第六章② フランソワ船団
「……だああああああああああああ疲れたぁぁぁぁぁ……!」
船長室に戻るなり、フランソワはドアを乱暴に閉め、おぼつかない足取りで椅子に向かうと背に凭れた。ぐったりと両腕を投げ出し、天井を仰いで大きく息を吐く。彼の帰りを待ち構えていた五人組は目をぱちくりさせた。
「……ああもう、なんでこんなに人って多いんだ……あの場で三回も同じ説明したぞ……」
さっきまで港で全船団を束ねた男——あの威圧感とカリスマ性は、跡形もなく吹き飛んでいた。彼の様子を見たルキフェルは思わず苦笑を漏らし、ジャスパーは腹を抱えてケタケタ笑い、マテオは口をぽかんと開けたまま固まっている。ニールとコリンも顔を見合わせ、目を丸くしていた。
「……あれがさっきの総代表か?」
マテオの言葉に、ニールが苦笑する。
「え、ええっと……多分、同じ人……のはず……」
室内には、しばし気の抜けた笑いが広がった。フランソワは腕を組み、片目だけ開けて呟いた。
「見せもんは終わりだ。今くらいは、疲れたって言わせてくれ」
そう言って、フランソワは椅子の背に再びぐったりと沈み込んだ。ルキフェルは、そんなフランソワを見て口の端をゆるく上げる。
「フランソワ、今の姿をマルクに見せたら仰天するだろうな」
フランソワは片目だけ開けてルキフェルを睨むように見上げて言い返した。
「俺だって人間だぞ〜? 重圧に耐えきれんことだってある」
彼の情けない声に、ジャスパーが吹き出した。
「それでもちゃんとやり遂げちまうのが、うちの船長のすごいところだけどな」
「や、やめろやめろ! 今だけは船長って呼ぶな!」
フランソワは両耳を押さえ、椅子の上で身をよじった。
「胃が、胃が痛むっ! 今はただの疲れた男にしておいてくれぇぇ!」
「らしくないなあ」
ルキフェルが肩をすくめると、ジャスパーは机に腰を乗せて笑いながら続けた。
「子どもが駄々こねてるみたいだぜ、親父」
「誰が親父だ!」
フランソワが机を叩いて立ち上がるが、すぐに「……いや、やっぱ立つとしんどい」と言ってまた座り込んだ。ルキフェルとジャスパーは顔を見合わせ、堪えきれずに笑い声を上げる。
「まったく、困った大人だよな」
「だが、こういう時のフランソワを見ると少し安心する」
「何を勝手に納得してるんだお前ら!」
そう言いながらもフランソワの声にはもう怒気もなく、どこか家族のような温もりが漂っていた。三人の賑やかなやり取りを、少し離れた場所から眺めていたマテオがぽつりと呟いた。
「なんていうか……やっぱ、こいつら付き合い長いんだな」
するとジャスパーがくるりと振り返り、にやりと笑った。
「マテオ。もしかして拗ねてんのか?」
「拗ねてねーよ!」
マテオは即座に噛みつくように叫び、顔を真っ赤にする。
「うわ、図星だ」
「うるせぇっつってんだろ!」
ニールがゆるく笑いながら口を開いた。
「でもさ……いいよね、こういうの。僕さ、血のつながりがない家族って初めて見た」
コリンがそっとルキフェルの方へ歩み寄る。ルキフェルは彼に気づくと、いつもの癖で「ん? どうした」と言いながら、優しく頭に手を伸ばしたが、コリンは彼の手を軽く払って、むすっとした顔で言う。
「そういうことじゃないんだけど」
「はは、またそれか」
ルキフェルが苦笑する。
「もうそれ、わざとでしょ?」
コリンが頬を膨らませるように言うと、ルキフェルは少し困ったように目を細めた。
「すまない。ただ……どうしても手が出てしまうんだよな」
コリンはわずかに頬を赤らめ、視線を逸らした。ルキフェルは笑い、船長室の窓から差し込む朝の光を見上げる。五人の他愛もないやり取りは、しばらく止む気配を見せなかった。ジャスパーがマテオの髪をわざとぐしゃぐしゃにして怒鳴られ、ニールがそれを笑い、コリンが「もう子どもかよ」と呆れた声を出す。その喧噪の中でフランソワは船長椅子に深く腰を下ろし、腕を組んで天井を仰いだ。
「……お前ら、騒ぐなら外で騒げ。俺は寝たいんだ」
ルキフェルは笑いを収めて真顔に戻ると口を開いた。
「悪いけどさ、フランソワ。そういうわけにはいかないんだ」
フランソワがうっすらと目を開け、眉を上げる。
「……どういう意味だ?」
「昨夜、ベルナルドが教えてくれたんだ。そこの桟橋を抜けて、狭い路地をまっすぐ行った先に小さな港がある」
「港?」
ルキフェルの言葉に、フランソワの瞳が一瞬で冴え渡る。ルキフェルは続ける。
「ああ。ベルナルドが言うには、そこは補給線の穴だってさ。リュシアン号はそこで身を隠した方がいいって」
沈黙のあと、フランソワは肘掛けに置いた手を外した。
「おい、それなら話が変わってくるぞ」
彼は身を乗り出し、真剣な眼差しでルキフェルを見据える。
「ベルナルドは、他に何と言っていた?」
ルキフェルは頷き、昨夜ベルナルドから聞いたすべてを順に語り始めた。港の構造、補給船の出入り、海軍の動き、そして旧ブルボン派の影。話を聞きながら、フランソワの表情は次第に険しく、鋭さを帯びていく。彼の瞳には、再び海賊団の総代表としての光が戻りつつあった。フランソワはしばらく黙考したのち、深く息を吐く。
「海軍は……陸路で来るのか」
フランソワは呟きながら立ち上がり、窓辺へと歩み寄る。外には薄明の光を受けて輝く水平線が見えた。
「なら、逃走ルートは航路のみだ。やはり全船団を出航させる必要がある」
彼の瞳には計算と決意が混ざり合っていたが次の瞬間、彼の声は少し柔らかくなる。
「政治の話は正直よくわからん。だが、海軍が俺たち……いや、俺を狙っていることは理解した」
フランソワは窓の外を見つめたまま、苦笑を浮かべた。
「俺としちゃ、国に尽くしてたつもりなんだがな。……いつの間にか、変な陰謀に巻き込まれていたみたいだ」
彼の言葉に、ルキフェルの眉が僅かに動く。
「だから貴族連中には腹が立つんだ。今までの交流はなんだったんだよ」
フランソワは彼の言葉に肩をすくめ、振り返ってゆっくりと言った。
「ルキフェル、あいつらをあまり悪く言うな」
フランソワの口調には、どこか懐かしむような響きがあった。そして、少し間を置いてから続ける。
「特に……コルヴァンのことは」
ルキフェルは言葉を失い、唇を結んだ。部屋の中には、潮騒と船体の軋む音だけが静かに満ちていく。
「コルヴァンって、誰?」
コリンが小首を傾げながら尋ねると、マテオが腕を組んでぼそりと呟いた。
「伝説の情報屋……だろ」
マテオの声には、どこか沈んだ響きがあった。彼の脳裏に、かつて暗殺者として生きていた時代の記憶がちらつく。闇の世界で囁かれる名、コルヴァン。どんな国の諜報部も一目置くほどの影の存在。
「お、マテオも知ってるんだ」
ジャスパーがニヤリと笑い、ニールとコリンのほうを見やる。
「コルヴァンってのは、裏社会じゃ名の知れた奴だよ。噂じゃ、どんな密約もどんな裏取引も、一夜で暴いてみせたって言われてる」
ジャスパーはフランソワを一瞥しながら続けた。
「そのコルヴァンは、フランソワ船団の旗揚げメンバーのひとりだったんだ。何年か前まで、おれたちと同じ船で暮らしてた」
ニールが感心したようにルキフェルに訊く。
「その人、今どうしてるの?」
「さあな。あの人も貴族になった。船を去って以来、連絡をとっていない。別にいいさ、去るもの追わずってやつだ」
「そんなことあるんだね」
ニールが目を丸くし、ジャスパーが口を挟んできた。
「ちなみに、コルヴァンって名前はあくまで通名さ」
「もしかして、世襲制?」
「……コリン、なんでそんな言葉を知ってるんだ」
ジャスパーが珍しく怪訝な顔をした。首を傾げて彼を見上げるコリンを横目に、ルキフェルは気を取り直して説明を続ける。
「そうだ。本名は別にあって、彼自身は十四代目。情報のやり取りに、ワタリガラスを使うらしい」
「コルヴァン、ワタリガラス……なるほどねえ」
ニールはどこか懐かしそうに呟いた。彼の声音には、遠い昔の物語を思い出すような柔らかさがあった。フランソワはふと昔話に口元を緩めかけたが、すぐに自分でそれを叩き消したように顔を引き締めると、机の上を強くひとつ叩いた。木の衝撃音が静かな船室に響き、周囲の笑い声は一瞬で消えた。
「いかんいかん。昔話は今夜の酒の肴にとっておくさ!」
フランソワは掌に走る痛みを振りほどくようにして、手を振りながら続ける。
「海軍が俺を標的にしているってんなら、直ちにリュシアン号をあの小さな港へ移動させる。隠れられる場所で身を潜めるんだ。陸路からの攻撃なら、俺たちは航路でしか逃げられん」
フランソワは皆を見渡して、深く息を吐いた。
「各々、準備を始めろ。ルキフェル、お前は俺に代わって船団代表だ。投票は終わったが、今は行動が先。ジャスパー、伝令を仕立てろ。マテオ、補給と武装の点検。ニール、潮路を最終確認してくれ。コリン、お前はマスト周りや索具の小修繕を手伝え。ベルナルドの言った通り、そこに身を隠すんだ」
皆が口々に「了解だ」「任せろ」と応える。ルキフェルはフランソワの瞳を見据え、頷いた。窓の外、水平線は穏やかに揺れているが、その静けさの裏には緊迫した秒針が刻まれているのだと、彼らはひしと感じ取っていた。
昼下がりの甲板。穏やかな陽光が帆や木甲板を淡く照らす中、ルキフェルはいつものように外套を羽織り、フードで顔を隠して立っていた。
「その樽は重すぎる。左舷の下甲板に移動させろ。積荷の重心を崩すな」
ルキフェルは声を張りすぎず、明瞭に指示を出す。手に持ったリストを一瞥しながら、次々と荷役の指示を飛ばしていった。
「帆布袋は乾燥した状態で甲板下に収納。湿気の多い場所には置くな。穀物と塩漬け肉は別々にまとめろ」
作業する船員たちは彼の声に従い、甲板上を忙しく動き回る。ルキフェルはマテオの方に目を向け、手元の航路図と積載リストを照らし合わせた。
「トルチュ島までの航路と予想所要日数だが、食料はあと二日分余裕を持たせろ。水の備蓄も同じだ。マテオ、補充できるか?」
「ああ、問題ない。追加で水樽五つ、乾パン二箱、薬箱は三つ分用意できる」
「よし、じゃあそれを誰か積載リストに組み込め。順番は変えず、重心を考慮しろ。特に下甲板は船の安定に直結する」
ルキフェルは船員たちの手元をチェックしながら、必要に応じて細かく指示を飛ばす。
「医薬品は上甲板近く、すぐ手が届く場所にまとめろ。火器や弾薬は乾燥状態を維持して保管。弾丸は左右均等に分けろ。マテオ、見張り用の食料と水も準備しておけ。航路途中での予備食材として、最低三日分確保しろ」
マテオが頷き、再び甲板下の倉庫に向かった。ルキフェルは最後に甲板をぐるりと見渡し、手元のリストに目を落とす。
「よし、これで主要な積載物資は整理完了。各員、配置確認と補充漏れがないか最終チェックをして報告しろ」
船員たちは整然と動き、甲板には緊張感と秩序が漂ったまま午後の光が船を包み込んでいた。甲板の隅ではニールが二等航海士に身を寄せて、分厚い航路図と計算用の羅針盤を前に身を乗り出していた。
「この潮流の影響を考慮すると、港を出てから最初の三日間での平均速度はこれくらい……なるほど、こうやって計算するんだね」
二等航海士が指先で航路図上の線を辿り、潮流や風向きを示す矢印を指しながら説明する。ニールは目を輝かせ、熱心にメモを取る。
「じゃあ、この条件だと出航予定日から逆算して食料の余裕はどうなるの?」
ニールが質問すると、二等航海士は少し微笑んで答える。
「計算次第で変わるが、十分な備蓄を想定しておけば問題ない。必要なら余剰分も考慮に入れるんだ」
一方、甲板の別の隅ではコリンが索具の小さな修繕に取り組んでいた。摩耗したロープの端を丁寧に編み直し、滑車の軸に油をさす。彼の手つきは慎重かつ正確で、時折甲板上の様子を確認しながら作業を進める。
「ここが少し緩んでる……締め直そ」
小さな声でつぶやき、指先で確かめながら結び目を整える。風に揺れる帆の音、甲板に打ち付ける波の音が彼の周囲に静かなリズムを刻んでいた。ニールが航路計算のノートを閉じると、少し息を吐いてルキフェルの方に近づいた。
「ルキフェル、初期計算が終わったよ。予想航路と所要日数はリスト通りだと思う。食料と水も、余裕を持たせた備蓄が可能だ」
ルキフェルはフードを少し下ろし、目を細めてノートを覗き込む。
「うむ。問題ないが、念のために航海途中での潮流や天候の変化を加味して、余剰分も確保しておけ」
ニールは頷き、再度計算表を見直す。
「了解。必要があれば追加で物資を積む方向で手配するよ」
コリンも作業を終え、帆や索具の状況を整理しながらマテオに近づいた。
「マテオ。この索具、修繕おわった。滑車も油をさして回転が軽くなったよ」
マテオは頷き、手元の積載リストをコリンに音読させて頭の中で照合する。
「よし、航路上で問題なく帆が扱えるな。ルキフェルにも報告しておけ」
コリンは頷くと、ルキフェルに近づいて報告した。
「ルキフェル、甲板の索具類は確認済み。問題なしです」
ルキフェルは軽く手を掲げ、目を鋭く船員たちに向ける。
「よし、皆の準備は順調だ。ニールは航海計算を再確認、必要物資の再点検を忘れるな。コリンは索具の状態を随時チェックしろ。マテオは積荷の管理を引き続き監督する」
三人は軽く頷き合い、再び自分の任務に戻る。ルキフェルは甲板の端から端までを静かに巡回した。帆の状態、索具の張り、積荷の固定具合、そして船員たちの作業ぶりまで細かく目を配る。時折、声をかけながら動作を確認した。
「滑車の角度、もう一度見ろ。荷物の固定は確実か? 帆の結び目、緩んでないな。よし、次はそっちだ」
巡回を終え、甲板中央に立ち止まったルキフェルは船員たちにゆっくりと視線を向ける。
「これでいつでも出発できるが、今回ばかりは俺の指示で船を出すわけにはいかん。他の船団の動きも確認して、あくまで総代表のフランソワの号令で船を出す。いいな?」
船員たちは互いに目を合わせ、頷きながら応答する。甲板上に緊張と集中が満ち、ルキフェルは小さく息を吐いて出航の瞬間に備える心構えを整えた。ちょうどその時、伝令に出かけていたジャスパーと数名の船員たちが甲板に戻ってきた。ジャスパーは息を切らしながらも、胸を張って言った。
「情報共有は完了だ。ただ、みんな準備に時間がかかってる。これじゃ、出航のタイミングが海軍の襲撃とモロ被りになるぜ」
ルキフェルは思わず額に手を当てた。甲板に張り詰めていた空気が、緊張と焦りで一層重くなるが、ルキフェルは数秒の深呼吸の後、冷静さを取り戻し、船員たちに向かって告げた。
「今夜、この船を別の港に移動させる。いつでも船を動かせるように、全員準備しておけ」
船員たちは一瞬戸惑い、互いに目を合わせたが、ルキフェルの鋭い眼差しと指示の確実さに押されて、黙って作業に戻っていく。ルキフェルは深く息を吐き、ジャスパーと目を合わせた。
「ジャスパー、今夜の操舵はお前だ。俺も船に残る。マテオとニール、それにコリンは先にあの港に向かえ。松明を燃やして、俺たちに場所を示すんだ」
コリンは目を輝かせて、にこにこと言った。
「あ、今日は火を出してもいいんだね!」
ルキフェルは少し苦笑しながらも真剣な声で続ける。
「馬鹿言うな。燃やすのは目印だけだ。俺たちはその灯りを頼りに移動する」
コリンは少しだけ表情を引き締め、慎重に頷いた。




