過去編 3話目 勇気
ミレーヌがグリムを自宅に招いたのは、その日が初めてだった。
「入って」
「お、おう……」
グリムは少しぎこちない返事をしながら、ミレーヌの後に続いて家の中へ入った。
実は、グリムは女性の家に入ること自体が初めてだった。
普段はどんな魔物を相手にしても平然としている彼だが、今回ばかりは勝手が違う。
何となく落ち着かず、視線があちこちを行き来していた。
しかし、家の中へ一歩足を踏み入れた瞬間、そんな緊張も忘れて思わず声が漏れた。
「おぉ……」
室内は驚くほど綺麗だった。
床にも棚にも埃一つなく、家具はきちんと整理されている。置かれている小物にも統一感があり、隅々まで掃除が行き届いていた。
普段から丁寧に手入れしているのだろう。
「どうしたの? そんな声を出して」
「な、何でもない」
「……変なの」
ミレーヌは不思議そうに首を傾げた。
「ちょっと待ってて。飲み物を取ってくるから」
「ああ、分かった」
ミレーヌはグリムを客間へ案内すると、飲み物を取りに部屋を出ていった。
一人になったグリムは、椅子に腰を下ろす。
「……落ち着かねえな」
小さく呟き、背筋を伸ばした。
魔物の群れに飛び込む方が、よほど気楽かもしれない。
そんなことを考えていると、不意に部屋の扉が開いた。
「おっ、ミレーヌか?」
グリムは顔を上げた。
しかし、入ってきたのはミレーヌではなかった。
見知らぬ男性と女性が一人ずつ。
二人は当たり前のようにグリムの向かい側へ腰を下ろした。
「……え?」
グリムの表情が固まる。
「え、あ……え?」
さすがのグリムも動揺していた。
何しろ、知らない男女が目の前に座っているのだ。
男性は白髪交じりの髪をした、落ち着いた雰囲気の人物だった。女性の方も穏やかな表情を浮かべており、二人からはどこか気品が感じられた。
しばらくして、男性が口を開いた。
「そういえば、まだ自己紹介をしておらんかったのぉ」
「……は、はい?」
「儂はクラウスじゃ。ミレーヌの父親をしておる」
「……え?」
グリムは一瞬、固まった。
そして、すぐに姿勢を正した。
「ミレーヌのお義父様……!」
「まだ、お義父さんと呼ばれる筋合いはないのぉ」
「……はい」
即座に否定され、グリムは少し肩を落とした。
だが、隣に座る女性を見ると、すぐに表情を明るくする。
「ということは、こちらのお美しい女性は……!」
「あら、お美しいだなんて嬉しいわ!」
女性は楽しそうに笑った。
「私はソフィア。ミレーヌの母親よ」
「お義母様!」
「だから、まだそう呼ばせるつもりはないのぉ!」
クラウスがすかさず突っ込んだ。
「そもそも、お主はミレーヌと付き合ってもおらんじゃろ!」
「……」
グリムはそっと目を逸らした。
その通りだった。
ミレーヌと知り合って、およそ五ヶ月。
一緒に冒険者として依頼を受け、何度も街を歩き、こうして家に招かれるほどの仲にはなった。
しかし、付き合っているわけではない。
婚約など、もちろんしていない。
「……情けないのぉ」
「その通りです」
「認めてどうする!?」
クラウスが思わず声を上げる。
グリムは真面目な顔で首を傾げた。
「いや、事実ですし……」
「……お主、なかなか面白いのぉ」
クラウスは呆れながらも、どこか楽しそうだった。
「ところで、なぜお義父様とお義母様がここに?」
「じゃから、その呼び方をやめい!」
「う、うい……」
クラウスが額に手を当てた。
その様子を見ていたソフィアが、くすくすと笑いながら夫の耳元へ顔を寄せる。
「ミレーヌもこの子のことを気に入っているんだから、あまりからかわないであげなさい」
「わ、分かっておる……」
クラウスは小声で返した。
どうやら、娘の交友関係が気になっているのは父親として当然らしい。
ソフィアは改めてグリムへ向き直った。
「私たちは、ミレーヌに呼ばれてここへ来たのよ」
「ミレーヌに?」
「うむ。じゃが、何をするのかは聞かされておらん」
クラウスも首を傾げた。
「何か大事な話でもあるのかのぉ」
「そ、そうなんですか……」
グリムは少し緊張しながら頷いた。
クラウスはそんな彼を見て、ふっと笑う。
「それにしても、お主。普通に話せばよいじゃろう。妙にかしこまった話し方は、あまり似合わんのぉ」
「いや、少しでも礼儀正しくした方がいいかと思いまして……」
グリムは居住まいを正した。
貴族として、目上の人物を敬う話し方に切り替えたのだ。
「まあ、よい。儂もお主には聞きたいことが山ほどあるからのぉ」
クラウスがそう言った、その時だった。
「お待たせ! オレンジジュースしかなかったわ……って」
飲み物を持ったミレーヌが、部屋へ戻ってきた。
そして、客間にいる両親を見た瞬間、目を丸くする。
「お父さん!? お母さん!?」
「おお、ミレーヌ。最近は楽しんでおるか?」
「まあまあ……って、そうじゃなくて!」
ミレーヌは持っていた飲み物をテーブルに置いた。
「二人とも、いつの間に来たのよ!?」
「お主が呼んだんじゃろうが」
「あっ……そうだった」
ミレーヌは気まずそうに目を逸らした。
ソフィアが微笑みながら尋ねる。
「それで、今日はどうしたの?」
「お母さん。今日はね……グリムについてよ!」
「……俺?」
グリムは自分を指さした。
クラウスが興味深そうに頷く。
「ほぉう。つまり、今日はグリムという人間を知るための会、というわけじゃな?」
「そういうこと!」
ミレーヌは元気よく答えた。
「じゃあ、早速質問していきましょう!」
「……お、おう」
グリムはなぜか面接を受けるような気分になった。
そして、クラウスが最初の質問を口にする。
「まずは、フルネームから聞かせてもらおうかのぉ」
「グリム・ヴァルトです」
「ヴァルト……」
クラウスの表情が少し変わった。
「もしや、貴族……いや、英雄の家系か?」
グリムは静かに頷いた。
「はい。父は英雄でした」
「えっ!?」
ミレーヌが驚いた声を上げる。
「前に、貴族だって言ってなかった!?」
「貴族でもあるし、英雄でもあったんだ」
「そ、そうだったの……?」
ミレーヌは目を丸くした。
グリムがただの貴族ではないことは何となく察していたが、英雄の家系だとは思っていなかったのだ。
クラウスは腕を組み、少し考え込んだ。
「……あらぬことを聞いてもよいかのぉ」
「もちろんです」
「儂の記憶によれば、英雄エリオスはかなり前に亡くなったと世間で噂になっておった。……お主は、一人で暮らしていたのか?」
グリムの表情が、ほんの少しだけ変わった。
「……五年ほど、一人で暮らしていました」
部屋の空気が静かになる。
「父のエリオスと、母のエルサは七年前に亡くなりました」
「……」
「俺が覚えているのは、両親の目の前に、魔界とこの世界を繋ぐゲートが開いたことです。二人はそこへ連れていかれました」
グリムは淡々と話した。
「その後、二人はこの世界で遺体となって発見されました」
「……え?」
ミレーヌの口から、思わず声が漏れた。
ソフィアも目を見開き、クラウスは黙ってグリムを見つめている。
先ほどまでの和やかな雰囲気は、すっかり消えていた。
「……そう、だったのか」
クラウスの声からも、先ほどまでの気さくさが消えていた。
「すまぬ。辛いことを聞いてしまったな」
「いえ、気にしないでください。もう昔のことですから」
グリムはそう言って笑った。
いつもと変わらない、穏やかな笑顔だった。
しかし、その笑顔を見たミレーヌは、なぜか胸の奥が締めつけられるような気がした。
昔のこと。
そう言えるようになるまでに、彼はどれほどの時間を過ごしてきたのだろう。
まだ幼かった頃に両親を失い、その後も一人で生きてきた。
ミレーヌは、グリムのことを知っているつもりでいた。
けれど、自分が知っていたのは、彼のほんの一部分にすぎなかったのだ。
ソフィアが心配そうに尋ねる。
「それからは、ずっと一人で暮らしていたの?」
「いや、祖父がいました」
グリムはそう答えると、懐へ手を入れた。
取り出したのは、一つの懐中時計だった。
古びた外見ではあるものの、丁寧に手入れされている。大切に扱われてきたことが、一目で分かる品だった。
「五年前、その祖父も亡くなりました。この時計は、祖父が最後に俺へくれたものなんです」
グリムは時計の蓋を開き、しばらく文字盤を見つめた。
「祖父が俺に託してくれたものです。だから、今でも肌身離さず持ち歩いています」
「……そう」
ソフィアは、それ以上何も言えなかった。
両親を失い、最後に残された家族まで失った少年。
それから五年もの間、彼は一人で生きてきた。
「……五年間、ずっと一人だったの?」
ミレーヌが小さな声で尋ねた。
「まあ、そうだな。何なら、今も一人だけど」
グリムは苦笑した。
「……」
ミレーヌは俯いた。
いつも楽しそうに笑っている彼が、そんな過去を抱えていたなんて思いもしなかった。
今まで一緒に過ごしてきた時間の中で、グリムは自分の過去をほとんど語らなかった。
もしかすると、彼にとっては話す必要のないことだったのかもしれない。
それでも、ミレーヌは思った。
――もっと、グリムのことを知りたい。
彼がどんな人生を歩んできたのか。
何を考え、何を大切にしているのか。
そして、どんな思いで今を生きているのか。
もっと知りたかった。
やがて、クラウスが静かに口を開いた。
「……グリムよ」
「はい?」
「お主の能力は、何なのじゃ?」
話題を変えるためだったのか。
それとも、グリムという人間をもっと深く知りたかったからなのか。
クラウスの表情からは、はっきりとは分からなかった。
グリムは懐中時計をしまい、少しだけ誇らしげに笑った。
「俺の能力は――『勇気』です」
「勇気……?」
ミレーヌが首を傾げる。
「はい。父が教えてくれたんです」
グリムは、遠い昔を思い出すように目を細めた。
「どんなに強い敵を前にしても、勇敢に立ち向かえる心。それが、俺の能力だって」
「……」
「英雄だった父でさえ、自分を超えるほどの勇気は持っていないって言っていました」
グリムの言葉には、迷いがなかった。
「だから俺は、この能力を誇りに思っています」
ミレーヌは、じっと彼を見つめた。
「……お父さんのこと、大好きだったのね」
「ああ。自慢の父だった」
グリムは、少しだけ嬉しそうに笑った。
両親を失った悲しみは、決して消えたわけではない。
それでも、父との思い出まで失ったわけではなかった。
父から教わったこと。
父が残してくれた言葉。
それらは今も、グリムの中に生き続けている。
「ところで、旅をしている理由は何なの?」
ミレーヌが尋ねた。
「世界を旅したいから。それと……何も考えなくていいからな」
「何も考えなくていい?」
「ああ。旅をしている時は、過去のことも、これからのことも考えずに済む。ただ、綺麗な景色を見ていればいい」
グリムは窓の外へ視線を向けた。
「知らない場所を歩いて、知らないものを見て……そういう時間が好きなんだ」
「……なるほどのぉ」
クラウスはゆっくりと頷いた。
グリムにとって旅は、世界を知るためのもの。
そして同時に、過去から少しだけ離れ、心を休めるための時間でもあるのだろう。
クラウスはしばらく考え込んでいたが、やがて何かを思いついたように顔を上げた。
「……少し、よいか?」
「はい?」
「儂と戦おう」
「……え?」
グリムは思わず聞き返した。
ミレーヌも、ソフィアも、そろってクラウスを見る。
「お父さん?」
「何じゃ、ミレーヌ」
「急に何を言い出すのよ……」
「いやなに。グリムがどれほど強いのか、気になってのぉ。それに、ちょうどよい気晴らしにもなるじゃろう」
「気晴らしって……」
ミレーヌは呆れたように額を押さえた。
しかし、グリムは少し考えたあと、あっさりと頷いた。
「分かりました」
「お、よい返事じゃな!」
クラウスは嬉しそうに笑った。
「ただし、模擬戦じゃ。お互いに本気で命を奪うようなことはせん」
「もちろんです」
「……お父さん」
ミレーヌは念を押すように言った。
「ちゃんと手加減してよね」
ソフィアも隣から頷く。
「そうよ。グリム君に怪我をさせないでね」
「分かっておる。怪我などさせるつもりはないわい」
クラウスは自信たっぷりに答えた。
それを聞いたミレーヌは、今度はグリムへ向き直る。
「グリム、お父さんは強いから気をつけてね」
「ああ、分かった」
こうして四人は家の外へ出た。
少し開けた場所で、グリムとクラウスが向かい合う。
ミレーヌとソフィアは、少し離れた場所から二人を見守った。
「さて……模擬戦じゃ」
クラウスが静かに構えた。
次の瞬間。
クラウスの身体から、凄まじい魔力が溢れ出した。
周囲の空気が震え、足元の草が風もないのに揺れる。
その場にいるだけで、並の冒険者なら身動きも取れなくなるほどの圧力だった。
「……お父さん、本当に手加減するよね?」
ミレーヌが不安そうに尋ねる。
「多分な」
「多分って何よ!?」
ソフィアは小さくため息をついた。
一方、グリムは魔力を解き放つクラウスを前にしても、平然と立っていた。
怯える様子もなければ、無理に力を誇示することもない。
ただ、相手を静かに見つめている。
クラウスは拳を構えた。
「では……始めるぞ」
「はい」
次の瞬間、クラウスの姿が消えた。
地面を蹴り、一瞬でグリムとの距離を詰める。
常人では到底捉えられない速度だった。
そして、グリムの目の前へと現れたクラウスが、拳を放つ。
――だが。
グリムは、ほんのわずかに首を傾けた。
拳が頬のすぐ横を通り過ぎる。
「……なっ!?」
クラウスの目が見開かれた。
避けられた。
それも、ギリギリで防いだわけではない。
まるで、最初から攻撃が当たらないことを知っていたかのように。
体勢を崩したクラウスが次の動きに移ろうとした、その時だった。
グリムは静かに一歩踏み込み、拳を繰り出した。
そして――。
クラウスの顔の寸前で、その拳をぴたりと止めた。
沈黙。
クラウスは動きを止めたまま、自分の目の前にある拳を見つめていた。
ほんの少しでも前に出ていれば、確実に顔へ届いていた距離。
完全に、勝負は決していた。
「…………」
ミレーヌとソフィアは、目を丸くして二人を見つめていた。
何が起きたのか、すぐには理解できなかった。
クラウスは、決して弱い男ではない。
むしろ、常人とは比べものにならないほどの実力を持つ人物だった。
かつて酒呑童子と戦い、勝利を収めたことさえある。
そんなクラウスが――。
たった一度の攻防で、敗北した。
「……負けじゃ」
クラウスはゆっくりと拳を下ろした。
「はい」
グリムも拳を下ろし、丁寧に頭を下げる。
クラウスはしばらくグリムを見つめていたが、やがて豪快に笑い始めた。
「はっはっは! お主、めちゃくちゃ強いのぉ!」
「お義父様こそ、強かったですよ」
「じゃから、その呼び方をやめい!」
「うい」
グリムは笑った。
クラウスも、結局は笑っていた。
一方、ミレーヌはまだ呆然としていた。
「……え? 今、何が起きたの?」
「私にも、よく分からなかったわ……」
ソフィアも驚きを隠せない様子だった。
そんな二人を見て、クラウスは再び楽しそうに笑った。
「いやぁ、これは面白い男を連れてきたもんじゃな、ミレーヌ!」
「……うん」
ミレーヌはグリムを見つめた。
彼はいつもと変わらない様子で笑っている。




