らかな敵意。
「……まさか」
グリムはすぐさまギルドへ向かった。
*
「いらっしゃいませ。依頼をお探しですか?」
ギルドに入ると、いつもの受付嬢が笑顔で声をかけてきた。
「いや、ちょっと聞きたいことがある。ミレーヌ……俺と一緒にいた女性を見ていないか?」
「ミレーヌさんですか? 今日は見ていませんね」
「今日じゃなくてもいい。昨日や一昨日は?」
「うーん……確か、三日前にお見かけしたような気がします」
「どこに行ったか分かるか?」
思わず身を乗り出す。
受付嬢は少し驚いた様子だったが、記憶をたどるように目を細めた。
「詳しい行き先までは分かりません。ただ、何人かの冒険者と一緒に、どこかへ向かわれていたような……」
「他の冒険者?」
グリムはゆっくりと振り返った。
ギルドの中では、いつもと変わらない光景が広がっていた。
酒を飲んで騒ぐ者。
掲示板の前で依頼を選ぶ者。
仲間と談笑する者。
その中に、ミレーヌを連れ去った者がいるのかもしれない。
「どんな冒険者だった?」
「確か……Bランクの『黒爪』というパーティーだったと思います」
「黒爪……」
その名には聞き覚えがあった。
黒爪は、この街でも名の知れた冒険者パーティーだ。Bランクに相応しい実力を持ち、これまで数々の依頼をこなしてきたらしい。
「ありがとう。助かった」
グリムが礼を言うと、受付嬢は不安そうに尋ねた。
「ミレーヌさんに、何かあったんですか?」
「い、いや……まだ何も分かっていない」
「そうですか……。でも、もし何かあったら、私にもできることがあれば手伝いますからね」
「……ああ。その言葉、心に刻んでおくよ」
「はい!」
受付嬢は少し安心したように微笑んだ。
そのとき、彼女はふと思い出したようにカウンターの下から一枚の紙を取り出した。
「そういえば、これを渡すのを忘れていました」
「紙?」
「二日前、フードを深く被った方がいらっしゃって。顔は見えなかったんですが、グリムさんに渡してほしいと」
折り畳まれた紙を受け取ったグリムは、眉をひそめた。
嫌な予感が、確信へと変わっていく。
紙を開く。
そこには、短い文章が書かれていた。
――ミレーヌは我々が預かっている。
――西にある荒地へ来い。
――条件は一つ。お前一人で来ること。
――もし約束を破れば、あの女がどうなるかは保証できない。
「……ッ!」
グリムの手が、紙を握り締めた。
「グリムさん!? どうしたんですか!」
「……大丈夫だ」
そう答える声は、先ほどまでとは明らかに違っていた。
怒鳴ってはいない。
取り乱してもいない。
ただ、静かだった。
「教えてくれてありがとう」
「は、はい……」
グリムは紙を懐にしまい、ギルドを飛び出した。
「クソッ……!」
走りながら、歯を食いしばる。
ミレーヌが拘束されている。
おそらく、あの冒険者たちの仕業だ。
なぜ彼女が狙われたのか。
答えなら、いくらでも思い当たった。
だが、今はそんなことを考えている場合ではない。
助けなければ。
何があろうと、必ず。
グリムは西の荒地へ向かおうとした。
しかし、その進路を塞ぐように二人の人物が現れた。
「グリム!」
クラウスとソフィアだった。
「クラウスさん……ソフィアさん?」
「ミレーヌはどこじゃ?」
クラウスの表情は険しかった。
「シスターたちから話を聞いた。わざわざ儂らの家にまで来てな」
「それについてですが……」
「グリム。お主が何かしたのか?」
「俺じゃありません!」
思わず声が強くなる。
だが、すぐにグリムは口を閉じた。
「……俺は何もしていません。ただ……俺が巻き込んだのは、本当です」
俯いたグリムの手には、先ほどの紙が握られていた。
おそらく、黒爪の連中は自分たちを妬んでいたのだろう。
ミレーヌは冒険者になったばかりの頃、初めてのランク分けでSランクの評価を受けた。
一方のグリムは、どこの街から来たのかも分からない旅人でありながら、この街に長く滞在し、青竜をはじめとする強力な魔物を次々と討伐してきた。
その結果、街に現れる魔物は減り、冒険者たちが受けられる依頼そのものも少なくなっていた。
そして何より、二人の名声は街中に知れ渡っている。
実力ある冒険者たちが何年もかけて築き上げる評判を、たった二人が短期間で手にしてしまったのだ。
面白くない者がいても、不思議ではなかった。
だが、それはあくまで推測にすぎない。
何より、ミレーヌを巻き込んだことだけは事実だった。
グリムは二人に、これまでの経緯をすべて話した。
ミレーヌが一週間姿を見せなかったこと。
シスターが探し回っていたこと。
受付嬢から聞いた黒爪の名。
そして、ミレーヌを人質に取ったという脅迫状。
「……そうか」
話を聞き終えたクラウスは、真剣な表情で黙り込んだ。
「グリムのせいじゃないわ」
ソフィアが静かに言った。
「ミレーヌだって、自分で決めてあなたと一緒にいたんでしょう? それを誰かが妬んだからって、あなたが責任を感じる必要はないわ」
「……ありがとうございます」
「しかし、納得はいかん」
クラウスが口を開いた。
「ミレーヌは、実力だけなら誰にも引けを取らんはずじゃ。そんな半端者どもに捕まるほど、弱くはない」
「そうよね……」
ソフィアも頷いた。
二人とも、ミレーヌの実力を疑っているわけではなかった。
むしろ、だからこそ理解できなかったのだ。
あのミレーヌが、なぜ一週間もの間、帰ってこられなかったのか。
何か不自然なことが起きている。
それだけは間違いなかった。
「グリム」
クラウスが真っ直ぐに彼を見据えた。
「今回は儂に任せろ。お主はここで待っておれ」
「無理です」
返答は即座だった。
「相手はBランクの冒険者パーティーじゃ。何をしてくるか分からん」
「だからこそです」
「……守れなかったじゃろ?」
「はい。守れませんでした」
グリムはその事実から目を逸らさなかった。
「これは遊びではない。相手がどんな手を使うかも分からんのじゃぞ。実際、実力者であるミレーヌが捕まった。これは、相手が変な物にでも手を出したのじゃろう」
「そんなことは分かっています」
静かな声だった。
怒鳴っているわけでもない。
感情に任せて叫んでいるわけでもない。
それなのに、その言葉には一切の迷いがなかった。
クラウスは目を細めた。
「死ぬかもしれんぞ?」
グリムは答えない。
「Bランクの冒険者たちが聖女を拘束した。正面からの勝負ではないのかもしれん。妙な力に手を出している可能性もある。それでも行くのか?」
「行きます」
「命を懸けられるのか、と聞いておる」
「行きます」
同じ言葉だった。
しかし、今度は一段と力強かった。
クラウスは黙り込んだ。
グリムも、それ以上は何も言わなかった。
ただ、クラウスの目を真っ直ぐに見つめている。
その瞳に恐怖はなかった。
もちろん、死ぬことが怖くないわけではないだろう。
それでも彼の目には、ミレーヌを助けるためなら自分の命すら惜しくないという覚悟が宿っていた。
そして、自分を狙えばいいはずなのに、わざわざミレーヌを人質に取った者たちへの、抑えきれない怒りも。
拳を握り締めているわけではない。
殺気を放っているわけでもない。
それなのに――クラウスには、目の前の男が今にも何かを壊してしまいそうに見えた。
「…………」
クラウスは言葉を失った。
これまで、数え切れないほどの強者を見てきた。
自分自身も、魔法や能力に頼ることなく、肉体一つで最強と呼ばれる領域にまで辿り着いた人間だ。
だからこそ分かった。
目の前の男を、もう説得することはできない。
いや、そもそも説得できるかどうかという話ではなかった。
グリムは最初から、答えを決めていたのだ。
「俺が一人で行きます」
グリムは懐から脅迫状を取り出し、二人に見せた。
「この紙には、一人で来いと書かれています。俺以外の人間が来れば、ミレーヌを殺すかもしれない」
「…………」
「俺が行かなければ、ミレーヌは助からないかもしれません。だったら、行くしかないでしょう」
クラウスは長い間、グリムを見つめていた。
やがて、ゆっくりと息を吐く。
「……そうか」
それ以上、引き止めることはしなかった。
クラウスは一歩横へずれ、グリムの進む道を開けた。
ソフィアが一歩前に出る。
「グリムさん」
「はい」
「ミレーヌを……お願い」
その声は震えていた。
母親として、娘を心配しないはずがない。
それでもソフィアは、グリムを信じて託した。
グリムは二人に向かって、深く頷いた。
「必ず、連れて帰ります」
そして、振り返ることなく走り出した。
その背中を、クラウスとソフィアは黙って見送った。
やがて、グリムの姿が遠ざかり、見えなくなる。
「……クラウス」
ソフィアが小さく呼びかける。
「あの人なら、ミレーヌを助けてくれるかしら」
「…………」
クラウスは答えなかった。
ただ、先ほど見たグリムの瞳を思い返していた。
あれは、ただ強いだけの人間の目ではない。
何かを守るために、自分のすべてを懸けようとする人間の目だった。
そしてクラウスは、その覚悟がどれほど危うく、どれほど強いものなのかを知っていた。
*
西の荒地へ向かう道を、グリムはひたすら走っていた。
頭の中に浮かぶのは、ミレーヌの姿ばかりだった。
初めて出会った日のこと。
一緒に冒険者になった日のこと。
魔物を倒し、くだらないことで笑い合った日々。
そして、いつもカフェで楽しそうに話していた彼女の笑顔。
「……待ってろ、ミレーヌ」
グリムは前を見据えた。
「今、助けに行く」
これから先、どんな敵が立ちはだかろうとも。
どれほど危険な罠が待ち受けていようとも。
彼は、もう驚きもしないし、怯みもしないだろう。
その覚悟は、すでに決まっていた。
たった一人のために。
グリムは、荒地へと走り続けた。




