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報復の航路【第二作 ルー・ブレス】1・2巻「誕生編」  作者: セキユズル
第六章「選べない者は、結局すべてを失う。そうして人は、大人になる」
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第六章⑤ 五人組とベルナルド

 ベルナルドは慎重な足取りで、薄暗い路地を早足で進んでいった。


 もうすぐで港が見えてくる。


 焦燥が胸を突き上げ、自然と足の動きが速くなったが、腰に帯びていた短剣がカチャリと小さく鳴った。ベルナルドはその音にふと足を止め、短剣に視線を落とす。


「……これは置いていこう」


 ベルナルドは呟くと、その場で短剣を地面に放り投げた。金属が石畳に当たり、軽い響きてる。落ちた短剣を見下ろしながら、ベルナルドはキッパリと呟く。


「彼らへの信頼のためだ」


 ベルナルドは再び歩を進めた。路地を抜けると視界が開け、港の波打ち際と停泊する船影が目に飛び込んでくる。彼は息を整え、冷たい海風を感じながら港に姿を現した。〈リュシアン号〉はまだ静かに停泊している。波間に揺れる旗、甲板の影、何も変わらず出航の気配はない。


「なんでまだここに?」


 思わず声に出して呟き、ベルナルドは慌てて岸壁へ駆け出した。足音が石畳に反響し、港の静けさを切り裂く。その音を、〈リュシアン号〉の甲板でジャスパーが真っ先に聞きつけた。彼が船縁から身を乗り出すと、駆けてくるベルナルドの姿が目に飛び込む。


「お、ベルナルドがきた!」


 ジャスパーは声を上げ、仲間たちに知らせた。ルキフェルはジャスパーの隣に立ち、眉をひそめつつも港の向こうに浮かぶベルナルドの姿を確認する。俊敏な動き、焦り混じりの足取り、確かにベルナルドが向かってくる。ベルナルドは船の近くまで駆け寄り、息を整えながら叫んだ。


「なんでまだ出発してないんだ! 海軍が来ているぞ!」


 ジャスパーは笑いながら手を上げる。


「ああ、知ってる。鐘の音もよく聞こえたし、花火もよく見えたー!」


 さらにジャスパーはコリンの肩に手を置き、にやりと笑って言った。


「コリンは天才だな。お見事だ」


 ニールは船の縁に身を寄せ、ベルナルドを気遣うように声をかける。


「ベルナルド! 君の方こそ大丈夫なのかい? 海軍の連中に見つかってはいないか」


 ベルナルドは笑い、余裕を見せながら答えた。


「まあ、安心しろ。俺は脱走が得意なんだ。どんな奴の目も掻い潜れる」


 マテオが半ば呆れた口調で突っ込む。


「いや、それ胸張って言えることかよ」


 甲板上に一瞬笑いが広がり、五人組の緊張も少しだけ緩む。ルキフェルは外套のフードで顔を隠したまま、ベルナルドに視線を向ける。


「他の船団はちゃんと旅立ったんだろうな。居残りはいないか?」


 ベルナルドは少し胸を張って答える。


「安心したまえ。全船団が旅立ったのを見計らってから花火を打った」


 ルキフェルはそれを聞いて頷いた。


「そうか、それなら良かった」


 そして、彼はフードの奥で微かに笑みを浮かべるようにして言う。


「フランソワに報告してくる。しばらく待ってろ」


 ルキフェルはそのまま船長室へ向かい、静かに扉を閉めた。フランソワは船長室の窓際に立ち、広がる青い海を眺めていた。ルキフェルはフランソワの背中に向かって声をかける。


「ベルナルドが戻ってきた。港にいた全船団は撤退。残るは俺たちだけ。いつでも号令をかけていいぞ」


 フランソワはゆっくりと振り返った。


「ルキフェル、これから長い航海になるな」


 ルキフェルは肩をすくめ、真剣な眼差しを向ける。


「まだ何も始まってない。海に出てから言え」


 フランソワは少し微笑みながら、懐かしげに言葉を続ける。


「まったく。昔は生意気だったのに、ずいぶん生真面目になったな。そういうところ、ますますアランに似てきた」


 ルキフェルは久しぶりに先導者の名前を聞き、胸の奥が高鳴った。尊敬する指導者に似ていると評されることは、今も自分の心に強く響くが、一方で目に映る水平線の彼方には、この国に対する失望と寂しさが確かにあった。窓の外、波のさざめきを耳にしながら、ルキフェルは静かに呟く。


「俺たち、二度とフランスの地を踏めないんだな」


 フランソワは彼の言葉を受け止め、深く頷く。


「それでも、この航路を進まなきゃいけない。過去を顧みず、今を生きよう」


 ルキフェルはしばしの沈黙の後、力強く頷いた。これから待ち受ける海の試練に向けて、胸の奥に決意の火を灯しながら。フランソワがふと口を開いた。


「今、ベルナルドが来ているのか」


 フランソワはルキフェルの表情を覗き込み、微かに眉を寄せた。


「なにか迷ってるな」


 ルキフェルは目を伏せ、低く呟く。


「いや、ただ……ベルナルドが俺たちにしてくれたこと、そして俺たちの前に現れた覚悟を振り返ると……このまま別れるのは、なんだか割に合わないと思って」


 フランソワは微笑みを浮かべ、少しだけ肩を叩くようにして言う。


「ルキフェル、素直になれ。彼が気になるなら、有耶無耶にしてはいけない。ちゃんと最後まで向き合え」


 続けて、フランソワは職務に関しても言葉を添える。


「それに、船員と人事の管理はお前の仕事だ。お前の手で片付けろ」


 ルキフェルはゆっくりと深く息を吸い、目を上げる。


「……わかった。ちゃんと彼と話してくる」


 そう言うとルキフェルは船長室の扉を押し開け、フランソワも彼の後に続いた。二人が甲板に姿を現すと、ニール、コリン、マテオ、ジャスパーはまだ船の縁に身を乗り出し、ベルナルドと会話を続けていた。岸壁に佇むベルナルドを見下ろしながら、声を掛け合う彼らの様子にはどこか和やかな空気が漂っている。

 ルキフェルは甲板をゆっくりと歩き、マテオの隣にひっそりと佇んだ。ベルナルドはこちらに背を向けて踵を返そうとしたが、また海賊達を見上げながら警告するような声で告げる。


「君たちも早く逃げたまえ。そのうち、海軍もこの場所を見つけるだろう」


 ルキフェルは彼の言葉に内心で悟った。


 ——ああ、彼はここを去るつもりなんだ。


 その瞬間、ジャスパーが軽い笑みを浮かべ、声を掛ける。


「軍医さんよ、何から何までありがとうな」


 ニールも口を開く。


「海軍にも君みたいな人がいたなんてね」


 コリンは手を振りながら、明るく感謝の言葉を乗せた。


「優しくしてくれてありがとうー!」


 ベルナルドは頷き、手を振り返した。彼の目には海賊たちへの温かい思いと、これから待ち受ける危険への覚悟が混ざり合っている。甲板の冷たい空気に突如、マテオの鋭い声が響き渡った。


「なあ、あんた! 仲間に隠れてオレたちに情報を流したんだろ? オレたちは無事でも、あんたは無事じゃ済まないぜ!」


 マテオの声は怒りと苛立ちに満ちていた。襲撃の最中に、自分たちを助けるために行動した相手がいたという事実。感謝よりも先に、焦燥と困惑が彼の胸を支配していた。ベルナルドの答えは冷静で簡潔だった。それが余計に冷たく響く。


「そうだな。もし鉢合わせたら、その時はその時だ」


 ベルナルドは今度こそ踵を返した時、マテオが鋭い声で彼の背を引き留めた。


「じゃあさ、オレたちと一緒に来るか?」


 マテオの言葉に、ベルナルドは思わず立ち止まった。


「……え?」


 ベルナルドの口から言葉にならない驚きがついて出た。彼の胸の奥で、混乱と動揺が入り混じる。自分は海軍に戻り、処罰を受ける覚悟でここにいたが、今目の前にあるのは想定外の選択肢。苛烈な現実の中で、茨に覆われた道が一瞬だけ姿を現した。見えなかったはずの未来が、まるで手招きするかのように差し出される。

 その時、ルキフェルが船縁近くまで歩み寄り、明瞭な声で告げた。


「お前は危険を顧みず、襲撃の情報を俺たちに届けてくれた。フランソワ船長も感謝している。わざわざここに来たということは、海軍組織に不満があるのだろう?」


 ルキフェルは更に身を乗り出し、外套のフードで顔を半分隠したままベルナルドの視線を正面から受け止める。心の中では迷いは一切ない。


 ——ベルナルドを仲間として迎え入れる。もちろん、意思は尊重する。


 甘い誘いなどではない。ここにあるのは、紛れもなく前向きな提案だ。ルキフェルの声が力強く港の風に乗る。


「悪いようにはしない。歓迎するとも。だが選択はお前次第だ」


 ベルナルドの瞳が揺れた。冷静さを保ちながらも、内心では不意に心が揺さぶられた。ここにいる男たちは信頼を置き、未来を託す覚悟を見せている。ベルナルドはその深さに息を呑み、ようやく理解した。


 ルキフェルは脅しや押し付けではなく、真正面から向き合い、未来を提示しているのだということを。マテオの快活な笑顔が恐怖を一瞬だけ和らげ、ルキフェルの落ち着いた声が迷いを抑え、選択を尊重する力強さとして胸に響いた。ベルナルドは息を整え、心の奥でざわめく感情を押さえながらも思わず唇を噛む。茨の間に隠れていた自分の意志が、少しずつ前に出るのを感じる。


 もしかしたら……ここに、自分の居場所があるかもしれない。


 ベルナルドの瞳が微かに揺れた。警戒と期待、迷いと希望が入り混じる瞬間だった。

 その時、ジャスパーの視界の端で何かが揺れた。ベルナルドから目を逸らし、港の暗がりを捉える。


「——ッ!」


 ジャスパーが叫ぶよりも早く、黒い影が路地を抜けて一直線に駆け込んできた。


「俺は——」


 ベルナルドが言いかけた瞬間、背中のあたりで何かが布を裂くような音を立てた。同時に、硬いものが肉の奥にねじ込まれるような衝撃が走る。肺の奥から勝手に息が漏れた。熱い。いや、焼けるように熱いものが背骨の近くを走り抜け、腹の方へ抜けた気がした。足が一歩、勝手に前へ出た。空気が重い。喉が閉じる。自分の体が、自分のものじゃないように揺れていた。何が起きたのか理解できず、反射的に振り返ろうとした途端、胸の奥で鈍い音がした。音のない世界の中で、ジャスパーの声だけが遠く響いた。


「ベルナルドーッ!」


 甲板に悲鳴が走る。最初に声を上げたのはコリンだった。彼は船の縁に身を乗り出し、目の前の光景に凍りついたように息を呑んでいた。彼の肩を、ルキフェルの腕が素早く掴むと何の躊躇いもなくコリンを自分の胸へと引き寄せ、視界を遮るように抱きしめた。


「見るな」


 ルキフェルはコリンの頭を胸に押し付けながら告げた。


「俺の側から離れるな」


 甲板の上では一瞬、時間が凍りついたような沈黙が流れた瞬間、堰を切ったように誰かが叫ぶ。


「ベルナルド!」


 ニールの声だった。甲板の縁へ駆け寄ろうとした彼の肩を、マテオがすかさず掴み、強く引き止めた。


「待て、ニール!」


 マテオの声には焦燥と恐怖が混じっていた。ルキフェルは抱きしめていたコリンをそっと背後に下がらせ、鋭く辺りを見渡した。彼の視線が一瞬たりとも止まらない。冷徹に、的確に、影の揺らぎを追う。


「——襲撃者を確認しろ」


 ルキフェルの低い命令に空気が震える。最初に応えたのはジャスパーだ。甲板の端に駆け寄り、身を乗り出して港の影を睨みつけると息を呑んで叫んだ。


「紺色の服……! あいつ、海軍だ!」


 一方、ベルナルドの視界の端で海賊たちの姿が揺れ動く。ベルナルドは唇を震わせた。声にならない。背を伝ってぬるいものが滲み出し、服の内側を這い下りていく。その直後、肉を裂いて抜ける湿った音が響いた。背中の奥に残っていた異物が、一気に引き抜かれ、刃が離れると同時に熱いものがどっとあふれ出す。ベルナルドの膝が砕けるように折れ、石畳に手をついた。冷たい海風が濡れた背中を撫でた。その瞬間、ようやく痛みがやってきた。遅れて訪れた激痛が、背骨から喉の奥までを焼く。肺が震え、息が止まるが、ベルナルドの口元にはうっすらとした笑みが浮かんでいた。


 ——そうだ。……俺はずっと待っていたんだ。


 自分の視界がにじむ中、ベルナルドは嗤うように呟いた。


「……やっぱり来たか……」


 彼の声に応じるように、ベルナルドの背後に立つ男の荒い呼吸が空気を震わせた。短剣を握る手が血に濡れている。


 夕暮れが照らしたその顔、マクシミリアン・ブーケ。


彼の瞳は氷のように冷たく、ベルナルドの背中を真っ直ぐに射抜いていた。

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