第七章② ルキフェルとフランソワ
食堂の扉を開けると潮の香りに混じって、香草とバターの匂いがふわりと鼻をくすぐった。奥からカルロータが顔を出してくる。
「お昼できたわよー!」
カルロータが豪快な声で告げると、男たちはぞろぞろと席に着いた。テーブルには湯気を立てる魚介のスープと黒パン、海老と貝の煮込みが並ぶ。陽の光が窓辺から差し込み、スープの表面を金色に照らしていた。
「うわっ、うまっ! これ何入ってんの!?」
一口すすったコリンが目を輝かせた。カルロータがにやりと笑い、「企業秘密よ」と言いながら腰に手を当てると、隣に座っていたマテオが何気ない口調で言う。
「タイムとセージだな。あと、塩は岩塩じゃなくて海塩か」
その場が一瞬静まり返る。ニールがまばたきをし、ジャスパーがスプーンを止めた。
「……お前、なんでそんな詳しいの?」
「砲の火薬も料理の火加減も似たようなもんだろ」
マテオが淡々と返す。ニールが額を押さえながらため息をついた。
「いや、それで納得できるのマテオだけだから」
コリンが首を傾げる。
「マテオ、料理できるの!?」
「まあな。左腕を失う前はよく飯作ってた。焦げない程度に、な」
「焦げないどころか、あんた味の見極めが一流じゃないの」
カルロータが笑いながら言うと、マテオは苦笑して肩をすくめた。
「……そっちの褒め方はやめろ。なんか落ち着かねえ」
ルキフェルはスプーンを置き、穏やかに笑うでもなく、どこか真剣な顔でぽつりと呟く。
「マテオに砲手と司厨手、どっちをやらせるべきか……」
ぴたりと場が止まる。
「おい、真顔で言うなよ!」
マテオが声を上げると、ジャスパーが吹き出す。
「司厨砲手って新しい職業だな!」
「料理で撃ち落とす気?」
ニールの冷静なツッコミに、コリンが「なんか強そう!」と笑い、テーブルの上が再び賑やかになった。カルロータは呆れ顔で彼らを見渡し、手を叩く。
「はいはい! 冷める前に食べなさいよ!」
笑い声が波音と混ざり、窓の外の光がゆっくりと傾いていく。そんな折、食堂のドアが軋む音を立てて開いた。皆が振り返ると、フランソワが満足げな笑みを浮かべて入ってくる。
「お、いい匂いだな。コリンも元気そうじゃねぇか」
「うん」
コリンがにこりと笑うとフランソワはコリンの肩を叩き、空いていた席に腰を下ろした。カルロータが新しい皿を持ってきて、賑やかな食卓にさらに一品が加わる。しばらく談笑が続いたのち、コリンがふと顔を上げて尋ねた。
「フランソワも、ここに泊まるの?」
「あ? そうだけど」
フランソワの何気ない問いに答えた瞬間、ルキフェルをはじめ大人四人の手がぴたりと止まった。スプーンを持つ手、パンを割る指先が一瞬で静止し、互いに視線を交わす。気まずい空気が湯気の間に薄く漂ったが。コリンはにこにこと言葉を続ける。
「じゃあ、ここが一番落ち着くんだね」
フランソワは「ん?」と眉を上げた。頭の中にいくつものハテナが浮かびつつも適当な笑みを浮かべる。
「まあ……そんなところかな」
コリンは満足したように頷き、再びスープに口をつけた。四人の大人は息を吐き、食事を再開する。ただひとり、状況の読めないフランソワだけが匙を手に首をかしげていた。
「……なんか俺、置いてかれてないか?」
穏やかな食堂の空気に海風の香りが微かに混じった。昼食も半ばを過ぎ、腹を満たしたジャスパーが背もたれに体を預けながら口を開く。
「それでさー、さっき市場と港に行ったのよ。いやぁ、何もかも新鮮だったね。魚の干し方から、鍛冶屋の作業場まで全部見惚れちまった」
「確かに、活気はすごかった」
ニールが笑う横でマテオがスプーンを置き、真面目な声を漏らす。
「自由なだけじゃなくて、危うさもある。楽園というより、無法地帯だな」
彼の言葉にニールは肩をすくめた。
「仕方ないよ。ヨーロッパ諸国じゃ、トルチュ島とポート・ロイヤルをまとめて『世界の掃き溜め』って呼んでるんだから」
フランソワは笑って、グラスの水を口に含んだ。
「まあ、そう見えるかもな」
彼はグラスを置き、少し真顔になる。
「それでも、この島にはちゃんと秩序とルールはある。見えにくいだけでな」
「ルール?」
コリンが興味深げに身を乗り出した。フランソワは少し考えから微笑んだ。
「あとで一緒に確認しよう。俺も全部を把握してるわけじゃない」
コリンは素直に頷き、パンをちぎって口に運んだ。彼の横顔を見ながら、フランソワはほんの一瞬だけ目を細めた。しばしの静寂。魚の香りと海風の音が食堂の空気に溶けてゆくと、フランソワがテーブルを見回しながら言った。
「それで? 港には何かあったか」
ルキフェルがナイフを置いて答える。
「黒い船を見つけた。エドガー・ロジャース海賊団の船だ」
「……ほう。まあ、あの船はずいぶん目立つからな」
「んで、フェルナンドに会った。今夜、エドガーと呑むらしくて、俺たちも誘われた。場所は夜の階段だと」
ルキフェルの言葉にフランソワの目が細められる。
「酒場通りのことか」
フランソワは少し呆れたように息を吐き、苦笑を浮かべた。
「エドガー、今夜も呑みに行くのか。……あの場所に子供は連れて行けないなあ」
コリンがスプーンを持ったまま小首を傾げた。
「子どもって、ぼくのこと?」
すぐさま、マテオが苦笑しながら答える。
「お前以外に誰がいるんだよ」
「むぅ……」
コリンは頬をふくらませ、パンを突きながら不貞腐れたように俯いた。そんな様子を見て、フランソワは肩をすくめて笑った。
「悪いな、コリン。あそこは危険な場所なんだ。お前には、少し刺激が強すぎる」
「……平気なのに」
「そう言って行きたがる奴ほど、何かしら巻き込まれるんだよ」
フランソワは軽くテーブルを指で叩いて、皆を見回す。
「今夜は俺とルキフェルの二人で行こう。残りのみんなは、コリンの面倒係な」
ジャスパーが「えー」と声を上げ、ニールが吹き出し、マテオが渋々と肩を竦める。ルキフェルは「了解」と返しただけ。昼食を終えた食堂には、ゆるやかな午後の光が残っていた。皿を片づけるカルロータの手元を横目に、ルキフェルとフランソワは立ち上がる。他の面々はそれぞれの部屋へ戻り、しばしの休息を取るようだ。二人で廊下に出る。
「……さっきの話だけど」
フランソワが歩きながら、ぼそりと呟いた。
「夕方になったら出ようか」
「ああ」
ルキフェルの声が少し硬かった。フランソワは軽く笑いながらも、どこか真剣な色を帯びていた。
「お前はともかく、ジャスパーもマテオも夜あんま出歩かないもんな。わかったよ、さっと切り抜けようか」
フランソワの言葉の通り、陽が傾くと二人は宿の外へ出た。潮風が二人の髪を揺らし、夕陽が港町の屋根を赤く染め、遠くから笑い声と音楽が流れてくる。酒場通り——夜の階段——が動き出す気配だ。
「エドガーは昔から、酒を口にすると本音を漏らす癖がある」
フランソワは片手で首筋を掻きながら呟いた。
「今夜はそこを突いてみよう。ルールについて、何か知ってるかもしれない」
「了解した」
ルキフェルの瞳が夕陽に赤く照り返る。
「ただ、念のため。もしあの場で何かあったら——」
「おいおい、今夜はただの飲み会だぞ?」
フランソワが笑いながらルキフェルの肩を叩いた。穏やかな潮風は熱を帯び、港沿いには灯籠の列が並ぶ。カラフルな布が吊るされた露店のあいだから、笑い声と楽器の音が溢れていた。ラムの匂い、焦がした砂糖、焼いた魚。どこもかしこも混ざり合い、夜のトルチュ独特の甘い喧噪をつくり出している。フランソワが先を歩きながらルキフェルを見た。
「なあ、ルキフェル。こういう場所、苦手そうだな」
「……そう見えるか?」
ルキフェルは無表情のまま返す。その横顔には、わずかに眉を寄せた影が落ちていた。
「見えるね。まるで修道院の警備でもしてるみたいだ」
フランソワが笑うと、ルキフェルはため息を吐いた。二人が通る道の両側では、音楽に合わせて踊る女たちや、酔い潰れた船乗りが行き倒れている。派手な看板には《夜の階段》と描かれた文字が灯のように揺れ、石段を上がるたびに喧噪が濃くなっていった。
「ここが夜の階段だ」
フランソワが言った。
「港から酒場までを階段で繋げたってわけ。上に行くほど値段も騒ぎも派手になる」
ルキフェルは静かに辺りを見渡す。階段の両脇では楽団が陽気に笛を鳴らし、赤い布を纏った女が酒瓶を抱えて客を引き込んでいる。だがその喧騒の奥、陰になった路地にひとり佇む男の姿が見えた。長い外套、優雅な顔立ち。フェルナンドだった。
「お待ちしてましたよ」
フェルナンドは歯を見せて笑い、二人に手を振った。
「エドガー船長なら、もう中で飲んでる。機嫌は上々」
フランソワが軽く片手を上げて応じた。
「上等じゃないか。案内してくれ」
三人は階段を上がり、酒場の扉を押し開ける。中から溢れる音と匂いが、夜の空気を押し返すように広がった。室内は外よりも明るく、吊り下げられた無数のランプが琥珀色の光を投げ、楽師が小さな舞台でバイオリンを鳴らし、船乗りたちは卓を囲んで笑い転げ、誰かが樽の上で踊っていた。樽酒の匂いと人の熱気が混ざり合い、どこか心地よい混沌を作り出している。
「ようフェルナンド、やっと来たな!」
豪快な声が響いた。奥の席で、椅子の背に凭れていた大柄な男——エドガーが、笑いながら立ち上がる。深紅の外套に金糸の縁取り、胸元には古びた羅針盤を飾りのように吊るしている。その顔に浮かぶ笑みは豪胆そのものだが、眼だけは驚くほど冷静で澄んでいた。
「おお、フランソワか! 昨日ぶりだな。お前も来るならマルクも呼んでおけばよかったのに」
「全く、お前は今夜も呑みに出かけているのか。相変わらず酒に強い」
フランソワが苦笑しながら椅子に腰掛ける。
「そっちは……あの時の剣士だな」
エドガーの目がルキフェルに向く。その一瞬、彼の瞳にある種の警戒が宿ったようにも見えたが、すぐに笑みに変わった。フランソワはルキフェルを指差しながら言う。
「ルキフェルだ。うちでクォーターマスターやってた」
「なるほどな」
エドガーは卓に置かれたラムの瓶を掴んだ。注ぎ口を雑にひねり、三人のグラスにどぼどぼと注いでいく。
「飲め。ここじゃ乾杯しねぇ奴は死人扱いだ」
ラムの香りが立ち上る。ルキフェルは軽く礼をしてグラスを取ると、表面に浮かぶ泡をじっと見た。やがてルキフェルがちびちびと口に運ぶと、フランソワはくつくつと笑った。夜が深まるにつれ、トルチュの宴はますます熱を帯びてく。焚き火の炎が高く燃え、樽酒の香りと潮の匂いが入り混じった。笑い声の中、ルキフェルはふと向かいの席から向けられる視線に気づく。エドガーが杯を片手にじっとこちらを見ていた。
「お前の素顔をちゃんと見たのは、今が初めてだ。凄い傷だらけじゃねえか。そりゃ、顔も隠したくなる」
ルキフェルは微かに笑った。
「お気遣いは無用です。見慣れた傷ですので。それに……」
彼は杯を置き、周囲に視線を流した。
「この島の者たちは、この顔を見ても何も言ってこない。おかげで、気楽に顔を出して歩けます」
エドガーは鼻で笑った。
「そりゃそうだ。ゴロツキがわんさかいる島で、誰が誰の傷に興味を持つかよ」
そう言って酒を一口あおるが、その次の言葉には妙な重みがあった。
「……ただな、坊主」
火の粉が夜空に散る。エドガーはそれを見上げもせず、続けた。
「この島の外じゃ、いつまで隠し通せるか分からねえぞ」
一瞬、風が止んだように感じた。周囲の喧騒が遠のき、焚き火のはぜる音だけが響く。ルキフェルはエドガーを見返した。
「……その意味は?」
エドガーは何も答えず、代わりに笑った。その笑みは豪快で、どこか寂しげでもあった。
「さあな。ただ、見りゃ分かる。そういう顔だ」
エドガーは立ち上がり、別の卓へと向かっていった。ルキフェルは彼の背をしばらく見送る。エドガーの言葉の意味は掴めなかったが、胸の奥にひどくざらつくものを残した。それを振り払うように杯へ手を伸ばした時、隣から陽気な声がした。
「おいおい、顔が強ばってるぞ」
フランソワが笑いながらルキフェルの肩を叩いた。
「大丈夫だ。俺が守る。誰が何を言おうと」
ルキフェルは思わず息を漏らした。
「……守るって、お前な」
「はは、照れるなって」
周囲ではまだ酒盛りが続き、焚き火の炎が赤く揺れているが、次に口を開いたフェルナンドの声は妙に落ち着いていた。
「ところで、皆さん」
彼は杯を指先で軽く回しながら、ゆるく微笑む。
「島といえば……“管理人”への挨拶は、もう済ませましたか?」
一瞬、場の空気がわずかに静まる。フェルナンドの言葉には、酒の席とは思えぬほどの重みがあった。
「昔からの慣わしですよ。初めてトルチュへ来た者は、まず長老のもとへ顔を出す。礼を欠けば、どんな名のある船でも、この島では居場所を失う」
彼の声を聞きながら、ルキフェルは炎の向こうに見える高台を一瞥した。黒い夜空の下に、わずかに建物の輪郭が見える。それが、トルチュ島の管理人の屋敷だった。フランソワが手元の杯を軽く掲げる。
「よし、決まりだな。明朝、みんなで管理人の元へ行こう」
その声に場の数人が頷く。フェルナンドが微笑みながら、「ああ、それがいい」と頷いた。
「初めての来島者には挨拶が礼儀です。もっとも、長老はそう簡単に顔を見せる方ではありませんが」
「長老って、どんな人なんだ?」
ルキフェルが眉を寄せる。その問いに、焚き火の向こうで杯を傾けていたエドガーが口を開いた。
「会えば分かるさ」
そう言ってエドガーが笑うと、ルキフェルは火に映る自分の影をじっと見つめた。その後も宴は続いた。歌い、騒ぎ、杯が重なり、誰もがこの夜の酔いを惜しむように笑っていたが、ルキフェルはどこか所在なげに火の粉を見つめていた。 陽気さの中に混ざり切れず、何度目かの杯を指で回す。彼の様子に気づいたフランソワがルキフェルの背をぽんと叩いた。
「そろそろ行くか。夜風にでも当たろう」
そう言ってフランソワはエドガーに手を挙げる。
「じゃあこの辺で失礼するよ」
エドガーは大きな笑みを返し、杯を軽く掲げた。フランソワとルキフェルは喧騒を抜け出し、酒場通りへと出た。外は潮風と煙草の匂いが入り混じり、赤い提灯が濃い霧の中でぼんやり滲んでいる。通りには娼婦や船員たちが入り乱れ、笑い声と呼び声が絶えなかった。
「お兄さん、遊んでいかない?」
金髪の女が笑いながらルキフェルの腕に触れたが彼の顔を見た瞬間、息を呑んで後ずさった。顔面を走る無数の傷跡が、赤い灯の中で不気味に浮かび上がる。女は何も言わず、踵を返して暗がりへ消えていった。
「……悪気はないだろう、気にすんな」
フランソワが笑いながら言う。
「慣れた」
ルキフェルはぶっきらぼうに答え、通りを歩き続けた。別の女が今度はフランソワに声を掛けたが、彼は軽く手を振って断った。ルキフェルの横顔は、灯の下でもなお影のように沈んで見える。霧に沈む夜の通りを抜け、二人がブエソルの灯を見つけた頃には、月が雲の向こうに隠れ始めていた。木の看板に映る蝋燭の光がゆらゆらと頼りなく揺れる。玄関扉を開けて食堂に向かうと、まだ起きていたマテオがカウンターの椅子に腰掛け、磨き上げた皿を並べていた。
「お疲れさん。派手に飲んだみたいだな」
マテオはニヤリと笑いながら、視線をフランソワへ向ける。
「まあな。酒はほどほどにしといたさ」
フランソワが笑い返すと、マテオの方へ歩いていった。ルキフェルは室内の灯を見回した。
「コリンは?」
マテオは肩をすくめて答えた。
「遊び疲れて寝てる。夕飯のあとすぐにダウンだ。今はカルロータが部屋で見てる」
「それならいい」
フランソワはほっとしたように息をつき、マテオに向き直った。
「明日、用ができた。みんなで行くぞ。朝食のあとだ」
「了解」
マテオは真顔で頷くと洗っていた皿を静かに布で拭いた。彼らのやり取りを背に、ルキフェルは階段を上がる。廊下には潮と木の匂いが染みついていて、外の喧騒が遠い昔のように感じられた。部屋に入ると、すぐに寝台へ身を投げる。酒の匂いがまだ鼻に残っていたが、頭の奥ではエドガーの言葉がくすぶっていた。
——島の外では、いつまで隠し通せるのか。
思考の輪郭がぼやけ、まぶたの裏に焚き火の赤がちらつく。ルキフェルは息をつくように眠りへ沈んでいった。




