2話 契約
少し長いですが見てくださると嬉しいです
馬車は、王国へ向かってひたすら走っていた。
レイの命が尽きるまで、残された時間は三日。
その時間を一秒でも無駄にするわけにはいかなかった。
馬車の中では、ミレーヌがレイを大切そうに抱きしめている。
その隣ではグリムが何度も窓の外を確認し、フィーアは馬を急かしていた。
幸いにも道中は順調だった。
そして三日目。
長い旅の末、馬車は深い森の中へ差し掛かっていた。
この森を抜ければ、王国はすぐそこだ。
「もう少しだ……」
グリムが小さく呟く。
ミレーヌもレイを見つめる
「お願い……もう少しだけ頑張って……」
レイは静かに眠っている。
その姿を見つめるミレーヌの表情には、焦りが滲んでいた。
――その時だった。
「……ん?」
森の奥から、地響きのような音が聞こえた。
フィーアが手綱を引く。
「旦那様……!」
「なんだ?」
次の瞬間。
森の木々をなぎ倒しながら、巨大な影が現れた。
赤い鱗。
巨大な翼。
鋭い牙。
「……ドラゴンです!」
フィーアが叫んだ。
「ドラゴン!?」
ミレーヌが驚きの声を上げる。
ドラゴンは馬車の前に立ちはだかると、鋭い爪を振り下ろした。
「グルァァァァッ!」
「くっ!」
馬車を引いていた馬が悲鳴を上げ、その場に倒れる。
馬車も大きく揺れた。
「フィーア!」
グリムが叫ぶ。
フィーアはすぐに短刀を抜いた。
「旦那様、奥様! ここは私が引きつけます!」
「何を言ってる!?」
「このままでは馬車が動きません!」
フィーアはドラゴンへ向かって駆け出した。
「私が時間を稼ぎます! その間に王国へ!」
「フィーア!」
ミレーヌが叫ぶ。
その瞬間、ドラゴンの巨大な尾がフィーアへ向かって振り払われた。
「くっ!」
フィーアは咄嗟に短刀で受け止める。
しかし、攻撃に耐えきれず、地面を転がった。
「今です!」
「……くそっ!」
グリムは歯を食いしばる。
「ミレーヌ、行くぞ! フィーア、すぐに戻ってくる!」
「分かりました!」
グリムはミレーヌの手を握り、森の中へ走り出した。
ミレーヌはレイを抱きしめながら、必死についていく。
「フィーア……ごめんなさい……!」
背後では、フィーアとドラゴンの戦いが続いていた。
◇◇◇
森の中を走り続ける。
「はぁ……はぁ……」
ミレーヌの呼吸が荒くなっていく。
ミレーヌの体は万全ではないため、まともに走ることすら難しい。
それでも、レイを抱く腕だけは決して緩めなかった。
「まだか……!」
グリムが前方を見る。
しかし、その時だった。
ミレーヌの足が止まった。
「……あなた……」
「ミレーヌ?」
次の瞬間、ミレーヌはその場に膝から崩れ落ちた。
「ごめんなさい……まだ、身体が……」
「ミレーヌ!」
グリムが駆け寄る。
「大丈夫か!?」
「私は大丈夫……」
ミレーヌはレイを見つめる。
「あなたがレイを抱いて、王国へ向かって……」
「だが、ここは危険だ!」
「それでも……」
ミレーヌはレイを抱きしめる。
「この子だけは……」
「…………」
グリムは迷った。
しかし――
「分かった。俺がレイを――」
グリムがレイへ手を伸ばした、その瞬間だった。
――ズブッ。
「……え?」
グリムの身体が止まる。
腹部から、鋭い針が突き出していた。
「あなた……?」
「……ガハッ!」
グリムの口から血が零れる。
ゆっくりと振り返る。
そこには巨大なサソリのような魔物が立っていた。
「くっ……!」
グリムは剣を抜く。
「ミレーヌ……逃げろ……」
「あなた!」
「毒が……回ってくる前に……」
グリムは苦しそうに息を吐く。
「ごめんな……情けない夫で……」
「何言ってるの……」
ミレーヌの目に涙が浮かぶ。
「いつも……私に頼りっぱなしで……」
「……馬鹿ね」
ミレーヌは涙を拭う。
「あなたはいつだって、かっこいいわよ」
「ミレーヌ……」
「後は任せて」
ミレーヌは立ち上がる。
「グリム」
「ああ」
「絶対に生きてて」
「……おう」
グリムは剣を構え、サソリの魔物へ向かって走り出した。
◇◇◇
ミレーヌは再び走り始めた。
レイを抱きしめ、必死に森の中を進んでいく。
「はぁ……はぁ……」
足が重い。
身体が痛い。
それでも止まれない。
「もう少し……」
森の出口が見えてきた。
「もう少しで……!」
しかし――
「……え?」
森の出口へ続く道を、大量のゴブリンが塞いでいた。
「そんな……」
ゴブリンたちが一斉にミレーヌへ近づいてくる。
「グギャ……!」
「……こんなところで」
ミレーヌはレイを強く抱きしめた。
そして、ゆっくりと顔を上げる。
「諦めて……たまるもんですか!」
ゴブリンの棍棒が振り下ろされる。
「っ!」
ミレーヌは身を捻りながら攻撃を受ける。
「痛っ……!」
それでも倒れない。
レイだけは絶対に傷つけないように、身体を盾にしながら必死にその場を抜ける。
「はぁ……はぁ……!」
後ろからゴブリンたちが追ってくる。
「お願い……もう追ってこないで……!」
しかし、ゴブリンたちは止まらない。
ミレーヌは追手を撒くために森の奥へと走った。
そして
「……ここまで来れば……」
ミレーヌが振り返る。
そこには、さらに巨大な影が立っていた。
「……嘘……」
ゴブリンよりも遥かに大きな身体。
巨大な棍棒。
オークゴブリンだった。
「グゥゥゥ……」
ミレーヌの足が震える。
もう、身体は限界だった。
「……もう……」
オークゴブリンがゆっくりと近づいてくる。
「お願い……」
ミレーヌはレイを強く抱きしめた。
「この子だけは……」
オークゴブリンが棍棒を振り上げる。
「死なせない……!」
ミレーヌは目を閉じた。
その瞬間。
「……邪魔だ」
低い声が響いた。
「え……?」
次の瞬間。
オークゴブリンの身体が、真っ二つに斬り裂かれた。
「…………」
ミレーヌは呆然とする。
何が起きたのか理解できなかった。
やがて、ゆっくりと後ろを振り返る。
そこには、一人の男が立っていた。
人間と変わらぬ姿。
しかし、その額には二本の黒い角。
そして、その手には一振りの刀。
男は刀についたものを払いながら、つまらなそうに呟いた。
「邪魔だ、そこの女」
「……!」
ミレーヌは慌てて頭を下げる。
「あ、ありがとうございます! 助けていただいて……」
「勘違いするな」
男は冷たく言い放った。
「お前を助けたつもりなどない」
「え……?」
男はミレーヌの腕の中にいるレイへ視線を向けた。
「……それより」
「?」
「その赤子」
男の目が細くなる。
「もうすぐ死ぬぞ」
「……!」
ミレーヌの顔が青ざめる。
「レイ……!」
「王国へ急がなければ……!」
「その身体でか?」
男が冷たく言う。まるで、嘲笑してるかのよう
「お前、自分の身体がまともに動いていないことすら分からんのか?」
「でも……!」
ミレーヌはレイを抱きしめる。
「この子のためなら……私は……!」
「ほう」
男は少しだけ興味を示した。
ミレーヌは思い出したように口を開く。
「式神と……契約すれば……!」
「契約?」
男が聞き返す。
「式神と契約すれば、この子を助けられるかもしれないの!」
「…………」
男はレイをじっと見つめる。
そして――
「なら」
静かに口を開いた。
「俺と契約するか?」
「……え?」
ミレーヌは目を見開く。
男は不敵に笑った。
「どうやら、その赤子は俺の器に向いているらしい」
「器……?」
男はレイを見ながら続ける。
「さぁ、どうする」
「あなたと契約したら……レイは助かるの?」
ミレーヌが尋ねる。
男は鼻で笑った。
「俺は一度交わした約束を破るほど外道なことはしない」
「なら……!」
男はミレーヌの声を遮る
「ただし、条件がある」
ミレーヌは息を呑む。
「条件……?」
男はミレーヌを見下ろした。
「この赤子の中で暮らさせてもらう」
「……意味が分からないわ」
「正確には、その赤子の精神世界だ」
男は刀を肩に担ぐ。
「そこに俺が住む」
「どうして……?」
「ちょっとした興味だ」
「興味……?」
「その赤子が、これからどんな生き様をするのか」
男は口元を僅かに吊り上げた。
「少々、見てみたくなった」
「……レイに危害を加えたりは?」
「しない」
即答だった。
「俺から手を出すつもりはない」
「本当に……?」
「疑うのか?」
男の目が鋭くなる。
「ならば契約するな。別の方法を探せばいい」
ミレーヌはレイを見つめる。
もう時間がない。
他に方法もない。
「……分かった」
ミレーヌは顔を上げた。
「お願い。レイを助けて」
男は満足そうに笑った。
「話が分かる女だ」
「あなたは……一体、何者なの?」
「俺か?」
男は刀を鞘に収める
「酒呑童子」
「……え?」
ミレーヌの目が見開かれる。
「酒呑童子……!?」
「なんだ、その顔は」
「まさか……あの酒呑童子!?」
「他に誰がいる」
酒呑童子は不機嫌そうに眉をひそめる。
「……ふん。名を聞いた程度で騒ぐな、小娘」
「さっきまで『女』って言ってたのに……」
「細かいことを気にするな」
酒呑童子は指先を軽く傷つけた。
赤い血が一滴、指先に浮かぶ。
「これを飲ませろ」
「これを……?」
「一滴で十分だ」
ミレーヌは少しだけ迷った。
しかし、すぐに覚悟を決める。
「……うん」
ミレーヌはレイの口元へ、酒呑童子の血を一滴だけ落とした。
すると――
一瞬、空気が震えた。
酒呑童子が目を細める。
「……契約成立だ」
ミレーヌはレイを見つめる。
「これで……レイは大丈夫なの?」
「おそらくな」
「おそらく……?」
「俺を誰だと思っている」
酒呑童子は不敵に笑った。
「その程度の身体なら、俺の力でどうにでもなる」
ミレーヌは胸を撫で下ろした。
「……ありがとう」
「礼などいらん」
「でも……!」
ミレーヌは思い出した。
「グリムとフィーア……!」
ミレーヌは酒呑童子を見る。
「お願いがあります!」
「なんだ、小娘」
「私の旦那と、メイドを助けてください!」
酒呑童子は少し考えたあと、口元を吊り上げた。
「ほぉ……」
「何か……?」
「褒美は?」
「……え?」
「何か頼み事をするなら、それ相応の対価を払え」
ミレーヌは考える。
「命以外なら……何でも」
「命以外、か」
酒呑童子は楽しそうに笑う。
「なら、今回は特別だ」
「本当?」
「すでにその赤子と契約したからな」
そして――
「酒を寄越せ」
「……酒?」
「そうだ」
「人間に見つかるから俺は買えない」
ミレーヌは困ったように笑う。
「分かったわ……」
「よし」
酒呑童子は満足そうに頷いた。
「なら行くぞ、小娘」
「はい!」
ミレーヌはグリムたちのいる場所へ向かって走り出した。
◇◇◇
森の中では、未だ戦いが続いていた。
グリムはサソリの魔物と。
フィーアはドラゴンと。
グリムは身体中傷だらけになりながら、それでも戦っていた。フィーアは少し苦戦していた
「グリム!」
ミレーヌの声が響く。
「ミレーヌ!?」
グリムが振り返る。
「間に合ったのか……!」
「お、奥様……!」
フィーアも驚いた顔をする。
しかし――
酒呑童子は二人には目もくれず、サソリの魔物へ視線を向けた。
「……どけ」
サソリの魔物が動きを止める。
酒呑童子が一歩、前へ出た。一歩踏み出すだけで押し潰されそうなほどの圧迫感を感じた
「下衆が」
サソリの魔物は本能的に危険を察知したのか、背を向けて逃げようとする。
「……ほう」
酒呑童子の目が細くなる。
「俺に背を向けるとは――」
刀の柄に手を添える。
「無礼な奴だ」
次の瞬間。
――ドンッ!
サソリの魔物の身体が吹き飛んだ。
そのまま地面へ叩きつけられ、黒い灰のようになって消えていく。
「…………」
グリムは呆然としていた。
何が起きたのか、理解できない。
酒呑童子はそのままドラゴンへ視線を向ける。
「次は……そこのトカゲもどきか」
ドラゴンが怯える。
巨大な翼を広げ、空へ逃げようとした。
酒呑童子は鼻で笑う。
「逃げるのか?」
ドラゴンがさらに翼を広げる。
「正々堂々戦うことすらできんとは……」
酒呑童子が刀を抜く。
「下級風情が」
――キンッ。
次の瞬間。
ドラゴンの両翼が、音もなく斬り落とされた。
「グガァァァッ!」
ドラゴンが地面へ落ちる。
酒呑童子はゆっくり歩み寄った。
「死にたくないのなら――」
刀を構える。
「生きる価値を証明してみろ」
酒呑童子から放たれる威圧感が、一気に膨れ上がる。
ドラゴンは身体を震わせた。
「グ……グガ……」
「……うるさい」
酒呑童子の目が鋭くなる。
「誰が叫んでいいと言った?」
「…………」
酒呑童子は刀を鞘へ戻す。
――カチン。
次の瞬間。
ドラゴンの首が、静かに地面へ落ちた。
「…………」
ミレーヌは目を見開いている。
「え……」
グリムも口を開けたまま固まっていた。
「は……?」
フィーアも言葉を失う。
「え……?」
酒呑童子は何事もなかったかのように振り返った。
「助けてやったぞ、小娘」
「……あ、ありがとう」
ミレーヌが呆然と答える。
グリムは恐る恐る酒呑童子を見る。
「お、お前は……誰だ?」
酒呑童子の眉が動く。
「……お前?」
「え?」
「口の利き方に気をつけろ」
「……!」
グリムはすぐに姿勢を正した。
「す、すみません。あなたは……誰ですか?」
「酒呑童子だ」
「……!」
グリムの顔が青ざめる。
「酒呑童子!?」
フィーアも驚きを隠せない。
「あの……酒呑童子ですか?」
「そうだ」
酒呑童子は面倒そうに答える。
「それ以外の酒呑童子がいるように見えるか?」
グリムは慌ててミレーヌを見る。
「レイは!?」
「大丈夫よ」
ミレーヌはレイを見せる。
「酒呑童子と契約したの」
「酒呑童子と!?」
「あの……」
フィーアが恐る恐る尋ねる。
「一体、何があったのですか?」
ミレーヌは、ここまでに起きたことをすべて話した。
「……そんなことが」
フィーアは信じられないという顔をする。
グリムも、ただ呆然と立ち尽くしていた。
◇◇◇
「グリム、怪我は大丈夫?」
ミレーヌが尋ねる。
「俺は……毒がかなり回ってるな」
「なら、任せてください」
フィーアがグリムへ手をかざす。
「解毒魔法」
淡い光がグリムの身体を包み込む。
しばらくすると、グリムの表情が少しずつ楽になっていった。
「……助かった。ありがとな、フィーア」
「いえ」
「褒美の酒をくれ」
酒呑童子が突然口を開いた。
「え?」
ミレーヌが困った顔をする。
「今は持ってないから……王国で買うしかないわね」
「……ふん」
酒呑童子は腕を組む。
「仕方ない。待ってやる」
そう言うと、酒呑童子の身体が徐々に光へ変わっていく。
そして――
レイの身体へ吸い込まれていった。
「…………」
グリムはレイを見る。
「……レイは、本当に助かったんだよな?」
「そのはずよ」
「そうです」
フィーアもレイを確認する。
「レイ様は、酒呑童子の器としての適性を持っていた……ということなのでしょうか」
「私も詳しくは分からないわ」
ミレーヌはレイを優しく撫でる。
「でも、この子が助かったのなら……」
グリムが頷く。
「そうだな」
「とりあえず王国へ行こう」
「はい」
三人は王国へ向かう準備を始めた。
◇◇◇
無事に王国へ到着すると、三人は急いで馬車を借りた。
そして――
酒呑童子との約束を果たすため、酒を買った。
馬車へ戻った瞬間。
「さ、酒!」
レイの中から酒呑童子が現れた。
「おぉぉぉぉ!」
先ほどまでの威圧的な姿が嘘のように、酒呑童子は嬉しそうに酒を手に取る。
「これだ……これを待っていた!」
酒を口にすると、酒呑童子は満足そうに笑った。
「……うむ」
「満足した?」
ミレーヌが尋ねる。
「ああ」
酒呑童子は豪快に笑った。
「実に良い」
グリムはそんな酒呑童子を見ながら、まだ少し怯えている。
「あの……酒呑童子……さん」
「なんだ、漢」
「これから……酒呑童子さんは、ずっとレイと共に生きるということですか?」
「さっきからそう言っているだろう」
酒呑童子は呆れたように答える。
「理解の遅い奴だ」
「す、すみません……」
「ふん」
ミレーヌが少し考えてから尋ねる。
「もう一つ聞いてもいい?」
「酒をくれたからな。特別に許してやる」
「レイは将来的に、酒呑童子の力に覚醒するの?」
「……ほう」
酒呑童子は面白そうに笑った。
「面白いことを聞くな、小娘」
酒を飲みながら、豪快に笑う。
「どうだろうな」
「分からないの?」
「ああ」
酒呑童子はレイを見る。
「この赤子がどんな道を歩くかなど、俺にも分からん」
そして、少しだけ口元を吊り上げる。
「だが――」
「命の危険に晒された時くらいは、俺が助けてやらんこともない」
「……優しいのね」
ミレーヌが微笑む。
「勘違いするな」
酒呑童子は酒を飲みながら言った。
「ただ、この赤子が少し気に入っただけだ」
グリムはレイを見る。
「……何はともあれ、レイは助かったんだな」
フィーアも微笑む。
「そのようですね」
「それなら……良かった」
酒呑童子はその言葉を聞くと、豪快に笑った。
「カッカッカッ!」
「さて――」
酒呑童子はレイを見つめる。
「赤子よ」
「これから貴様がどんな人生を歩むのか……」
酒を片手に、不敵な笑みを浮かべる。
「この俺が、じっくりと見させてもらおうか」
こうして――
レイと酒呑童子。
後に、この世界の運命を大きく変える二人の物語が始まった。




