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報復の航路【第二作 ルー・ブレス】1・2巻「誕生編」  作者: セキユズル
第六章「選べない者は、結局すべてを失う。そうして人は、大人になる」
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第六章① 投票

 夜明け前の冷たい空気が、港の広場を静かに包んでいた。


 ルキフェルは麻の白いシャツを腕まくりし、襟を整え、腰に赤いサッシュを巻くが、その姿を鏡で確かめはしなかった。鏡など必要ない、威厳は自分の背中と歩き方に宿ると彼は思っている。彼の視線は机の上に置かれた小さな貝殻に落ちた。手に取り、指先で軽く転がす。海の匂いと、過ぎ去った日々の記憶が微かに胸を揺さぶった。彼は貝殻を胸に抱え、静かに自室を出る。


 廊下を歩き、階段を上がり、甲板に足を踏み出した。見張りの青年がちょうど寝に行くところだったらしい。彼はルキフェルの顔を見て目を見開くが、恐ろしい傷だらけの顔に圧倒されるより前に、軽く「ああ、お疲れ様でーす」と挨拶し、脇をすり抜けていった。ルキフェルのフードの奥をはっきり見た者は少ない。それでも、恐怖は無意識のうちに伝わるのだろう。ルキフェルは苦々しく思うが、それ以上に仲間たちを考えると気が引き締まった。手の中の貝殻を見つめ、深く息を吸い込む。

 決意は固まった。港の広場へ、仲間たちと投票という運命の瞬間に向かうため、ルキフェルはゆっくりと歩き出した。



 朝日が港の水面を黄金色に染める頃、広場には静かな緊張感が漂っていた。海風が帆を揺らす音、波のさざめき、遠くで鳴る鐘の余韻が港の広場を包む。人々の視線は自然と中央の帆布に集まっていた。帆布の上には三つの印が置かれ、小さな切り株が「フランソワ」、平たい皿が「保留」、そしてもう一つの切り株が「マルク」の名を示していた。そこへ各船団の船長たちが小石や貝殻、刻印入りの木片を手に歩み出る。年若い船長が帆布を叩き、声を張った。


「こっちがフランソワ。こっちがマルクだ。順に置け」


 最初に進み出た年長の船長が、手のひらいっぱいの平たい石をそっと「フランソワ」の印の上に置いた。


「俺は行く。若ぇもんはどうだ?」


 次々に石と貝殻が積まれていく。海風で帆布がわずかに揺れ、そのたびにカチリという乾いた音が響いた。やがて、フランソワ船団の番が回ってきた。


「次。フランソワ船団」


 年若い船長の声に、ルキフェルは一歩前へ出た瞬間、広場の空気がわずかにざわつく。


 ——ああ。やっぱり、怖いんだ。


 久々に公の場へ晒された傷だらけの顔。向けられる視線が皮膚を刺すように感じられる。足がほんの一瞬、竦みかけた。すれ違いざま、どこかの船団の船長が耳元で囁く。


「お前……フランソワのとこのやつか?」


 ルキフェルが返事をする間もなく、船長の視線が向けられる。


「いい面構えだな」


 褒め言葉なのか、牽制なのか。判断する余裕はなかった。心臓がやけに大きな音を立て始める。帆布の目の前に立った瞬間、息が浅くなった。視線。視線。視線。あらゆる方向から注がれるそれに、胸が締めつけられた。


 ——まずい。このままじゃ……。


 遠くでフランソワが腕を組んだまま、じっとこちらを見ている。異変には気づいているが、助けには来られない。候補者として代表を立たせた以上、黙って見守るしかない。


「……おい、坊主」


 不意に軽い声が飛んだ。投票を取りまとめている年若い船長だった。自分も若いくせに、妙に場慣れした口調で言う。


「何を悩んでる? ちゃんと船団で話し合ったんだろ」


 ルキフェルははっと顔を上げ、背筋を強引に伸ばした。


「……はい」


 ルキフェルの声は掠れていたが届いた。その直後にマルクが鼻で笑う。


「なんだ、それが代表か? ビクビクして……ただのガキじゃねえか」


 ざわり、と空気が揺れる。


「なあ、小僧」


 最初に石を置いた、あの年長の船長が口を開いた。彼はゆっくりと近づき、ルキフェルを一度、上から下まで眺める。


「その格好、イカしてんな」


 年長船長の唐突な言葉に、ルキフェルは瞬いた。


「特に……そのサッシュだ。腰に巻いてる、赤いやつ」


 年長船長は無意識に腰元の布に視線を落とした。垂れ下がる、くすんだ赤。


「海賊は派手なのが多いがな」


 年長船長は肩をすくめる。


「お前のは、派手すぎなくていい。血みたいな色だが……悪くねえ」


 彼は一瞬、間を置いてから低く続けた。


「赤はな、覚悟の色だ。引き返さねえって決めたやつだけが、身につける色だ」


 年長船長はルキフェルの背に軽く手を置く。


「代表なら、堂々としてろ」


 ぽん、と背中を押された。大した力じゃないが、前へ進ませる一押しだった。

 ルキフェルは深く息を吸い、吐く。まだ震える手で貝殻を握り直し、帆布の上の、「フランソワ」の名の下へ慎重に貝殻を置いた。カチリ。彼が初めて海賊として立った合図のように港に響いた。

 ルキフェルは代表として深く一礼して退く。緊張で汗の滲む手が、無意識に赤い布を握りしめていた。


 やがて、すべての船長が石を置き終えると、帆布の上の投票結果が明らかになる。年若い船長が腕を伸ばし、積まれた石の数を声に出して数える。


「フランソワ十五、マルク七、保留二……多数決で、フランソワが全船団の総代表とする!」


 歓声が小さな波のように起こり、船員たちは互いに拳を突き合わせて喜びを分かち合う。


「やったな、フランソワ!」

「これで全船団がまとまる!」


 一方でマルクの支持者たちは唇をかみ、俯いたままゆっくりと石を拾い上げた。数名が小さく舌打ちをしたり、肩をすくめたりするが、混乱は起こらない。全員が決定を受け入れるしかないことを理解していた。ルキフェルは帆布の端に立ち、小さな石や貝殻の山を見下ろしながら、胸の中でフランソワの勝利を静かに噛み締める。ルキフェルの隣に立つマテオが彼の肩を叩き、笑い混じりに呟いた。


「これで安心だ。お前の顔、みんなに見せる甲斐があったな」


 ニールとコリンも互いに目を合わせ、微笑を交わす。ジャスパーは外套をルキフェルの肩にかけて呟く。


「これで全船団が一つになる。あとは……準備だけだな」

「ああ、俺たちはやるべきことをやるだけさ」


 ルキフェルのフードを下ろした顔には緊張と覚悟が入り混じり、彼自身の決意を象徴していた。フランソワは帆布の中央に立ち、勝利の余韻に包まれながらも、群衆に目を走らせる。歓声の中に混ざる緊張感や期待をしっかりと見据え、これから起こる試練の大きさを心の中で確認した。

 広場のざわめきが冷めやらぬ中、マルクの周囲には彼の部下たちが自然と集まり始めた。斧を背にした男の顔は強張り、部下たちの声は次第に怒号へと変わっていく。


「船長に相応しくないなら追い出せ!」


 古の掟を持ち出して、勢いはマルクを追い詰める。潮風に混じる怒声が、広場の空気を一層重くした時、フランソワが一歩前に出た。


「待て」


 彼の声は穏やかだが張りがあり、雑然とした群衆を自然と静めていく。怒りに震える腕も、マルクの部下たちの視線も、フランソワの声に止められた。フランソワは懐に手を入れ、古びた聖書を取り出した。擦り切れた革表紙に光が反射する。彼はそれを掲げ、周囲の船長たちをゆっくりと見渡すと口を開いた。


「皆の投票により、俺は全船団の総代表となった。が、一つ明確にしておきたいことがある」


 彼の声は広場の隅々まで届き、やがて人々の息遣いが整っていく。


「まず、俺は自分の船で定められた海賊の掟を、お前たち他船団に押し付けたりはしない。掟は掟。各船のやり方があって然るべきだ。掟に関しては、各船団のクォーターマスターによって定められたものとせよ」


 ざわめきがひとつ、ふたつと消え、顔を上げる者が増える。フランソワは続ける。


「総代表の任期は、撤退完了までだ。その後は、お前たち各自が好きに行動して構わない。俺の目的はひとつ、この街から皆で脱出することだ。それが果たされれば、俺の役目は終わる」


 彼の言葉には迷いがない。だがその目は、盲目的な独裁を意味してはおらず、短期の責務を冷徹に引き受ける覚悟を帯びていた。フランソワは少しだけ声を落とし、強く訴えた。


「今は誰も見捨てはしない。たとえ投票で敗れた者がいようと、今だけはどうか俺の願いを聞いてほしい。今は一つになって脱出する時。争いは、街を出てからでもできる」


 重苦しい沈黙がほんの一瞬流れる。やがて、マルクの部下たちの中から小さな唸りが上がり、次第に声は静まった。怒りに満ちた視線がマルクへ、そしてフランソワへと行き来する。マルク自身もまた額にしわを寄せながらフランソワの言葉を受け止めていた。フランソワはマルクに一歩近づき、言葉を添える。


「マルクにも役目がある。お前はお前の船を率いてくれ。それで充分だ」


 フランソワの言葉に追放を叫んでいた者の声が徐々に収まり、やがて沈黙が場を満たした。マルクの顔は複雑な表情へと変わり、やがて彼はゆっくりと頷く。部下たちもまた肩を竦め、渋々ではあるが幹事の指示を受け入れる気色を見せる。フランソワは聖書を懐に収め、広場を見回した。そこには怒りも恐怖もあるが、同時に一瞬の結束が生まれている。

 脱出という共通の目的のために、彼らは今、互いの違いを脇に置くことを選んだ。

 ルキフェルはその光景を、フードの陰で見つめていた。フランソワは顔を上げ、声の奥に鋭さを混ぜて言う。


「マルク・ドイチュ船団のクォーター・マスターに告げる。今は何を優先すべきか、慎重に考えろ。秩序と人命が最優先だ。無闇に突っ込んで仲間を失うな」


 広場の片隅から年季の入った顔つきの男が片手をゆっくりと挙げた。潮に焼けた腕、油の匂いが染みついた外套。彼の手つきが合図のように場の空気を引き締め、周囲の船長たちも頷いて賛同の色を見せた。フランソワは再び広場を見渡し、言葉を続ける。


「これから直ちに出航準備に入れ。ただし、トルチュ島へ向かう船団は慌てることはない。必要な物資とこれからの航路をきちんと見定めよ。長い旅路になる。備えを怠るな」


 フランソワは最後に一度だけ大きく息を吐き、簡潔に告げた。


「それでは、解散」


 彼の声に従い、各船団はぱらぱらと動き出す。掲げられた帆柱の影を背に、年若い者は駆け、年老いた者は手早く命綱や袋を点検する。ロープを手繰る音、鉄具を鳴らす音、命綱を結び直す低いうめき声。港はたちまち準備の喧騒に包まれた。恐怖の色を残す者、覚悟を固めた者、家族を思う者。それぞれが自分のやるべきことを思い出し、動き始める。各船団のリーダーの声に合わせて大勢が動き、広場は次第に人影を失っていった。帆が揚げられ、縄が締められ、船は出航準備を整える。


 潮の匂いとともに、彼らの決意と不安が夜明けの風に混じって波間へと流れていった。


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