第六章⑥ 五人組とフランソワ
岸壁で血の滴る音だけが響く。ベルナルドは片手で地面を押さえ、かろうじて体を支えていた。背中から伝う熱が徐々に痛みへと変わりつつあった。彼のすぐ背後で、マクシムは短剣を握りしめたまま立ち尽くしていた。荒い息を吐きながらも瞳は鋭く、燃えるようにベルナルドを射抜いている。
「……なぜだ。なぜ裏切った?」
ベルナルドは振り向かずに肩をすくめた。血の滲む唇に、かすかな笑みさえ浮かべながら。
「裏切りとは言わん。——選択だ。君には君の信念があったように、俺には俺の道がある」
ベルナルドの言葉を聞いた瞬間、マクシムの目に炎が宿った。短剣を握る手が震える。海風が吹き抜け、彼の制服の裾を荒々しくはためかせた。
「道……?」
マクシムの声は怒りよりも、むしろ深い悲痛に満ちていた。
「お前の道が何を奪ったか、分かっているのか!」
マクシムの叫びが石畳を揺らす。怒号というより、哀しみの叫びに近かった。ベルナルドはゆっくりと顔を上げた。痛みは確かにあるが、それ以上に胸を締めつけるものは懐かしい声と、忘れかけていた感情だった。
「……分かっているさ。奪ったもの、壊したもの。その全部が、俺の背に刻まれている」
一瞬、潮風が吹き抜け、ベルナルドの外套をはためかせた。背中の傷口から血が流れ出し、赤が石畳に滲む。それでも彼の声は揺れなかった。
「それでも、選ばなければならなかった。この国で正しさを語る者ほど、腐敗に気づかない。俺はそれが耐えられなかった」
ベルナルドは目を伏せ、かすかに笑みを浮かべた。
「君がまだ理想を信じているなら、それでいい。けど、俺にはもう信じる理想が残っていない」
ベルナルドの言葉には悔恨も怒りもなかった。すべてを受け入れた人間の静けさだけがある。マクシムの怒声も海のざわめきも、その静けさの中に溶けていく。ベルナルドはしばらく何も言わなかった。痛みを押し殺し、唇にわずかな笑みを浮かべたまま、血の滴る掌を見つめていた。やがて、掠れた声で口を開いた。
「……分かっているさ。誰よりも、痛いほどにな。……だが、マクシミリアン。お前も、いつか同じ選択を迫られる」
マクシムの胸が鋭く疼いた。ベルナルドの声は確信に満ちていた。未来を見通すような響き。
「その時、俺の言葉を思い出せ。正義とは、常にどちらかを切り捨てることだ。誰かを守るためには、誰かを傷つけねばならん。……それが道というものだ」
潮騒が響く。ベルナルドの血が石畳を伝い、黒い海へと落ちていく。その赤はまるで夜明け前の光のように揺らめいていた。マクシムは息を詰まらせた。視界の端で、血に濡れた男の姿がぼやける。
代わりに、まるで幻のように“あの少女”の姿が浮かんだ。痩せこけた腕。破れた靴。怯えた目で、真っ直ぐに自分を見上げていた小さな少女。
ソフィーの名が、心の底で静かに灯る。そして、脳裏に蘇る。
あの日、司令部の重い扉の前で誓った決意、必ず海軍の象徴を討ち、全てを変えると。復讐と庇護、その二つが自分を形作る唯一の支えだった。マクシムの唇が震え、言葉が滲み出る。
「……ふざけるな」
マクシムは血に染まる石畳を睨みつけ、声を荒げる。
「おれは果たさなければならない! どちらか捨てるなんて……おれにはできない!」
ベルナルドは彼の叫びをただ受け止めた。やがて、薄く笑みを浮かべる。それは痛みを含んだ、慈悲にも似た笑みだった。
「……やはり、君はまだ子どもだな」
マクシムの瞳が怒りに閃く。ベルナルドは続ける。
「選べない者は、結局すべてを失う。そうして人は、大人になる」
ベルナルドの声には皮肉よりもむしろ哀しみがあった。まるで、かつての自分自身を見ているかのように。
一方、甲板上は騒然としていた。船員たちは何が起きたのかも分からぬまま、怒号と足音とが錯綜している。誰かが縄を投げ、誰かが帆を巻き上げる。甲板を震わせるその混乱の中心で、ルキフェルは必死に声を張り上げていた。
「待て、まだベルナルドが!」
彼の声は荒波に呑まれ、誰の耳にも届かない。焦燥に駆られ、ルキフェルは舵の方へ駆けようとした時、フランソワの怒声が甲板全体を裂いた。
「船を出せッ! 今すぐだ!!」
彼の声にはもはや議論の余地などなかった。海賊たちは一瞬ためらい、次の瞬間には一斉に動き出す。錨が巻き上げられ、帆が膨らみ、船体が軋む。荒々しい潮風が、まだ何かを訴えようとした。ルキフェルの言葉を掻き消していく。白波を裂き、船はゆっくりと岸を離れ始めた。ルキフェルの胸にぽっかりと穴が空く。
喧騒の中、彼は初めて、自分の手で誰かを置いて行く現実を突きつけられた。
心の奥底でくすぶっていた喪失感が、潮風と共に一気に押し寄せてくる。ルキフェルはフランソワの背中を一瞥すると、フランソワは額に皺を寄せ、眼差しには怒りでも恐怖でもなく、揺るぎない決意と覚悟が宿っていた。長年の航海者として培われた、冷徹とも言えるほどの集中と責任感の色。ルキフェルは彼の背中を見て、頷くしかなかった。その時、コリンの泣き叫ぶ声が甲板を裂く。
「いやだ! 置いてけないよッ!」
ルキフェルは咄嗟に少年の方へ駆け寄った。手足が自然に動き、頭で考えるより先に守るべき対象のもとへ体が走る。胸の奥に渦巻く自分の感情——不安、焦燥、苛立ち、喪失、そして恐怖——全てを押し込めるように、少年の安全を確保することだけに意識を集中させる。甲板の風が二人の間を吹き抜けた。ルキフェルは心の奥で静かに誓った。
——こいつだけは、絶対にこの手で守り抜く。
その頃、ベルナルドは船が離れたのを目視すると、ふらりとよろめきながら立ち上がり、マクシムの方に向き直った。掠れた声で、毅然とした響きで告げる。
「殺すなら、早く殺せ」
マクシムは一歩踏み出し、短く答えた。
「いや、そうはいかない」
その後、ベルナルド・シルバはマクシミリアン・ブーケの手によって無惨に命を奪われた。
甲板の上、胸を一突きされた仲間を見て、マテオは思わず口を開く。
「なんだよあれ……あれが、海軍の戦い方なのか?」
ルキフェルは眉間の皺を少し寄せ、甲板越しに惨状を見渡した。口調は低く、声には武人としての確固たる観察眼が宿っていた。
「違う。あれは、もはや剣士ではない。ただの暴力だ……獲物を弄んでいるだけだ。すぐには死に至らせず、ただ相手を傷つけて苦しめる。それが奴らのやり方だ」
無秩序に広がる惨状を前に、ジャスパーは震える声で呟いた。
「悪魔め……」
普段は飄々と振る舞うジャスパーだが、心の奥底で渦巻く怒りと悔しさが声に迸った。
目の前の光景を許せなかった。これが戦いなのかと疑いたくなるほどの残虐さ。
ルキフェルは冷静に状況を見渡していた。怒りに震えるジャスパーや、硬直した他の仲間たちをよそに、冷徹さと理性を保ちながらも、胸の奥に喪失感と無力感が広がっていた。
ベルナルドの存在の重み、その覚悟、そして今、手の届かない場所に消えたこと。
何かが終わったという感覚。
——自分たちは、ただの傍観者だと痛感させられた。
港は徐々に遠ざかり、船は進む。あの小さな港も、やがて視界から消え去る。
フランソワは甲板の隅から、ゆっくりと五人の方へ近づいてきた。声をかけるべき言葉が見つからず、ただ近くに立つ。それだけが今の彼の精一杯の所作だった。ルキフェルは俯いたまま掠れた声で呟く。
「……守れなかった」
彼の言葉は甲板の風にすぐに解けてしまいそうなほど細く、脆いものだった。だが、続けて口を開いた言葉はもっと重かった。
「俺が何かを守ろうとするたびに、何かを失う。誰かを守るために冷たく突き放したら、その人はどこかへ消えていった。手を差し伸べた矢先に、また奪われた。守るために強くなったはずなのに、意味がない」
ルキフェルの頬を無意識に塩が伝う。
脳裏にはスザンヌのはっきりとした横顔が過ぎる。自分が突き放した、あの日の彼女の背中。
彼は彼女を守るつもりで冷たくしたはずだったのに、結果として傷を深くしたのだと知った痛み。
さらに、ベルナルドの血に濡れた港の光景が押し寄せた。倒れる音、最後に見せたあの諦めにも似た薄い笑み。ルキフェルには自分の無力さの証に思えて、胸が締めつけられる。
フランソワはルキフェルの肩に手を置いた。握る力は強いが、乱暴ではない。彼の掌の重みが伝わると同時に、ルキフェルの身体の奥で堰をしていたものがひび割れていく。
「ルキフェル。——よくやった。お前が動いたから、あいつは逃げる機会を得た。お前のせいじゃない。お前が守れなかったんじゃない、あの状況は誰にだって救えない面があったんだ」
ルキフェルは顔を上げたが、言葉が出なかった。瞳の奥の堤防は崩れ、抑えきれなかった感情が一気に流れ出した。喉の奥で嗚咽がこみ上げ、肩が震える。彼はそのままフランソワの胸に寄りかかるようにして、力なく沈み込んだ。フランソワは腕を広げて彼を受け止めた。周囲の雑踏も仲間たちのざわめきも、遠いもののように感じられる。ルキフェルは顔を埋め、涙を止めることを諦めた。長年溜め続けた後悔と自責が、ようやく出口を見つけたかのように溢れ出す。
「泣け、ルキフェル。泣いていい。悔いて、また前へ進めばいい。おれたちがいる。おれたちが、あいつの分まで。……まずはお前のそばにいる」
フランソワの声は決然としていた。彼の言葉にルキフェルは頷いた。嗚咽は止まらないが、少しずつ呼吸が整い始め、やがてルキフェルは顔を上げた。涙に濡れた頬を指先で押さえ、震える声で言う。
「……分かった。ありがとう、フランソワ。俺は……あいつの分も、失ったものを無駄にしない。次は——次こそは、誰も失わせない」
フランソワは頷き、ルキフェルの背をそっと支えた。やがて、五人組はそれぞれの持ち場に戻っていくが、彼らの足取りには以前とは違う重さと強さが宿っていた。風は変わらず吹き、船は前へ進む。失ったものの重みが、今は彼らを前へ押し出す力になっていた。そんな五人の背を、フランソワはただ見送っていた。
誰もが傷ついていた。誰もが失った。
今、自分にできるのは、彼らの歩みを遮らずに見届けることだけだ。
フランソワは船内へと姿を消すルキフェルの背を目で追いながら、深く息を吐いた。階段を降りる音が遠ざかると同時に、風が頬を撫でる。フランソワが振り返ると、すでに港は霞の彼方に消えかけ、フランスの地がゆっくりと水平線の下に沈んでいくのが見えた。悔しさと怒りが同時に胸を締めつける。
——これで本当に終わってしまったのか。
彼がこの船を旗揚げしたのは、居場所を作るためだけではない。
いつか、あの男——エリオット・レオパードの前に立ち、すべての真実を明かすため。
彼とルキフェルを引き合わせるため。父と子を再び会わせ、失われた時間を取り戻させたかった。だが今、その願いは泡のように潰えた。
国を追われ、帰る場所もなく、ただ海だけが残った。
フランソワは舌打ちし、握り締めた拳から血が滲むほどに力を込めた。
「……レオパードめ。貴様は、自らそのチャンスを潰したんだ」
吐き出された言葉は波に溶けて虚空に消えた。フランソワはしばらく海面を睨みつけ、ゆっくりと顔を上げた。夕陽が彼の輪郭を薄く朱に染め、硬い意志が影のように彼の表情に刻まれる。
「いいさ。俺が守ればいい。海軍相手に刃を振るってでも、俺は逃げた者たちの居場所を作る。ルキフェルたち——あの五人の存在はここから先、決して晒させん。死んでも貫いてやる」
彼の言葉は風に乗り、甲板をひと撫でして戻ってきた。フランソワはゆっくりと甲板を歩いていく。船内へと向かう階段を前に、フランソワは一度だけ空を見上げた。
水平線の向こうに、まだ幾つもの航路が広がっている。
そのすべてを背負う覚悟が、彼の内側で静かに燃え上がった。




