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報復の航路【第二作 ルー・ブレス】1・2巻「誕生編」  作者: セキユズル
第五章「これは、逃げじゃない。——“選択”だ」
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第五章④ 五人組とフランソワとベルナルド

 船長室の空気が一瞬で凍りついた。燭台の炎がゆらりと波打ち、壁に映る影が不規則に踊る。ベルナルドは椅子に腰を下ろしたまま、紺色の海軍服の肩章をぎりぎりと見せつけるようにして静かに息を吐いた。外套を脱いだ腕が思いのほか細く見えたが、眼差しには強度が宿っている。フランソワがまず口を開いた。声は平静を装っているが、わずかに針のような緊張が混ざっていた。


「それで? 普段はブレストに居る軍医さんが、何しにサン・マロへ」


 ベルナルドはフランソワを見据え、慎重に言葉を選ぶように口を開いた。


「警告に来たんだ。君たちに、早く知らせたくて」


 部屋の温度が一段と冷たくなる。ベルナルドは続けた。声は低く、確信を含んで。


「近いうちに、海軍が討伐部隊を率いてこの街を襲いにくる。——この街から海賊を一掃するつもりだ」


 彼の言葉が落ちると同時に、船長室の中のあらゆる音が消えたように感じられた。フランソワの顔に計算するような影が差した。


「根拠は?」


 ベルナルドは視線を落とさず、静かに答える。


「王室の意向だ。新たな命令が下りている。規模は小手先の掃討ではなく、徹底的な軍事行動だ、と。海軍は準備を進めている。早ければ五日のうちに動く可能性が高い」


 ルキフェルの胸が締めつけられた。昨夜聞いた“私掠免状剥奪”の報が、ここで現実の軍事行動へと直結しようとしていることを、彼は直感で理解した。マテオが手早く目を泳がせて口を挟んだ。


「ちょっと待てよ。駐在してた海軍のやつは、七日間の猶予を与えるって言ってたんだろ? 話が違うじゃねえか」


 ジャスパーが薄く笑って首を振る。


「罠だろ、あれ。猶予って言葉は油断を生むための餌。そんで腹にナイフを突き立てるつもりさ」


 ルキフェルが鋭く割って入る。


「根拠は?」


 ジャスパーは肩をすくめて一言。


「勘だ」


 ルキフェルは諦めたようにため息を吐いた。


「……じゃあ、そうなんだろうな」


 そのやり取りの直後、ベルナルドが息を吸い込み、視線を巡らせた。紺の制服が蝋燭の光で鈍く光る。


「君たちの勘は当たっている。うちの部隊にも、『一掃せよ』と命令が下った。おそらく、命を受けた全部隊が同日行動するだろう」


 ベルナルドは続ける。言葉には冷徹さと医師としての哀惜が混ざっていた。


「海軍の上層部は本気だ。君たち海賊を殲滅するつもりだ。うちのモットーは『海賊撲滅』なんだ」


 ルキフェルは震える声で問いかけた。


「フランソワ……俺たち、一体どうすれば……?」


 フランソワはしばらく黙って天井の梁を見つめ、頭の中で地図と人員と時間を素早く動かしていた。やがて、フランソワの顔に決意の色が差すと一言だけ吐き出した。


「よし、逃げよう」


 室内が一瞬で凍りつく。ルキフェルは「逃げる?」と呟き、マテオは思わず前のめりになって訊いた。


「逃げるって、戦うんじゃないのか?」


 フランソワは静かに言った。


「落ち着け。俺に考えがある」


 蝋燭の光が揺れる中でフランソワは顎に手を当て、ゆっくりと口を開いた。


「ここで正面きって戦っても勝ち目は薄い。港は入り組んでる、地形は海軍の射線に有利だ。数の上でも、装備の上でも、彼らに一網打尽にされかねない。サン・マロでの決戦は、袋の鼠を叩くようなものだ。——それで何が得られる?」


 フランソワはさらに続けた。


「戦って散るか、命を残して戦力として再起するか。選ぶべきは後者だ。逃げるなら行き先を間違えるな。——トルチュ島だ。大西洋を渡った先、あそこは海賊の楽園。国家の手が及びにくく、同士の受け入れもある。そこで立て直して、また自由に動ける力を蓄えよう」

「トルチュ島か……」


 ルキフェルは地名を呟き、胸の奥で何かがざわついた。トルチュ島。伝説めいた響きが、彼の中にある希望と現実の間に小さな光を落とす。マテオが唇を噛んで、問い返すように言った。


「大西洋を横断するって、簡単に言うなよ。物資もいる、船の準備もいる、奴らの目をかいくぐって出航しなきゃならない」


 フランソワは真剣な眼差しを向ける。


「時間は短いが、計画を立てれば可能だ。まずは今すぐに準備を始める。食糧、弾薬、帆布の補強、出航ルートの偽装と分断、避難と備蓄場所の確保。港の監視をかいくぐるための小舟の手配。情勢次第では夜陰に紛れて出る。追手が来るまでに距離を稼げれば向こうで再起できる。ここで徒に血を流すより、仲間を残して動く方が賢明だ」


 ベルナルドが頷いた。軍医としての冷静さのまま、彼は言葉を選んで付け加えた。


「生き延びる術があるなら、逃げ延びるのも一手だ。医学的にも、消耗で戦うより回復して戦う方が勝ち筋は高い」


 ジャスパーは軽く拳を打ち合わせ、悪戯っぽく口角を上げる。


「よし、逃げるにしても面白くやろうぜ。奴らが鼻をつまむ前に風の乗り手になってやる」


 ルキフェルは少しの間だけ顔を上げた。目が仲間たちの顔を走り、最終的にフランソワを見据える。


「……分かった。行こう。だが、無駄死にだけはさせるな。俺が仲間を守る」


 フランソワは頷き、少し微笑んだ。


「それでいい。時間はないが、やるしかない」


 それからフランソワはベルナルドの目をじっと見据え、首を振った。


「君には感謝している。わざわざ隊を抜けてここまで来てくれた理由は分からないが、その覚悟は並々ならない。けど悪いが、君をここに匿うわけにはいかない。会話が済んだら船から離れてくれ」


 ベルナルドは黙って俯き、やがて深く頷いた。


「分かりました。迷惑はかけません。できることがあれば、知らせてください」


 フランソワは一息つき、顔を上げて五人組を順に見渡した。蝋燭の炎が皆の横顔をゆらめかせる。


「次だ。俺たちだけが勝手に逃げるわけにはいかない。ここにいる全ての海賊団──いや、私掠を生業としてきた者たちに情報を共有しなきゃならん」


 ルキフェルは眉を寄せて問いただす。


「戦いを選ぶ奴もいるんじゃないか? 徹底抗戦を叫ぶ連中さえ出てくるぞ」


 フランソワは笑って首を振った。


「それについては、俺に算段がある。無秩序に分裂すれば全滅するだけだ。ならば手続きを踏もう」


 ジャスパーが飄々と言った。


「あんた、よく頭回るよなあ。思いつきじゃないってのは心強いぜ」


 フランソワは表情を引き締め、言葉を慎重に選んだ。


「投票だ。話し合いを開いて旗頭を決める。多数の海賊団を引き連れてこの街を脱出するのに、俺が一時的に代表権を持つ。そのための正当な手続きを踏もう。そうすれば命令系統もまとまるし、無謀な単独抗戦を封じられる」


 室内に低いざわめきが広がる。誰もがそれが賢明な案だと理解しつつ、同時に重い現実の大きさを噛みしめた。ニールが口を開いた。


「投票という形をとれば、反発も抑えられるってことね。確かに、合理性はある」


 マテオは吐き捨てるように言った。


「手続きで時間を食うなら、その間に追手が来るかもしれんが……やらないよりはマシだな」


 フランソワは地図の一角を指し、全員の目を惹きつける。


「今夜は準備だ。明朝、港の広場で話をまとめる」


 蝋燭が小さく揺れ、窓の外の海は黒く静かに広がっていた。決意と不安が混じる中、五人と一人の軍医は役割を受け止め、これから来る嵐に備え始めた。



 翌朝、港にはまだ朝靄が残っていた。空は白み始めているが、陽はまだ海面の向こうにあり、波間には冷たい風が吹き抜けていた。フランソワはほとんど眠れぬ夜を過ごしたまま、港の広場に足を踏み出した。肩には外套をかけているが、目の下には深い隈が浮かんでいる。彼の背後には、フードを深くかぶり顔を隠したルキフェルの姿があった。


「フランソワ。事態を投票まで持っていけたとして……もし選ばれなかったら、どうするつもりだ?」


 フランソワは一度だけ立ち止まり、朝の潮風を吸い込んだ。やがて、彼はゆっくりと答える。


「旗頭が俺の考えと一致するなら、俺は選ばれなくても構わない。……だが、もし考えが一致しなくて、戦う道しか残らないのなら、それが運命なんだと割り切るしかない」


 ルキフェルは不満を隠さず、舌打ちをひとつ鳴らした。


「なんだよそれ。リスクが高すぎる。そんな賭けに出て、もし負けたら——」

「そうならないために俺が立ち上がるんだ」


 フランソワの声は静かだが芯が通っていた。彼の眼差しの奥に、焦りも恐怖も見えない。何かを決意した者の色をしていた。港にはまだ誰も来ていなかった。波止場の先に停泊する船の帆が潮風に揺れ、軋む音だけが響く。フランソワの脳裏にひとつの面影が浮かんだ。


 ——ゼフィランサス。


 あの男が生きていた頃、彼は言葉ひとつで人を動かした。怒号の中でも笑って、皆を導いた。あの混乱をまとめ上げた何か。もし彼だったら、この状況をどうするだろうか。フランソワは小さく首を振った。心の奥で、誰かの声を頼りにしようとする自分を叱るように。


「……いや、ダメだ。俺がやるんだ。俺の言葉で、俺の仲間を説得する」


 そう呟くと彼は視線を港の入り口へ向けた。やがて、遠くの道に船長たちの姿が見え始める。潮の香りの中で、フランソワの心臓が静かに高鳴っていった。各船団の船長たちが円を成して集まっていく。彼らの顔には長旅の影が落ち、酒と喧騒で擦り切れたような表情が浮かぶ。


「フランソワ、そいつは一体何の話だ?」


 どこか呆れ混じりに促す男の声に、数人が頷く。年長者らしい渋い顔の男が腕を組み、周囲を見渡した。フランソワは口を開いた。


「うちの隠密員からの垂れ込みだ。残り四日。海軍がこの街に向かっている。狙いはこの町と、ここに集う我らだ」


 一瞬の静寂のあと、ざわめきが広場を満たした。誰かが噛み付くように声を上げ、別の者が拳を握り締め、また別の者は黙って唇を噛んだ。怒号と低いうめきが交差する。


「四日だと? そんな滅多な話を——」

「放置したら一網打尽だ。どうするつもりだ、フランソワ?」

「戦うにしては準備が短すぎる。撤退だとしても統率が必要だろう」


 フランソワは顔を上げ、全員の視線を一つひとつ受け止めるように言葉を続けた。


「この件、皆と話し合いたい。今から全員を集める。船員も含めてだ。話し合って決めよう。ここで、俺たちがどう動くかを」


 年長の男が鋭く息を吐き、やがてゆっくりとうなずいた。


「……わかった。お前に何か算段があるのだろう。ならば聞こう。仲間たちよ、会合を開こうではないか」


 他の船長たちも頷き合い、短い合図が交わされると、そこかしこから解散の声が上がった。各々が自分の船へと戻り、乗組員を呼び集めるために動き始める。広場は忙しない足音と命令の掛け声で満ちていった。フランソワはルキフェルの方へ振り返り、低い声で告げた。


「ルキフェル、船のみんなを集めろ。投票の権利がある者は全員確認しなければならない。抜けは許さんぞ」


 ルキフェルはフードを深く被り直すと言葉少なに頷いた。やるべきことがはっきりしている時、彼の動きは無駄がない。彼は甲板へ向かう道を目一杯の速度で駆け抜け、広場の喧騒の中へと消えていった。

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