第七章② 五人組
ルキフェルは桟橋に降り立ち、足元の硬さを確かめるように一歩踏み出した。視界の先には、雑多な木造家屋が密集する街並みが広がっている。裸足の子供が桶を抱えて走り去り、路地裏では商人風の男が闇取引を交わしていた。陽射しに焼けた帆布がはためき、道端では焼き魚の煙が漂う。初めて嗅ぐ土地の湿り気に、ルキフェルは無意識に息を詰めた。そんな彼の横へ、フランソワが歩み寄ってきた。
「……俺は他の船団の連中と話してくる」
フランソワが軽く顎をしゃくりながら言うと人波の方を見やる。
「お前はコリンを連れて、宿を探してこい。あいつの顔色、まだ戻ってねぇ」
「船員たちは?」
ルキフェルが尋ねると、フランソワは短く笑った。
「俺がまとめる。この航海を率いた責任者としてな」
ルキフェルは黙って頷き、〈リュシアン号〉を振り返った。波間に揺れる帆船は、長い夢の名残のように見える。ルキフェルは桟橋をあとにし、港町の通りへと足を踏み入れた。高く昇った太陽が屋根瓦の影を長く伸ばし、雑踏の間を吹き抜ける潮風が熱気を押し流していく。彼の背後からはジャスパーとマテオ、そしてニールがコリンを支えるようについてきていた。コリンの足取りは明らかに重く、顔色は青ざめ、額には玉のような汗。肩で息をするたび、弱々しい吐息が聞こえる。
「……なぁ、やっぱ休ませたほうがよくねぇか?」
ジャスパーが眉をひそめる。
「宿を見つけたらすぐに休ませる。もう少しだ」
ルキフェルは答えながら、道の先に見える看板へと歩を速めた。一軒目の宿は、海沿いの古びた木造家屋だ。扉を叩くと、脂ぎった顔の主人が顔を出す。
「悪いが、部屋を一つ頼みたい。病人がいる、休ませたいんだ」
ルキフェルが言うと、男は一瞬だけコリンの顔を見やり、鼻を鳴らした。
「……悪いな。病気のガキはお断りだ。うちで流行られちゃ困る」
扉は乾いた音を立てて閉じられた。二軒目も、三軒目も同じだった。どの宿も事情を聞くと眉をひそめ、言葉を濁すか露骨に嫌悪を見せる。
「病気なんざ縁起が悪いんだよ。別を当たんな」
そう言い捨てられるたび、マテオは唇を噛み、ニールは苛立たしげに地面を蹴った。ルキフェルはコリンの肩に手を添えながら深く息を吐いた。コリンの身体は熱を帯び、震えが止まらない。ジャスパーが上着を脱いで彼の肩に掛けながら呟いた。
「せっかく港に着いたのに、これじゃどうにもならねぇな……」
コリンはもう足取りが危うく、ニールが肩を支えている。
「だめだ、また断られた」
戻ってきたマテオが息を吐く。どの宿も同じだった。扉を叩けば、店主は顔を出すなり、コリンの様子を見ると首を振る。
「病気のガキを持ち込むな」
冷たい言葉が何よりも痛かった。木箱を運ぶ声、遠くの波止場で軋むロープの音。そんな喧噪の中で五人組が石畳の影に立ち尽くしていた時、通りの向こうから籠を抱えた女が歩いてきた。陽焼けした肌に、粗い麻の上着。髪をざっくりと後ろで結び、目元は力強い。港のざわめきの中でも、彼女の足音だけは妙に凛としていた。
「……あんたたち、そんな小さな子を連れてどうしたの?」
女が立ち止まり、響く声で言った。ルキフェルが顔を上げる。
「病気なんだ。宿を探してるが、どこも断られてね」
女は一瞬、無言でルキフェルとコリンを見比べ、籠を持つ手を腰に当てると呆れたように息を吐く。
「……なんだ、そういうこと」
彼女の勝気な笑みが、口の端に浮かんだ。
「ついておいで。うちは客なんて一人もいないから、部屋は選び放題よ」
「いいのか?」
ルキフェルが問うと、女は片手を振った。
「いいも悪いも、こんな寒空に子ども立たせてたら、あんたたち全員で後悔するよ」
潮風が吹き抜ける中、彼女の背中がゆっくりと歩き出し、ジャスパーが目を丸くして呟く。
「なんか、強そうな人だな……」
「うん。でも、きっと優しいよ」
ニールが微笑み、コリンを支え直す。ルキフェルは二人を見やりながら、ふっと笑った。
「助かったな。行こう」
港の喧騒を離れると潮の匂いが薄れ、代わりに乾いた風が頬を撫でた。宿の女将——カルロータが先頭に立ち、ルキフェルたちは彼女の背を追うように坂道を登っていく。細い石畳の道は蛇のようにうねりながら、高台へと続いていた。
「街の外れに宿なんて、珍しいな」
ジャスパーがぼやくと、カルロータは振り向かずに答えた。
「珍しいっていうより、好きでここに建てたんだよ。港の音がうるさくてね。静かな夜が恋しくなるんだ」
坂を登りきった時、視界がぱっと開けた。そこには、淡い水色の壁が印象的な宿屋がぽつんと建っている。木造の二階建てで、潮風に磨かれた外壁は陽の光を反射して柔らかく光る。
入口の上には古びた木の看板が掲げられ、《BUENAS NOCHES SOL》──スペイン語で「おやすみ、太陽」と書かれていた。
「……ブエノスノーチェス・ソル?」
ニールが声に出すと、カルロータは少し誇らしげに笑った。
「そう。ここらじゃブエソルなんて呼ばれてる。旅人も海賊も、皆が夜の眠りを求めてやってくる。もっとも、今日の客はあんたたちだけだけどね」
カルロータが扉を開けると、木の香りとハーブの匂いがふわりと漂った。中は意外にも広く、暖炉の火がゆらゆらと揺れている。長旅の疲れを癒やすような、穏やかで温かな空気が流れていた。
「そこの子は、二階の部屋に寝かせなさい」
カルロータが指差す。
「湯を沸かして薬草も出す。あんたたちはその間、身体を拭いておいで。顔が潮で焼けてる」
「助かる」
ルキフェルが礼を言うと、カルロータは笑いながら言った。
「礼なんかいいよ。困ってる奴を放っておけるほど、私は冷たい女じゃない」
マテオが小さく息を漏らした。カルロータが案内した部屋は、二階の角にあった。窓からは港の帆船群が遠くに見え、潮の香りを含んだ風が白いカーテンをやわらかく揺らしている。
「ここを使いな」
カルロータがドアを開けながら言った。
「シーツは朝替えたばかりだよ。寝かせてあげて」
ルキフェルとニールは無言で頷き、コリンを寝台へと導く。少年の額には汗が滲み、唇はかすかに乾いていた。彼の頬に触れると火が灯ったように熱い。
「高熱だな……」
ルキフェルが呟くと、カルロータは軽く手を振った。
「水を汲んでくる。冷やせば少しは楽になるさ」
そう言い残してカルロータは部屋を出ていった。ニールがコリンの額に手を当てて呟く。
「……熱いけど、呼吸は落ち着いてる。たぶん、疲れと気温差が原因だと思う」
「だろうな」
ルキフェルは窓際に腰を下ろし、腕を組んで少年の寝顔を見つめた。小さな胸が上下するたびに、彼の表情もほんの僅かに和らいでいく。
「港からここまで、よく持ったもんだ」
そう呟いたルキフェルの声には、安堵と自責が入り混じっていた。一方、ジャスパーは腕を組みながら壁にもたれて様子を見ていたが、やがて口を開いた。
「フランソワのとこに戻ってくる。報告もしなきゃいけねぇし、宿も押さえたって伝えねぇと」
ルキフェルが応じる。
「頼む。夜までには戻れ」
「任せとけ」
ジャスパーはマテオと視線を交わすと、軽く手を振って部屋を出ていった。残されたのはルキフェルとニールと、寝息を立てるコリンだけ。ニールは椅子を引き寄せ、コリンのそばに座り込んだ。
「この子、ほんとに頑張ったね」
「ああ。皆の尽力がなきゃ、航海はもっときつかった」
窓の外で白い鳥が鳴き、光が部屋を満たす。カルロータはほどなくして、金属盆に載せた水差しと清潔な布を手に戻ってきた。
「はい、これを。額を冷やしてあげなさい」
ルキフェルが受け取ると、彼女はそっとコリンの様子を覗き込む。
「少し寝かせておけば、夕方には熱も引くかもしれないわ」
「助かります」
「気にしないで。若い子は無理をしがちだからね」
カルロータは微笑んで言うと、扉の外へ出ていった。ルキフェルとニールは交代で水を替え、コリンの額を拭っていた。外からは虫の声と、遠く港へ向かう荷車の音が聞こえる。やがて扉の外で足音がして、ジャスパーとマテオがフランソワを伴って戻ってきた。
「戻ったぞ」
マテオが声をかけ、フランソワが続いて部屋へ入る。彼は寝台のそばまで歩み寄り、コリンの顔を覗き込んだ。
「……思ったより顔色がいいな」
フランソワは胸をなで下ろし、彼女に向き直った。
「世話になったな、カルロータさん。俺たちはフランスから来た船乗りでね。俺は船団の船長、フランソワだ。ここにいる五人はその仲間たち」
「まあ、フランスから? そりゃあ遠いわねえ」
カルロータは少し驚いたように目を丸くし、それから柔らかく笑った。
「船乗りさんなら、疲れもたまってるでしょう。ここにいる間くらい、のんびりしていくといいわ」
「そうさせてもらうよ。港にゃあ賑やかな連中ばかりで、落ち着ける場所なんてそうそうないから」
フランソワの冗談めいた言葉に、カルロータは肩をすくめて笑った。
「ここは静かな分、退屈かもしれないけどね。退屈が恋しくなる時もあるものでしょう?」
「まったくだ」
フランソワは穏やかに笑い、コリンの方をもう一度見やった。カルロータが部屋を出ていくと、ひとときの静寂が戻った。フランソワは窓際に立ち、外の景色を眺めながら息を吐いた。
「……よし」
フランソワが振り向き、ルキフェルに視線を向ける。
「俺はエドガーの元に行ってくる」
「エドガー?」
ルキフェルが眉を上げる。
「エドガー・ロジャースのことだよな。あいつもこの島にいるのか」
「ああ、港でばったり会ってな。このあと、マルクも入れて三人で呑みに行く」
「は?」
マテオが呆れたように口を開いた。
「マルクって……あの、投票でやり合ったあいつだろ?」
「生きてたことに驚くよ」
ニールが肩をすくめながら言う。フランソワは苦笑した。
「ま、あの船団も色々あって気が変わったらしくてな。人間、海に出てりゃ多少の裏切りくらい笑って酒の肴にできるもんさ」
「……お前らしいよ、フランソワ」
ルキフェルが笑い、マテオとニールも顔を見合わせて苦笑した。
「そういうこった。んじゃ——」
フランソワは軽く肩を回し、扉の方へ歩いていく。
「お前たちはしっかり休め。俺はひと足先にトルチュ島を楽しんでくる」
「……やれやれ、ほんとに楽しんでやがる」
マテオが呆れたように言うと、ニールが吹き出した。
「船長があれじゃ、僕たちも気を抜けないね」
ルキフェルは扉の向こうへ消えたフランソワの背を見送りながら笑みを浮かべた。
夜が更けると、ブエソルの窓からは遠くラ・カレータの港が見下ろせた。無数の灯りが波間に映え、船のマストや帆の影がゆらゆらと揺れている。
あの光の群れこそが自由港、トルチュ島の心臓部だ。
ルキフェルは椅子に腰を下ろし、寝台に横たわるコリンを一瞥した。子どもの額にはまだ微かな熱が残っているが、息は落ち着いている。カルロータが残していった冷水を絞り、額の布をそっと替えながら、彼はほっと息をついた。窓の外では、酒場通りの音楽、賭場の笑い声、そしてどこかの甲板で鳴る鉄のぶつかる音が夜風に混ざり合い、ひとつの島の呼吸のように聞こえた。
「……これが、楽園ってわけか」
ルキフェルは呟き、肘をついて窓枠に寄りかかった。下界の光景は美しかっただが、どこか落ち着かない。
この島には誰もが自由を名乗る一方で、誰もが主を持たない。秩序も法も、力と駆け引きの上に成り立つ。自由の裏に、どれほどの血と策謀が沈んでいるのか、彼は知っていた。
「……フランソワは、楽しんでるんだろうな」
思わず苦笑が漏れる。フランソワの姿を思い浮かべると、どこか救われるような気もした。あの男の明るさはこうした不穏の夜でも、不思議と光を通す。寝台のほうから小さく唸る声がした。ルキフェルは振り返り、コリンの手をそっと握りしめた。
「大丈夫だ。もうすぐ、朝になる」
窓の向こう。黒い海の上で遠くの船の灯がひとつ、またひとつ消えていく。
夜の静寂の中で、トルチュ島はまるで眠る巨獣のように息づいていた。
その背に乗る自分たちがどこへ向かうのかを知る者は、まだ誰もいなかった。




