第七章③ 五人組
朝の光が薄いカーテンを透かして差し込んでいた。
潮風に混じって、パンを焼くような香ばしい匂いが漂ってくる。ブエソルの宿に、静かな朝が訪れていた。ルキフェルは椅子に座ったまま、腕を組んでうつむいていた。うたた寝のまま夜を越したらしく、髪は少し乱れ、肩には毛布がかけられている。その毛布をかけたのが誰なのか彼自身、知る由もなかった。
「……ルキフェル」
小さな声がした。コリンが寝台から身を起こし、ぼんやりした瞳で彼を見ている。
「起きてよ。朝だよ」
肩を揺すられ、ルキフェルはゆっくり目を開けた。
「……ん」
ルキフェルは低く掠れた声で返し、ひとつ大きく伸びをする。椅子の軋む音が静かな部屋に響いた。
「おはよ」
「おう、おはよう」
いつもより柔らかい笑みを浮かべながら、ルキフェルは言った。窓の外では、港の方から船の鐘の音が聞こえてくる。トルチュ島の新しい一日が、もう始まっていた。
「気分はどうだ?」
ルキフェルが問うと、コリンは少し考えるようにして首をかしげた。
「うん、元気は元気。でも……声がまだ、ちょっと掠れる」
ルキフェルは吹き出した。
「そりゃそうだ。昨日の熱の上がり方じゃ、すぐに戻るまい」
そう言ってルキフェルは卓上の水差しを手に取り、コップに注いで渡した。コリンは両手で受け取り、ゆっくりと喉を潤す。部屋にはしばし海風と波の音だけが流れた。
「……ねえ、ルキフェル」
水を飲み終えたコリンが、寝台の端に腰かけながら言った。
「外の光、見てみたい。昨日は暗くて、どんなところなのか全然わからなかったんだ」
ルキフェルは眉をわずかに顰めた。
「まだ本調子じゃないだろう。外は潮風も強い。今日はおとなしくしていろ」
「少しだけでいいから」
コリンは小さく唇を尖らせ、寝台の端で足をぶらぶらと揺らす。
「昨日からずっと寝てるだけなんだ。退屈なんだよ」
ルキフェルはため息をついた。
「……まったく、子どもってやつは」
ルキフェルは椅子から立ち上がり、窓のカーテンを少し開けて外を覗く。
「仕方ない」
彼は振り返り、肩をすくめて言った。
「朝飯を食べてから行こうな。空腹で倒れたら困るから」
その一言に、コリンの顔がぱっと明るくなった。
「ほんと? やった!」
「約束だぞ。飯を食べたら、少しだけだ」
「うん、少しだけ!」
コリンは毛布を払いのけると窓際まで歩き、カーテンの隙間から差し込む朝の光を眩しそうに見上げた。ルキフェルは彼の背を見ながら、ほんのわずかに口の端を緩めた。この島が、せめて今日だけでも穏やかでありますように。二人で宿の一階に下りると、朝の匂いと焼きたてのパンの香りが漂っていた。
「お、早いじゃねえか」
ジャスパーがテーブルの向こうでパンを頬張っていた。
「子守り当番ご苦労さん」
「放っとけ」
ルキフェルが淡々と返すと、マテオが椅子の背に肘をかけながら声を上げた。
「外に出るのか? オレも行く。風ぐらい浴びねぇと」
「僕も!」
ニールが続き、コリンが嬉しそうに「みんなで行こうよ!」と言うと、ルキフェルは一瞬だけため息をつき、ほんの少しだけ笑った。
「……まったく、賑やかな朝」
宿を出ると、朝の潮風が頬を撫でた。空はすでに高く、通りの向こうでは帆布を張った屋台の列が賑わい始めている。
「ここが、キャプテンストリートらしい」
マテオがそう言って胸を張ると、ジャスパーが肩をすくめた。
「何でも売ってる戦利品市の名残ってやつだな。昔は奪った品をここでさばいてたんだろ」
「今も似たようなもんでしょ」
ニールが笑う。
「ほら見てよ、あの銃……半分サビてるのに勇者が使った逸品だって!」
通りの両脇には海賊旗を模した看板や、錨を飾った店先が立ち並ぶ。香辛料と焼いた魚の匂いが入り混じり、遠くでは楽師が陽気に笛を吹いていた。
「ねぇ、あっちに剣がいっぱいある!」
コリンが身を乗り出して指差す。
「おい、走るな。まだ本調子じゃないんだろ」
ルキフェルの声は穏やかだったが、その手は自然と少年の肩を押さえていた。
「はいはい、親父みたいなこと言うなよ」
ジャスパーが口笛を鳴らす。
「お前らが騒ぎすぎなんだ」
ルキフェルが返すが、眉間の皺はすぐにゆるんだ。市場の喧騒の中を、五人はゆっくりと歩いていく。陽光に照らされた布屋の色、海風にたなびく旗、笑い声と呼び込み。出店の片隅で、ルキフェルはふと足を止めた。並んだ古い羅針盤の中に、見覚えのある紋章が刻まれた一品が混じっている。
「……これは」
小さな違和感、潮騒の中で静かに胸をよぎる。だが、コリンが振り返って「ルキフェルー!」と呼ぶ声に彼はすぐ顔を上げた。
「なんでもない。行こう」
笑みの奥にわずかな影を宿したまま、ルキフェルもまた賑わう通りの中へと歩を進める。キャプテンストリートを抜けると、潮の香りが一段と濃くなった。遠くに波打つ水面、朝日を受けた帆布が白く輝き、港には各地から集まった大小の船が肩を並べていた。
「わぁ……!」
真っ先に声を上げたのはコリンだった。彼の視線の先、他のどの船よりも巨大な艦影が、ゆっくりと陽光を弾いている。船体は漆黒に塗られ、船首には女神の意匠を模した飾り。艦腹には砲門がずらりと並び、黒鉄のような光沢を放っていた。
「すっげぇ……あんなの、海ごと呑み込みそうだ」
ニールが口笛を吹き、ジャスパーも「うわ、金かかってんなあ」と感嘆の声をもらす。対して、マテオは腕を組んでぼそりと呟いた。
「趣味悪いな。黒一色って……威圧感しかねぇ」
ルキフェルは静かに眺めていたが、やがて短く息を吐いた。
「デカけりゃいいってもんじゃないだろ」
「そう言うけどさ、男の夢ってやつだろ?こういうの」
ジャスパーが笑いながら肩をすくめる。
「夢を沈められたら元も子もねぇけどな」
ルキフェルの淡々とした言葉に、マテオが小さく吹き出した。港風が吹き抜け、黒艦の帆をばたつかせる。その響きが、まるで低く唸る獣のように耳に残った。
「……でも、あんな船が動いたら、トルチュの港が狭く感じる」
ニールの呟きにルキフェルは一瞥だけくれた。黒々とした巨艦を前に言葉を失っていた五人の背後から、ゆるやかな声がした。
「おやおや……口が開いたままだぞ、諸君」
風に混じって響く声はどこか軽やかで艶があった。五人が振り向けば、そこに立っていたのは上等な絹のシャツに銀灰のベスト、細身の剣を腰に携えた男——フェルナンド。整った顔立ちに薄く笑みを浮かべ、栗色の髪を潮風に遊ばせている。
「フェルナンド……!」
ルキフェルが思わず目を見開いた。フェルナンドは片手を胸に当て、芝居がかった仕草で一礼した。
「久しぶりだね、諸君。まさかこんな所で会えるとは思わなかった」
「お前こそ、まだエドガーの下にいたのか」
マテオが訝しげに言うと、フェルナンドは肩をすくめて笑う。
「『いたのか』とは酷いな。ボクはずっと彼の片腕さ。あの船、〈リヴェンジ・クイーン〉は、我らがエドガー・ロジャース船長の誇りそのものだよ」
朝日を反射して艶やかに光る黒艦を見上げながら、フェルナンドは誇らしげに言葉を継いだ。
「もとは新世界航路で暴れた伝説の艦、〈アン女王の復讐号〉を手本に造られたもの。砲門三十六、速力はこの島随一。何より、あの船は復讐の名を冠している。男たちの浪漫ってやつさ。ただの模倣じゃない。」
「へえ。じゃあどうやって入手したんだ?」
ジャスパーが呟くと、芝居の幕でも開けるようにフェルナンドは両手を軽く広げて笑ってみせた。
「あの船を手に入れるのに、船長が何をしたか? 聞かない方が幸せだよ」
ニールが呆れたように口を尖らせる。
「ほんと口の回る人だね。いつ寝てんの?」
「寝る? そんなものは人生の無駄だよ、少年」
軽口を返しながらも、フェルナンドの瞳にはどこか翳りのようなものが宿っていた。ルキフェルは小さく息をつき、やがて微笑を浮かべる。
「……あいかわらず芝居がかってるな」
「褒め言葉として受け取っておこう」
フェルナンドはウインクして、軽やかに踵を返した。
「船長も、君たちが来ていると知れば喜ぶさ。今夜、『夜の階段』に顔を出してみるといい。きっと、面白い夜になる」
フェルナンドの姿が港の喧噪に溶けて消えると、残された五人はしばし言葉を失っていた。あの軽やかな足取りと、背中から滲み出る異様な存在感。どこか芝居の幕が下りたあとのような静寂が漂っていた。そんな中、ぽつりとコリンが言った。
「……変な人だね」
その素直すぎる感想に、ルキフェルが思わず口元を押さえていると、木箱を積み下ろしていた船乗りが、ギョッとしたようにこちらを振り向いた。
「おい坊主、やめときな!」
その男は声を潜めながらも慌てた様子で言った。
「ここであの人のことを悪く言うのは命知らずってもんだ」
ジャスパーが首を傾げる。
「え、どういう意味?」
船乗りは周囲を見回し、声をさらに潜めた。
「……あの人、見た目は優雅だろ? でもよ、港の連中の間じゃ有名なんだ。あれでも寝てる時でさえナイフを離さねぇって話だ。敵を斬る時は笑いながら、まるで舞台のワンシーンみたいにやるらしい」
ニールが小さく眉をひそめる。
「まさか、それも芝居のつもりか?」
「さあな……。けど、エドガー海賊団の中でも特に恐れられてるってのは確かだ。今じゃ異名までついてる。銀の猫ってな」
「銀の猫、か」
ルキフェルが呟く。船乗りは肩をすくめながら言った。
「音もなく近づいて、気づいた時には爪を立てられてる。そんな奴さ。女たちは美しいって言うけど、男たちは皆『怖ぇ』って言う」
ジャスパーが苦笑した。
「なるほど、港の連中にとっては銀の猫は飼い猫じゃなくて野生の方か」
「うまいこと言うじゃねぇか、兄ちゃん」
船乗りは笑いながら去っていった。残された五人の間に妙な沈黙が落ちた。やがてマテオが口を開く。
「……相変わらず面倒なやつ」
ルキフェルは肩を竦め、遠くに浮かぶ黒艦をもう一度見上げた。黒い巨艦〈リヴェンジ・クイーン〉の帆が、風を受けて重たく膨らんでいる。その影の中で、猫のような男が微笑んでいる気がした。マテオが軽く伸びをして言う。
「……んじゃ、そろそろ宿に帰るか。港の風で少しは体が冷えただろ」
「えーっ、もう帰るの? もうちょっと散策したい!」
コリンが子どものように喚く。
「だああああ、帰るの!」
ジャスパーが即座に返す。
「病み上がりの小僧は休め!」
「小僧とか言うな!」
「じゃあ何て言えばいいんだよ、病み上がりのガキ?」
「余計悪化してるじゃん!」
そんな言い合いにニールが吹き出し、マテオも肩をすくめた。五人の声が港のざわめきに混じって弾け、ふとルキフェルが足を止めた。
「……少し寄りたいところがある」
「ん? どこだよ」
「さっきの市場だ。気になるものがあって、もう一度見たい」
彼の一言に、ジャスパーが目を丸くする。
「おいおい、まさか買う気か?」
「わからん。ただ、気になる」
そう言って踵を返すルキフェルの後を、他の四人も自然と追った。五人はキャプテンストリートを引き返し、昼の熱気が残る石畳を歩いていく。陽は傾きかけ、往来には買い物帰りの人々が行き交う。喧噪の奥で、金属が擦れるような乾いた音がふと耳に届いた。
ルキフェルは足を止め、その音の方を見やった。屋台の陰、年老いた商人が小さな机の上に羅針盤や航海計器を並べている。埃をかぶった品の中で、ひときわ光を反射している一つがあった。
「……これだ」
彼は無意識に歩み寄り、その羅針盤を手に取った。蓋には、風化しかけた鳥の頭と双剣の紋章が刻まれている。商人がにやりと笑った。
「目が利くね、傷の兄さん。それは少し変わり種だよ。十六年前の《双星の海戦》で見つかったって噂の代物さ」
「《双星の海戦》?」
ルキフェルの声に、周りの三人が小さく反応する。ニールが目を丸くし、指を鳴らした。
「知らないの? 大海賊ゼフィランサスと、フランス海軍大元帥エリオット・レオパードが一騎打ちをした、あの十六年前の戦いをさ」
「また大げさな話だな」
ジャスパーが肩をすくめた。
「いや、知らないな……」
ルキフェルは答えたが、その名を耳にした瞬間、胸の奥が微かにざわめいた。商人は肩をすくめて言う。
「ま、そう言われてるだけでね。どうやってトルチュに流れたのかもわからんし、本物かどうかも怪しい。贋作だと思って買うなら……安くしとくよ」
ルキフェルは蓋を開いた。針は北を示さず、微かに震えながら一点を指したまま止まっている。
「おかしいな……」
彼が呟くと、商人が笑った。
「壊れてるのさ。それでもいいって奴がたまにいる。曰く運命を示す針だってね。迷信好きの連中には丁度いい代物だ」
風が通り抜け、蓋の表面を撫でていく。かすかに刻まれた紋章が陽光を受け、鈍く光った。
「……買うのか?」
マテオが声をかける。
「いや、贋作だろう」
そう言いながらも、ルキフェルは手を離せずにいた。
「でも、なんか……きれいだね」
コリンが不思議そうに呟く。
「壊れてても、まだ動いてる感じがする」
ニールの言葉に、ルキフェルの指がぴくりと動いた。商人は手元の古道具を拭きながら薄く笑う。
「おっと、買うならそれなりの対価が必要だ。キャプテンストリートでは物々交換が主流。貨幣は使えないぞ」
「さっき安くするとか言ってただろ……」
マテオがぼやくと、商人は肩を揺らして笑った。
「安くするってのは、交換物のハードルを下げるって意味さ」
四人が呆れ顔を見せる中、ルキフェルはもう一度羅針盤を見つめた。針はまるで何かを示すように震え続けている。すると、商人の視線がふと別の方向に動いた。
「……おお、赤髪の兄ちゃん!」
男の目が、ジャスパーの赤い髪の間からちらりと覗いたイヤリングに吸い寄せられる。
「いいもん耳に付けてるじゃねぇか。トルコ石にチェコガラス……細工も悪くねぇ。よし、それと交換ってのはどうだ?」
「え、これ?」
ジャスパーが耳元を指さした。光を受けて、青と透明の粒が微かにきらめく。
「これ、外し方わかんないし……なんかずっと着けてなきゃいけない気がしてさ。悪いなぁ、これ渡せないんだ」
ニールが腕を組み、にやりと笑う。
「ジャスパー、物欲ないのにそれは大事にしてるんだ。……確かに、そういう雰囲気ある」
そして彼は懐に手を入れ、何かを取り出した。小さな宝石付きの指輪。古びてはいるが、手入れの跡が残るそれを光の下に差し出す。
「じゃあ、これでどうかな」
商人の目が一気に輝いた。
「おお、それもいいな! よし、交渉成立だ。その羅針盤は、今じゃあなた方の手の中!」
ずいぶんとあっさりした取引の終わり方に、コリンが小声で呟いた。
「……大人って、汚い」
「てかお前、そんなモン持ってたのかよ」
マテオが呆れたように眉を上げる。ニールは肩をすくめ、涼しい顔で笑った。
「さあ、どうだろうね」
だがその笑顔の奥で、彼の思考は一瞬だけ過去へと戻っていた。
あれは、故郷を離れる前夜。いつか売り飛ばして生活の足しにするつもりで持ち出した最後の宝石だった。それを今、海の果てで手放した。
ルキフェルは手の中の羅針盤を見つめる。針は北を向かず、わずかに震えながら一点を指している。その震えに、彼の胸の奥も微かに呼応していた。
——なぜだろう。
この羅針盤を手にした瞬間から、心のどこかで何かが動き出したような気がしてならなかった。
商人とのやり取りを終えた五人は、市場通りを抜けて宿へと戻っていく。海辺の通りを渡る風は塩気を含んでいて、遠くで波の音が途切れ途切れに聞こえる。宿の壁は薄い水色で、入り口には花が添えられていた。コリンがふと口を開く。
「そういえば、フランソワはどこ?」
「そういや見てないな。昨日から姿が見えねぇ」
ジャスパーが首をかしげる。
「航海のあとによく遊べたもんだ」
「何して遊んでるの?」
コリンの無邪気な問いに、大人四人は一斉に足を止めた。空気が一瞬で気まずくなる。ルキフェルの頭の中は真っ白だった。陸に上がった海賊の遊びなんて、酒か賭博か、あとは……言葉にできない。やばい、なんて言えばいい。
「た、多分、フランソワは——」
ルキフェルが口を開きかけた時、ニールが爽やかな笑顔で被せた。
「フランソワはね、いろんな宿に泊まって『どこが一番落ち着くか』って探す遊びをしてるんだよ」
「へぇ! そんな遊びがあるんだ!」
コリンは純粋に感心したように頷き、「じゃあ帰ってこないのもわかる気がする」と笑って、先に宿の中へ入っていった。扉が閉まる音を合図に、残った四人は一斉に息を吐いた。
「……助かった」
マテオがぼそりとつぶやき、肩をすくめる。そんな中、ニールが「ジャスパー」と呼ぶ。
「ん?」
振り返る赤髪の青年に、ニールは微笑みながらも低い声で告げた。
「黙れ」
爽やかさの奥に本気が見えた。ジャスパーは思わず「は、はい」と苦笑。その後、ニールはルキフェルに向かって口を開いた。
「一から全部説明しなくていい」
釘を刺され、ルキフェルは冷や汗をかきながら頷いた。風がまた吹き抜け、宿の看板を揺らす。
ポケットの中の羅針盤は、不気味にカチカチと鳴り続けていた。




