第七章① 一ヶ月間の航海
ルキフェルは静まり返った自室の中で、無言のままカットラスを磨いていた。
油に濡れた布が金属の冷たい光沢をゆっくりと撫でるたび、微かな軋みが耳に残る。どれほど丁寧に磨こうと、胸の内に澱んだ重さは消えなかった。沈んだ気持ちを紛らわせるために始めた作業は、結局その沈黙をより深くするばかり。柄から鍔へ、鍔から刀身へと何度も布を滑らせ、ようやく光を取り戻した刃を目の前に掲げる。灯火の明かりが金属の線を撫で、鈍く冷たく、彼の瞳を照り返したが、その輝きも今の彼には空虚に見えるだけだった。
「……くだらねえな」
ぼそりと吐き出した声が誰もいない室内に溶けていく。手入れを終えた剣を机の隅に置いた。ルキフェルはしばし天井を見上げ、息を吐く。何をしても落ち着かない。考えたくないことばかりが頭の隅で波打つ。ルキフェルは蝋燭の火を吹き消し、寝台に入って瞼を閉じた。
ふと目を開けると夕暮れに染まる港に立っていた。少し離れた埠頭の上、夕陽よりも濃い水溜りの中にベルナルドが跪いていた。彼の前には、あの軍服の男。
「終わりだ。秘密を知った以上、死んでもらう」
距離は離れているのに、冷たい声が自分の耳元に落ちた。ベルナルドが何か言っている、でも聞こえない。今一番聞きたい声なのに、波の音でかき消される。軍服の男がサーベルを掲げ、ベルナルド目がけて振り下ろした。何回も、何回も。あの水溜りが広がっていく。ルキフェルの足元まで侵食してきて、ルキフェルは思わず後ずさった。
「悪魔め」
ジャスパーの声が頭の中で響いた。ルキフェルが瞬きをすると、目の前にベルナルドがいた。自分はといえば、濡れたサーベルを手にじわじわと距離を詰めている。
「……君を信じていた……」
夕陽で染まった顔で、ベルナルドが悲痛に訴えてくる。やけに赤いのは、夕陽のせいだと思いたかった。ルキフェルは自分に止まれと命じても身体は言うことを聞かず、ベルナルドに迫っていた。
ルキフェルは思わずぎゅっと目を瞑り、恐る恐る目を開けるとベルナルドは倒れていた。瞳から光が消えている。剣が胸に突き刺さったまま。彼のそばには、あの軍服の男。
あいつを許すな、殺せ。ルキフェルは足を踏み出そうとしたが、足が動かなかった。動け、動け、動け。なのに、足はびくともしない。その時、死んだはずのベルナルドがルキフェルを捉えた。
「どうして助けてくれなかった」
荒い息を吐きながら、ルキフェルは目を開けた。揺れる視界の中、ゆっくりと身を起こして辺りを見回す。見慣れた自室の内装が視界に入り、朝の光が窓から差し込んでいた。
「……っ、あ……っ……」
荒い呼吸を必死に整えようするが、胸は締めつけられ、頭がぼんやりとしていく。寝台の上で胸を抑え蹲っていると、扉の向こうからジャスパーの声が届いた。
「ルキフェル、今いいか?」
ジャスパーの声にルキフェルはようやく顔を上げ、掠れた声で答えた。
「……今、いく……」
発作で身体は震え、手足も思うように動かない。ルキフェルは扉を開けた瞬間、バランスを崩すように倒れこみ、無意識にジャスパーの胸へと身体を預けた。
「おい、どうした!?」
慌てて彼を受け止めるジャスパーの背後で、ニールの声が張り上げた。
「座らせて、早く!」
ジャスパーとニールに支えられ、ルキフェルはフラフラと机の方へ導かれる。机の縁に腰を下ろされるも、ルキフェルの胸は激しく上下し、言葉も途切れ途切れになっていた。ジャスパーが必死に支えてはいるものの、過呼吸の波は収まる気配を見せない。ニールは咄嗟に頭をフル回転させ、状況を整理する。まず身体の震えを抑え、呼吸を整えるために必要なのは、視覚的な刺激と身体の安定だ。
「ジャスパー、手はそのまま支えて。僕は彼の肩を軽く叩くから、首や胸を固定しすぎずに、呼吸を妨げないように」
ニールはルキフェルの肩を軽く押さえ、息を吸わせるリズムを口元で示す。
「吸って……吐いて……ゆっくりだ……吸って……吐く……そう、いい……」
ニールは小さな声でリズムを刻み、ルキフェルの視線を自分に向けさせる。
「ルキフェル、目を閉じなくていい。僕の声だけに集中して。世界はここにいる僕たちだけだ」
呼吸の合図に従い、ルキフェルは震える身体をわずかに安定させ、荒い胸の上下が徐々に落ち着きを取り戻していく。
「そう、いいよ……そのまま……吸って、吐いて……」
ジャスパーも安心したように肩の力を緩め、ルキフェルの体を支え続ける。やがてルキフェルの呼吸はかすかに整い、過呼吸の波は少しずつ引いていった。ニールは目を細め、冷静に状況を確認する。
「……なんとか落ち着いた。まだ完璧じゃないけど、息が整えばすぐに楽になる」
ルキフェルは荒い呼吸を繰り返しながらも、緊張の糸が切れたかのように肩を落とした。彼の姿を見下ろしながら、ニールは呟く。
「大丈夫……今は僕らがついてる」
ルキフェルの目にはまだ涙の名残があった。彼は荒い呼吸を整えながら二人を見上げる。
「……ありがとう、二人とも」
ルキフェルは涙の跡を手の甲で拭った。それを見たジャスパーは首を傾げ、眉を顰めて口を開いた。
「泣いていたのか?」
ルキフェルは咄嗟に視線を逸らし、手で顔を隠すようにして答える。
「……あ、ああ。少し、感傷に……」
するとニールが口を尖らせて指摘した。
「少し、どころじゃないでしょ。目もすっかり腫れちゃって」
ルキフェルは自分の顔に手を当て、目元の腫れを確かめると溜息をついた。
「……はは、そうか。確かに……少し、じゃ済まなかったかもしれない」
ニールは机に手をつき、ルキフェルの顔を真っ直ぐに見据えた。
「君さえよければ、話してよ。何が君をそうさせたのか」
ルキフェルは言葉を返さず、暫く目を伏せていた。彼の沈黙を破るように、ジャスパーがゆっくりと声をかける。
「なあ、ずっと言おうか迷ってたけどさ。ぜんぶ背負う必要なんかないんだぜ?」
ジャスパーは困ったような笑顔でルキフェルを見据えていた。
「痛みは、ひとりで抱えるもんじゃない。共有した方がいいこともある。そうだろ?」
ルキフェルはじっと二人の目を見返した。まだ荒い息を整えながら、先ほどの悪夢の光景を思い返していた。重苦しい胸の奥に、あのベルナルドの死の記憶が蘇る。その記憶を振り払うように、ぽつりぽつりと自分の言葉で語り始めた。沈黙がしばらく続いた後、ジャスパーが渋い顔で言った。
「お前は馬鹿野郎だよ。全部背負う必要はねぇんだ。おれたちだって、あいつの死から立ち直れていない」
ルキフェルの目が少し揺れた。すると、ニールが優しく言葉を添える。
「一人で苦しまないで」
ルキフェルは深く息を吸い込み、ぎこちなくも小さく笑みを浮かべた。涙の跡が頬に残る表情は苦しみの余韻を帯びながらも、どこかほっとした安堵を宿していた。
「ありがとう」
ルキフェルはもう一度、机の上に置かれた本に目を落とす。夢で見た港も、ベルナルドの声も、まだ鮮明に焼きついている。今はその記憶を恐れることなく、受け入れられる。ルキフェルは涙の跡がまだ頬に残るまま、掠れた声で言う。
「……二人とも、俺に用があるんじゃなかったのか?」
一瞬気まずそうな沈黙が流れたのち、ジャスパーが頭を掻きながら苦笑した。
「あー、そうそう。なんかさ、ニールが珍しく難しい顔してた。どうしたのか聞いたんだけどよ……聞いても全然分かんなくて。で、ルキフェルのところ来た」
「おい」
ルキフェルは半ば呆れ、半ばため息まじりに言うが、ジャスパーは気にした様子もなく肩をすくめた。彼の隣でニールが気まずそうに笑いながら、懐から一枚の紙を取り出す。
「実はさ、先輩航海士から航路計算の課題をもらったんだけど……途中でどうしても計算が合わなくなっちゃって。ヒント、くれない?」
差し出された紙は丁寧に折り畳まれていたが、ところどころに書き込みや消し跡があり、ニールが真剣に取り組んでいたことが伺えた。ルキフェルは紙を受け取ると軽く咳払いをする。
「わかった。じゃあ見せろ」
ニールは少し緊張しながら紙を差し出すと、ルキフェルは眉間に皺を寄せながら数字や記号を読み解き始めた。
「なるほど。ここで、経度の補正をかけるんだな。観測値を基準にして計算すると、この航路はこうなる」
ルキフェルは紙に鉛筆で丁寧に書き込みながら、計算の手順を一つずつ説明していく。ニールは彼の言葉に集中し、時折頷きながら質問を差し挟んだ。
「えっと、ここってどうして補正が必要なの?」
「海流や潮汐の影響を考慮しないと、実際の航行でずれが出るから」
ルキフェルは鉛筆を走らせ、簡単な図を描いた。
「ここで角度を測って、次に経度の補正をかける。順序はこう」
ニールはじっと見つめながら自分の理解を声に出す。
「なるほどね……あ、ちょっと待って。ここってつまりこういうこと?」
「正解。あとは潮流を考慮して修正を加えると……」
ルキフェルが説明している間、ジャスパーは肩越しに紙を覗き込み、口を半開きにしている。
「いやー、数字ばっかり見てると、頭が泳ぐなあ。おれだったらすぐ迷子になりそうだぜ」
ルキフェルは舌打ちした。
「お前は海の上で迷子になる方がよっぽど多いだろ」
ジャスパーは肩をすくめてにやりと笑う。
「まあまあ、ここで笑ってる分には安全だしな」
ニールもほっと笑って肩の力を抜いた。
「ありがとう。こうやって順序を追って説明してくれると分かりやすいよ」
ルキフェルは小さく頷く。
「計算は手順さえ押さえれば間違えない。焦らず順を追うことだ」
ルキフェルは窓の外に目を向け、外の海を見渡した。朝の光が水面に反射して、波のひとつひとつが淡い金色に揺れている。
「さて、今日も海に挑むか」
ルキフェルの言葉に、ニールとジャスパーが小さく笑みを返す。窓の外の海は、まるで三人を祝福するかのように光と風を揺らしていた。
海は変わらず広く、容赦なかった。
トルチュ島までの一ヶ月間、フランソワ海賊団は他の船団と共に長い航路を突き進む。
晴天の日もあれば、突如として荒れ狂う嵐に襲われる日もあった。冷たい北風に晒され、太陽に灼かれ、夜には濃霧に包まれることもしばしば。船員たちの体力と精神は、日を追うごとに削られていった。まだ長距離航海の経験がほとんどないフランソワ船団の面々は、恐怖と疲労で心身ともにいっぱいだった。常に揺れる甲板、鳴り止まぬ風雨の音、食事や休息のタイミングも定まらず、寝不足と緊張感が重なる。船の中は小さな動作ひとつでも命取りになりかねず、船員たちは顔色を失い、肩で息をするばかりだったが、食糧だけは幸いにして枯渇していなかった。
ルキフェルは夕方、ギャレーの小さな厨房で司厨手たちがせっせと食事を作る様子を見守っていた。温かいスープが鍋の中で泡立ち、乾燥したパンや保存用の肉が丁寧に整えられる。誰もが同じ食事を口にするよう、ルキフェルは分量を確認し、味の偏りがないかを監督した。船は揺れても、風が吹き荒れても、食卓だけは不変であるかのように、穏やかで静かな秩序を保っていた。
それから、ルキフェルは日誌に航路や船員の動き、食糧の状況を細かく記録しつつ、数字と経験で船団を守る覚悟を胸に刻み続けた。
一ヶ月間の航海は過酷だったが、船団は少しずつまとまり、航海術と互いへの信頼を培った。ルキフェルの眼差しは疲労に赤く染まっていたが、遠く水平線に広がる海を見据える目には、船団を守り抜く決意と誇りが宿っていた。
そして、ある朝。夜明けの薄明が水平線を染め上げるころ、前方の見張りが甲高い声を上げた。
「陸影だ! トルチュ島、見えたぞ!」
甲板にいた者たちは我先にと舷側へ駆け寄った。朝霧の向こうに島影が浮かんでいる。陽光が海面を裂き、波の狭間から覗くその影は、まるで幻のように揺らめいていた。歓声が次々と上がり、誰かが手を取り合って叫んだ。疲労で沈んでいた顔が次第に輝きを取り戻し、張り詰めた空気が少しずつ解けていく。船員たちは帆を張り直し、号令が飛ぶたびに、長い旅の終わりを感じて力強く動き出した。ルキフェルは舵輪のそばに立ち、潮風を胸いっぱいに吸い込んだ。
「やっと、か」
この航海で失ったものも、得たものもあったが、この瞬間だけは誰もが同じ空を仰いでいた。歓声が甲板を包み、船員たちは次々と前方の島影を指さしては笑い合っていた。その喧騒の中、舵輪の側で操舵を続けていたジャスパーがふう、と深い息を吐く。彼は潮風に赤髪をなびかせながら、ゆっくりと視線を巡らせた。
「それにしても、凄い数の海賊団だな」
遠方まで連なる帆の群れ。陽光を受けて銀白に輝くその列は、まるで巨大な蛇が海を渡っていくようだった。
「島の奴ら、びっくりしちゃうんじゃないの?」
ルキフェルは穏やかな表情で前方の島影を見据えた。
「確かにな。楽園は俺たちを歓迎してくれるのか……少し不安ではある」
楽園と呼ばれるその島、トルチュ。
海賊にとっての安息の地であり、同時に嵐の前の静寂のような場所。波音の中で交わされた二人の言葉は、どこか予感めいた余韻を残した。帆の群れが風を孕み、波を裂きながら進む。
ルキフェルのもとへ、ゆっくりと歩み寄ってくる影があった。コリンだった。その顔には疲労の色が濃く、唇は乾き、目の下にはうっすらと隈ができている。
「……もしかして、着いた?」
掠れた声で問いかけるコリンに、ルキフェルは微笑を浮かべた。
「ああ。俺たち、やったんだ。お前もよく……」
ルキフェルが言いかけた瞬間、コリンの身体がふらりと揺れた。彼の膝が甲板に触れる音が小さく響く。
「おい、どうした」
ルキフェルはすぐに身を屈め、コリンの肩を支えた。掌に触れた肌が異様に熱い。熱が伝わるや否や、ルキフェルの顔つきが一変する。
「……熱い。まさか、お前……」
汗が額に滲み、コリンは焦点の合わない目でルキフェルを見上げようとした。
「だ、大丈夫……。ちょっと、疲れただけ——」
言葉はそこで途切れ、彼の身体は再び力を失った。ルキフェルは慌ててコリンを抱き留めた。
「誰か、船医を呼べ!」
ルキフェルの叫び声が甲板を貫いた。周囲の船員たちは慌てて駆け寄り、すぐに一人が走り去る。他の者たちは一様に緊張した面持ちでコリンを見守った。ルキフェルは彼の背を支えたまま、コリンの顔を覗き込む。
「コリン、聞こえるか」
「……う、うん……大丈夫……」
コリン掠れた声で返すが、息は荒く、顔は真っ赤に火照っている。その時、船医が薬箱を抱えて駆けつけてきた。
「道を開けろ!」
ルキフェルが一歩退くと、船医は膝をついてコリンの脈を測り、額に手を当てた。
「……なるほどな。高熱、喉が腫れてるな」
船医はため息をつき、ルキフェルを見上げた。
「心配するな。どうやら、ただの風邪のようだ。疲労と寒暖差で体をやられたんだろう」
「風邪……だと?」
ルキフェルは呆気に取られ、ほんの一瞬だけ肩の力が抜けた。
「命に別状はないが、今すぐに休ませる必要がありる。高熱のままでは、また倒れるから」
「……わかった。すぐに下に運んでやってくれ」
ルキフェルが頷くと、二人の船員がコリンの身体を慎重に抱え上げた。コリンはうっすらと目を開け、微笑のようなものを浮かべて「ごめん」と呟いた。ルキフェルはコリンの手を一瞬だけ掴み、応えた。
「謝るな。お前が無事なら、それでいい」
コリンが運ばれていく様を見送りながら、ルキフェルは小さく息を吐いた。島に近づくにつれ潮の匂いが濃くなり、港湾区の喧噪が遠くから聞こえてきた。
「……港か。噂どおりだな。秩序も混沌も、この場所では同じ顔をしている」
ルキフェルは舷側に寄り、息を吐いた。ジャスパーが口笛を鳴らす。
「楽園ってのも皮肉だな。ありゃ、自由と欲望の巣だ」
「自由も、欲望も、海では同義だ」
ルキフェルは短く言い、帆を畳むよう号令を飛ばした。
「帆を畳め! ここからは慎重に行くぞ!」
掛け声が飛び交い、船団は港湾区「ラ・カレータ」へと舵を切る。
そこは交易と修繕、密輸と密談の入り混じる混沌の海辺である。
老朽化した帆船が傾きかけたまま繋がれ、甲板の上では水夫たちが酒瓶を掲げて騒ぎ立てている。香辛料の匂いと魚の腐臭、樽から漏れたラムの甘ったるい香りが入り交じり、喧噪と潮風が渦を巻く。
錆びついた碇が鳴り、帆が音を立てて降ろされると、〈リュシアン号〉は波止場へと寄せられた。ロープが投げられ、船体が軋む。甲板に集まった者たちは、誰もが息を呑んでその瞬間を見守った。
──長かった一ヶ月の航海が、ようやく終わりを告げる。




