58話 空の支配者
「……誰だ」
レイは振り返った。
森の奥から聞こえてきた、あまりにも軽い声。
だが、その声の主からは一切の気配を感じない。
まるで、最初からそこに存在していなかったかのようだった。
「誰だ? あぁ~……我は龍神!」
男は楽しそうに笑った。
その瞬間。
フィーアの表情が凍りついた。
「……龍神」
その名を口にしただけで、過去の記憶が蘇る。
故郷を焼き払った存在。
フィーアが長い間、追い続けてきた災害。
メルナやミリア、フィーアを危険な状態まで追いやった先程のこと
レイも刀の柄に手を添える。
「は? ……気配が、全くしなかった」
これほど近くにいるというのに、感知できなかった。
龍神は不思議そうに首を傾げた。
「そうか? 我は普通に歩いてきただけだがなぁ」
そして、その視線がメルナへ向けられる。
「それより――」
龍神の目が細くなった。
「その小娘をよこせ」
「……絶対に渡さない!」
ミレーヌが即座に前へ出る。
「誰が渡すものか」
グリムも剣を抜き、妻の隣に立った。
龍神は二人を見つめ、少し考えるように顎へ手を当てる。
「そうかぁ~……我はまだ人間の言語に慣れてなくてな」
そして、妙に明るい笑顔を浮かべた。
「それは――嫌という意味か?」
「そうだ」
レイが答える。
「なら――」
龍神から、濃密な魔力が噴き出した。
「全員、食うか」
空気が震える。
木々が大きく揺れ、地面に細かな亀裂が走った。
次の瞬間。
龍神の姿が消えた。
「――ッ!」
レイが目を見開く。
速い。
速いという言葉では足りない。
一瞬でミレーヌの目の前へ移動していた。
「死ね」
鋭い爪が振り下ろされる。
だが――
ガキィンッ!!
「我が子を殺すのを、ただ見ていろとでも?」
龍神の爪を受け止めていたのは、クラウスだった。
「……ほう?」
龍神が笑う。
クラウスは拳を構えて、穏やかな笑みを浮かべた。
「儂も随分と舐められたものじゃのぉ」
「ハハハッ!」
龍神の顔が嬉しそうに歪む。
「中々やるなぁ!」
「年寄りをあまり煽るでない」
「なら――」
龍神が一歩踏み込む。
「殺し合おう!」
「儂は歳でのぉ」
「そんなのどうでもよいだろ!」
「……そうかい」
クラウスの目から、笑みが消えた。
「なら――少しだけ付き合ってやろう」
次の瞬間。
大地が弾けた。
クラウスと龍神が同時に踏み込み、拳と爪が衝突する。
衝撃波が森を駆け抜け、周囲の木々が大きく揺れた。
「おおっ!」
龍神が楽しそうに笑う。
クラウスはその爪を紙一重でかわし、龍神の懐へ潜り込む。
「――そこじゃ」
拳が龍神の腹部へ叩き込まれる。
ドゴォン!!
龍神の体が数メートル吹き飛ぶ。
だが、龍神は空中で体勢を立て直し、地面へ着地した。
「ハハハッ! 人間がここまでやるか!」
「儂をただの老いぼれと思わんことじゃ」
「衝波」
クラウスは拳を振り抜いた。
その瞬間、何もない空間が大きく歪む。
圧縮された空気そのものが巨大な衝撃波となり、龍神へ叩き込まれた。
「面白い!」
龍神は真正面から受け止める。
だが、その身体がわずかに後退した。
「我もやってみよう!」
龍神の姿が再び消える。
「連牙衝!」
超高速の連撃。
爪、拳、蹴り。
その一つ一つが、まともに受ければ致命傷になりかねない威力を持っている。
クラウスはそれを一つずつ見切っていく。
「右……左……上か」
爪を避け、拳を受け流し、蹴りを杖で弾く。
そして――
「遅いぞ」
龍神の懐へ入り込む。
「――ッ!」
クラウスの拳が龍神の胸元へ叩き込まれた。
大地が震える。
龍神が笑った。
「いいぞ! いいぞ!」
だが――
龍神の腕がクラウスの視界から消えた。
「――なっ」
ズシュッ。
鋭い爪がクラウスの腹部を捉える。
「……やるのぉ」
「まだ戦えるのか!」
龍神が嬉しそうに叫ぶ。
「なら、もっとやろう!」
クラウスは傷を押さえながら立ち上がった。
「……儂は、じじいじゃからのぉ」
「もう終わりか?」
「最近、少々体調が悪くての」
「そうかぁ」
龍神が口を大きく開いた。
「じゃあ――跡形もなく消してやろう!」
「天雷呼法!」
龍神の口から、巨大な雷撃が放たれる。
雷は地面を抉りながら一直線にクラウスへ迫った。
「させねぇ!」
レイが飛び出す。
刀を構え、雷撃を真正面から受け止めた。
「ぐっ……!」
身体中に電流が走る。
「体が……痺れる!」
龍神がレイを見る。
「お前は?」
「俺は……」
レイは刀を握り直す。
「孫だ」
「孫?」
龍神が笑った。
「それは面白い!」
クラウスが苦笑する。
「レイ……すまないのぉ」
「爺ちゃん、大丈夫か?」
「最近、本当に体調が悪くてのぉ」
「分かった。ここは俺が――」
「お前は何だ?」
龍神がレイを見つめる。
その問いに、レイは一瞬だけ考えた。
「俺は……そうだな」
レイの脳裏に酒呑童子の姿が浮かぶ。
「酒呑童子がいる」
「――酒呑童子?」
龍神の目が輝いた。
「それは面白い!」
次の瞬間。
龍神がレイの目の前へ現れた。
「――ッ!」
爪がレイの腹部を捉える。
「いつの間に……!」
レイが吹き飛ばされる。
龍神は興味を失ったように呟いた。
「そこの奴より弱いのかぁ」
「……興味ない」
「俺もいる」
グリムが前へ出た。
「父さん!」
「父さんは怪我して――」
「我が子を守れないのは、親失格だ」
グリムが剣を構える。
「かかってこい」
龍神が笑った。
「いいだろう!」
グリムが駆ける。
その剣筋は美しかった。
一撃。
二撃。
三撃。
無駄な動きが一切なく、流れるように剣を振るう。
剣技だけならば、ルーシーにも引けを取らない。
だが――
龍神は、それ以上だった。
「受け流してばっかりだと――死ぬぞ!」
龍神の爪がグリムの剣を弾く。
「くっ!」
グリムはすぐに体勢を戻す。
「天雷呼法!」
巨大な雷撃が放たれる。
「――ッ!」
グリムは剣へ魔力を纏わせ、雷撃を斬り裂く。
しかし、完全には防ぎきれない。
「はぁ……はぁ……」
息が上がる。
龍神は首を傾げた。
「体力ないのかよぉ」
「ま……まだだ」
「そうか」
龍神がゆっくりと腕を上げる。
「なら――死ね」
爪が振り下ろされる。
グリムは紙一重でかわし、地面を転がる。
「あなた!」
ミレーヌが叫ぶ。ミレーヌは手を前に翳し何か魔法で取ろうとしていた。
「私が解放すれば」
「いや、俺が」
レイは歯を食いしばった。
「このままじゃ押されたままだ……」
そして、一つの考えが浮かぶ。
「お、鬼化を使えば――」
「ダメだ!」
グリムが叫ぶ。
「だが!」
「俺が守る!」
グリムはふらつきながらも剣を構え直した。
龍神がそれを見て、つまらなそうに呟く。
「もう飽きた」
魔力が再び膨れ上がる。
「天雷こ――」
「あのさ」
突然、声がした。
「ここで何してんの?」
全員が振り返る。
森の奥から、一人の女性が歩いてくる。
長い黒髪。
静かな瞳。
そして――レイたちと同じ、ヴァルト家の面影。
「……誰?」
レイが呟く。
女性は笑った。
「私はアイナ」
一歩。
「アイナ・ヴァルト」
さらに一歩。
「久しぶり、レイ」
「――え?」
ミレーヌの目が大きく見開かれる。
「アイナ……!」
グリムも言葉を失った。
「アイナ……」
レイは何度もその顔を見る。
「あ、アイナ……?」
そして――
「あっ!」
数日前に届いた手紙。
家族写真。
幼い頃に家を出た、姉。
「積もる話しかないけど――」
アイナは龍神へ視線を向けた。
「それは後からだね!」
黒い雷が、彼女の身体の周囲を静かに走る。
「今は、この龍神とやらを倒そう~」
龍神は嬉しそうに笑った。
「ハハハッ!」
龍神がアイナを見つめる。
「次の相手はお前か?」
「そうだね」
「怒っているのか?」
龍神は首を傾げる。
「俺には、お前ら人間の感情とやらがよく分からないんだ~。まだ勉強中でな」
アイナは小さく笑った。
「勉強熱心だねぇ~」
そして、その笑みが消える。
「……災害のくせに」
黒雷がさらに強くなる。
「家族を殺そうとしたことは――許さない」
「人間が一人二人死んだところで、大して人数は変わらないだろ?」
「……もういい」
アイナが一歩踏み出す。
「殺してやる」
「ほう?」
「黒雷纏武」
バチィッ!!
黒い稲妻がアイナの身体へ絡みつく。
雷は腕から肩へ、背中から脚へと走り、彼女自身が巨大な雷そのものになったかのようだった。
レイが目を見開く。
「ユージの雷豪に似てるな……」
「さぁ――」
アイナが拳を握る。
「やろうか」
「ハハハッ!」
龍神が笑う。
「面白い!」
「雷霆暗獄鎖!」
アイナの周囲から黒い雷の鎖が何本も飛び出した。
鎖は龍神の腕、脚、胴体へ絡みつく。
「こんな鎖ごとき――!」
龍神が力任せに引き千切る。
だが――
「言ったでしょ?」
アイナが指を鳴らす。
「この黒雷は、触れるだけで行動を麻痺させる」
「――!」
龍神の動きが僅かに鈍る。
アイナはその隙を逃さない。
「小癪な真似を……!」
龍神の魔力が爆発的に膨れ上がる。
「秒で終わらせてやろう!」
龍神が拳を握る。
「龍脈穿断!」
右腕へ、膨大な魔力と闘気が集約されていく。
空気が震える。
地面が沈む。
その一撃に込められた力は、山すら破壊しかねないほどだった。
アイナは逃げない。
両手を前へ。
「滅光掌」
黒雷が両手へ凝縮される。
龍神の拳と、アイナの掌。
二つの異常な力が――真正面から激突した。
ドォォォォォン!!
凄まじい衝撃波が森を駆け抜ける。
木々が一斉に揺れ、地面が大きく抉れる。
「ぐっ……!」
アイナの足が地面を削る。
「うおおおおおっ!」
龍神も拳を押し込む。
黒雷が龍神の腕を這い、龍神の筋力と魔力がそれを押し返す。
互いに一歩も退かない。
レイは息を呑んだ。
「……すげぇ」
アイナが歯を食いしばる。
「この……魔力……!」
龍神も笑う。
「お前――人間にしては面白いなぁ!」
「そっちこそ……!」
黒雷がさらに激しく弾ける。
「化け物みたいな魔力してるよ!」
そして――
ドォンッ!!
二人が同時に弾き飛ばされた。
アイナは数メートル後退し、片膝をつく。
龍神もまた、地面へ足を擦りつけながら停止した。
アイナが息を整える。
「……その魔力、いかつすぎ」
龍神は楽しそうに笑った。
「ハハハッ!」
そして――
「本当に終わりだ!」
龍神が空高く跳躍する。
その身体が巨大な影へと変わっていく。
骨格が変化し、黒い鱗が全身を覆う。
黄金の瞳が開かれる。
次の瞬間。
森の上空を覆い尽くすほど巨大な龍が姿を現した。
「――龍化」
その巨体は、まるで空そのものを支配しているようだった。
龍神が口を開く。
莫大な魔力が集まり始める。
フィーアの顔から血の気が引いた。
「皆様!」
フィーアが叫ぶ。
「あれをまともに受けたら――死にます!」
「やべぇな……」
レイが刀を握り直す。
逃げる時間すらない。
龍神の口元へ、巨大な魔力の塊が形成されていく。
その時だった。
「……」
メルナの指が、僅かに動いた。
「メルナ……?」
レイが振り返る。
メルナがゆっくりと目を開く。
「メルナ!」
ミレーヌが駆け寄る。
しかし――
メルナは母親を見なかった。
ゆっくりと身体を起こし、空を見上げる。
そして――龍神を見た。
「……」
その瞳が、龍神を捉える。
瞬間。
メルナの身体から、禍々しい魔力が溢れ出した。
「――ッ!」
レイが息を呑む。
「メルナ……?」
違う。
何かがおかしい。
その瞳は、いつものメルナのものではなかった。
深い青。
底が見えないほど深く、冷たい青。
さらに、前髪の一部が――白く染まっていく。
「フィーア……」
レイが呟く。
「これ……メルナなのか?」
「メルナ様……?」
フィーアも困惑する。
その瞬間。
龍神がメルナを見た。
黄金の瞳が大きく見開かれる。
「――ッ!」
先ほどまで形成していた魔力砲を、龍神は突然中断した。
「……これは」
龍神はメルナを見つめる。
そして――
空高く飛び上がった。
「逃げた……?」
レイが呆然とする。
龍神は答えない。
ただ、遠ざかっていく。
レイは再びメルナを見る。
「お前……一体、誰なんだよ」
だが。
「……」
メルナは、何事もなかったかのように再び意識を失った。
「え?」
レイは目を見開く。
「今……起きてたよな?」
グリムも困惑した表情を浮かべる。
「あぁ……」
そして、メルナを見つめる。
「あの魔力の質……それに、あの瞳……」
クラウスも珍しく険しい顔をしていた。
「……少々、驚いたわい」
「爺ちゃん、何か知ってるの?」
レイが尋ねる。
クラウスはメルナをじっと見つめる。
「確証はない」
しばらくして、クラウスは口を開いた。
「じゃが――あの一瞬だけ、メルナの身体を別の何かが乗っ取ったように見えた」
「別の……何か?」
「あぁ」
クラウスは静かに呟く。
「龍神が逃げた理由も……それと無関係ではないじゃろう」
レイは眠っているメルナを見る。
白く染まった前髪。
深い青の瞳。
先ほどまでメルナから溢れていた、あの異質な魔力。




