第八章① 五人組とフランソワ
翌朝のブエソルには、焼きたてのパンと塩気のあるバターの香りが満ちていた。
窓の外では波が穏やかに寄せ、遠くでカモメの鳴き声が響く。カルロータが用意した朝食を平らげた六人は、思い思いに支度を整えていた。ジャスパーは赤い髪をざっと手ぐしで整え、口の端にパン屑をつけたまま腰の短剣を点検している。
「んー、やっぱり昨日の酒が残ってるな。けど、これくらいがちょうどいいか」
ジャスパーが軽口を叩きながら革のベルトを締めると、マテオが呆れた顔で肩をすくめた。
「締める場所はそこじゃない。剣帯は腰骨の上、ほら」
マテオが慣れた手つきで位置を直してやる。彼の動作の正確さに、カルロータがカウンター越しに感心したように言った。
「マテオは几帳面ね。昨日も料理の盛りつけを手伝ってくれたし」
「性分だ」
マテオは返すが、口元にはわずかに誇らしげな笑みが浮かんでいる。一方、ニールは窓辺に立ち、陽光の中で懐中時計を見つめていた。
「そろそろ出ようか。屋敷までは坂を登るんだし」
彼が穏やかな声で言うと、コリンが小さな肩掛け袋を背負いながら振り向いた。
「ねえ、管理人って怖い人?」
ジャスパーが口の端を上げて言う。
「怖いかどうかは会ってからのお楽しみだな。おれは偉い人ってだけで腰が痛くなるけど」
「お前は座ってても腰痛いだろ」
フランソワが笑い、ルキフェルは彼らを横目に無言で外套の襟を直す。夜の酔いはすっかり抜けていたが、胸の奥には昨日の言葉が微かに引っかかっていた。カルロータが「いってらっしゃい」と手を振る。ブエソルの玄関扉を開ると、朝の光が差し込んだ。
六人は、石畳の坂道をゆっくりと登っていく。港の喧噪が遠ざかるにつれ、潮の匂いが薄れていった。坂を半ばまで進むころには、通りを行き交う者もまばらになり、潮風に混じって乾いた土の匂いが漂いはじめる。ルキフェルは足元を見た。石畳はところどころ崩れ、割れた継ぎ目から土が顔を出している。長く手入れされていないのだろう。靴底が鳴るたび、細かな砂埃が舞い上がり、陽光の中で銀色に光った。上へ行けば行くほど街の喧騒は遠ざかり、空気はひんやりと肌を刺す。
「ずいぶん静かになったな」
ジャスパーが辺りを見回しながら呟くと、マテオが口を開く。
「ここから先が管理人の区画なんだろーな」
ルキフェルは目を細め、視線の先に見える建物を見つめた。坂の頂に、質素な屋敷。屋敷と呼ぶにはあまりにも無骨だった。飾り気のない板壁、錆びた釘、風を受けてきしむ屋根。玄関脇に掲げられた真鍮板だけが、わずかに威厳を示している。その板には海図が刻まれ、緯度線と経度線が複雑に交差していた。屋敷の背後には、古びた石壁が聳えている。砦の跡地らしく、砲痕のような窪みがあちこちに残り、草の蔓が絡みついていた。まるでこの島の過去がそのまま凝固しているようだ、とルキフェルは思った。
門の前に一人の門番が立っている。彼は粗末な軍服の名残のような上着を身につけ、静かに一礼した。その脇の木戸には、手彫りの文字。
《争いを持ち込むなかれ。ここは酒と交易の地》
ニールがそれを読み上げ、小さく笑った。
「皮肉だね。世界の掃き溜めの中心が、こうして秩序を掲げてるなんて」
「秩序があるからこそ、掃き溜めで済んでるのさ」
フランソワが答え、門番に軽く会釈した。
「俺たちはブエソルの宿の者だ。長老に挨拶をしに来た」
門番は頷くと、無言で木戸を押し開く。軋む音とともに、冷たい風が中から吹き抜け、六人の足元の砂を揺らした。屋敷の門がきしむような音を立てて開かれた。迎えに出たのは黒いチュニックを着た使用人のような男で、無言のまま一同を中へと促した。玄関扉をくぐった瞬間、外の潮風と陽光が一気に断たれ、空気が変わる。薄暗い広間には、海塩と古い木材の匂いが染みついていた。光源は天井から吊るされた幾つかのランプのみ。油の揺らめく灯が、帆布に覆われた壁をぼんやりと照らしている。
「……思ったより、静かだ」
ニールが低く呟くと、マテオが肩をすくめた。廊下を進むたび、足元の板がぎしりと鳴った。壁には使い古された網や羅針盤、朽ちかけた舵輪が無造作に掛けられている。まるでこの屋敷そのものが一隻の老いた船のようだ。案内の男が立ち止ま、突き当たりの扉を軽く叩くと、中からかすかな声がして扉が開かれる。
そこは執務室。いや、船の司令室のようでもあった。正面の壁いっぱいに広がるのは、古びたカリブ海の海図。海流の線、島影、交易路が赤や黒の線で幾重にも塗り重ねられ、無数の印が歴史を語っている。部屋の中央には、トルチュ島とその周辺を模した立体模型——ジオラマが鎮座していた。小指ほどの家々、起伏をなぞるような丘陵、港に停泊する微小な帆船。近づけば、港の配置や要塞の位置まで精密に再現されている。ルキフェルは無意識に息を呑んだ。海の自由都市と呼ばれる島の姿が、目の前に凝縮されている。
「……よくできてるな」
彼がぽつりと漏らすと、フランソワが頷いた。
「なるほど。管理人って呼ばれ方も雰囲気だけじゃないらしい」
重々しい静寂の中、奥の机の向こうで誰かの影がゆっくりと立ち上がる気配がした。使用人が一歩退き、頭を下げる。
「——長老。お客様方をお連れしました」
杖の音が一度、床に響く。ランプの光がわずかに揺れ、その中を一人の男が姿を現した。
彼は三十そこそこの青年のように見えた。褐色の肌は潮風に焼かれ、長い年月を海上で過ごしたことを物語っている。肩甲骨まで届く黒髪を後ろで束ね、ゆったりとした生成りの麻の衣の上に燻んだ外套を羽織っていた。光が彼の顔を照らすと、琥珀色の双眸が一同を見渡す。その目には激情も怯懦もなく、ただ真偽を測る透明な冷たさがあった。
彼は机の脇に置かれた銀の煙管を手に取り、ゆっくりと火をつけた。小さく息を吸い、吐き出された煙が揺れる灯の中に溶けていく。そして、低く響く声が静寂を切り裂いた。
「……お初にお目にかかりますな」
彼の声音は穏やかで、どこか測りがたい。
「俺は皆から“長老”と呼ばれる者。この島の管理と秩序。そして、管理人たちのまとめ役です」
口調こそ柔らかいが、言葉の裏には威があった。理屈よりも存在そのものが場を支配している。フランソワが軽く頭を下げた。
「お招きにあずかり、光栄です。“長老”殿」
「挨拶など不要ですよ、船乗り殿。ここでは誰もが同じ立場です」
長老は薄く笑いながら言い、煙管を机の縁に軽く当てた。その笑みは温かくもあり、同時に海のように深い。ルキフェルは無意識に背筋を伸ばしていた。長老の琥珀の眼が一人一人を射抜く瞬間、空気がわずかに張り詰めた。
「皆、いい目をしている。荒れた海を越えてきた者の目だ」
長老の口から再び煙が吐き出され、琥珀の瞳が煙越しに揺れる。
「——ようこそ、海の自由都市へ」
静寂の中に、遠くで潮騒の音がかすかに聞こえた。長老は煙管を口元に運び、火の先を見つめながら緩やかに吐息を漏らした。立ち上る煙が淡く漂い、琥珀の瞳がその向こうで細く光る。長老はフランソワの方へ目を向けた。
「あなたが船長、で間違いないですね?」
「はい」
フランソワはまっすぐに視線を返す。
「俺たちは以前、フランスの私掠船団でした。けれど、免状を剥奪されましてね。逃げ場もなく、この島に流れ着いたというわけです」
長老の唇がわずかに笑みの形をとった。
「なるほどね」
再び煙管の先に火が灯る。その火が一瞬だけ長老の横顔を照らし、海図の影が壁に揺れた。
「免状を失い、旗を失い……それでも舵を握り続けるとは、たいした胆力だ。この島では、誰もが何かを“失くした”あとに辿り着くものです。……あなた方も、例外ではないようだ」
長老は煙管をくゆらせながら一度目を閉じた。そして、ゆるやかに口を開く。
「この島への滞在は自由です。ただし、いくつか“ルール”がある」
再び煙を吐くと、白い靄が灯りの中に広がる。その向こうで、長老の琥珀の瞳がゆらりと光った。
「まず、このトルチュ島はいくつもの海賊団が、非公式に停泊を許された中立の地。敵も味方も、ここにいる間は同じ港の民と見なされる。旗、つまり自分の色を掲げなければ、誰でも滞在して構いません」
言葉に合わせ、壁の古い海図に貼られた赤印の数々が長老の視線の先に映る。幾度も流血と交易を繰り返してきた島の記憶がそこに刻まれていた。
「……もっとも、同じ宿に泊まってると分かっただけで殴り合いになることもある。そこは、我々でも止められやしません」
長老は煙管を机に置き、両肘を軽く乗せて身を前に出す。
「それから、滞在に関する細かい掟をいくつか伝えておきましょう」
人差し指を一本立て、低く数え始める。
「ひとつ。武器の持ち込みは自由。ただし、抜けば殺し合いになる覚悟が必要です。この島では刃を見せた瞬間、理屈よりも結果が先に立つ。ふたつ。島内での死者は管理人の管轄。どんな理由があれど、報復戦は全面禁止。……この掟を破れば、どんな海の男でも、港に帰ることはできません」
そして三本目の指を立てる。
「みっつ。金さえ払えば、整備・治療・逃亡支援、何でも受けられる。腕の良し悪しは、まあ……運次第ですがね」
最後の一言だけ、長老は薄く笑みを浮かべた。
「ここは自由の島だが、同時に理の島でもある。海の上では略奪者でも、ここに足を踏み入れた瞬間、誰もが俺の客であり、被監視者でもある」
長老の言葉が一通り終わると、フランソワはひとつ息をつき、背筋を正したまま口を開く。
「……承知しました。掟に従う。それがこの島で生きる条件なんですね」
長老は頷き、煙管を手にして鳴らした。
「ええ。ここではそれだけ覚えておけばいい。あとは、潮の流れに身を任せればいい」
再び静寂。誰もが言葉を探すように、沈んだ光を帯びた海図を見つめていた。そんな中、ぽつりと若い声がその場を割る。
「そういえば、この島のすぐ西って……新大陸ですよね?」
皆の視線が一斉にニールへ向く。彼は少し身を縮めながら、それでも興味を抑えきれない様子で続けた。
「どうして、誰も行こうとしないんです? 地図にはあんなに大きく描かれてるのに、誰も航路を取らないなんて」
その瞬間、部屋の空気が凍りついたように感じられた。誰もが息を潜める。その沈黙を破るように、フランソワが口を開いた。
「ニール、あまり長老を困らせるな」
彼の苦笑まじりの声に、ニールはきょとんとした顔で首をかしげた。
「聞いたことないんですか? 新大陸の話を」
フランソワが返すより早く、ニールの声が続いた。
「……あの大陸は、”とある事情”で植民ができなかった。どの国も試みたけど、遠征隊はことごとく全滅。狂気に陥ったとか、神隠しに遭ったとか、そんな話ばかりが残ってる。だから、いまじゃ『入ってはいけない場所』ってことになってるんだ」
ジャスパーが思わず息をのむ。ニールは指を一本立て、淡々と続けた。
「けど、カリブのほうに残った人たちは違う。ハイチの北西、トルチュ島を拠点に、彼らは自分たちの国をつくった。元私掠船も、貴族も庶民も関係なく。自由を掲げて、独自の秩序を保った。彼らは“バッカニア”って呼ばれてる」
フランソワが目を見開いた。マテオが「聞いたことある」と呟く。ニールは視線を長老に向けた。
「あなた達、この島の管理人って、バッカニアの子孫ですよね?」
その瞬間、長老の手が止まり、ゆっくりと頷いた。
「その通り。我々は、海を追われた者たちの末裔だよ」
長老はしばらく黙ったままニールを見つめていた。琥珀の瞳が揺らがぬ炎のように若者の無垢を射抜き、低く呟くように言葉が落ちた。
「……若いな。君は、何も知らない。だが、それでいい」
長老は煙管を口元に戻し、ゆっくりと紫煙を吐く。煙が螺旋を描きながら天井へと昇り、まるで誰かの亡霊がそこに立ち上るかのようだった。
「昔、この島には越えてはならぬ線があった。……いや、いまもある。我々の背後で、誰かがその線を引き続けている」
言葉の調子が変わった。柔らかさの奥に、ぞっとするような含みが宿る。
「新大陸に渡った者は帰ってこない。記録も、噂も、名も残らない。……そういう場所だ」
マテオが肩を竦め、ジャスパーが苦笑混じりに「冗談きついな」と呟く。だが長老は笑わなかった。その眼差しは、遠い水平線の向こうを見据えていた。まるで、何か恐ろしいものを見ているかのように。潮騒が遠くで鳴り、誰も口を開かない中でコリンは壁際の古びた海図を見つめた。羊皮紙は色褪せ、ところどころに赤い線が描かれている。彼はぽつりと呟いた。
「けど、ぼくは信じてるよ。この海の向こうに、ぼくたちとはまったく違う……もっと進んだ世界があるって」
誰も笑わなかった。フランソワも、ジャスパーも、マテオも、言葉を失っていた。長老はしばらく少年の横顔を見つめていたが、やがて深く長い溜息を吐いた。
「興味深いな。お前たちは」
低く呟くと、長老はゆっくりと書棚の前に歩み寄った。並んだ背表紙の中から、一冊を軽く手前に引く。——コクン、と鈍い音がした瞬間、書棚全体が後方へ動き、奥の壁が割れるように開いた。薄暗い通路の向こうで外の光がちらつき、潮の匂いが流れ込んでくる。長老は呆然と立ち尽くす一同を振り返り、片眉を上げた。
「ついて来い。本来、外部の人間は通さないが……お前達は特別だ。特に、そこの金髪とチビ」
ニールが息を呑む。彼の隣でコリンが眉をひそめ、唇を尖らせた。
「……チビじゃないもん」




