第五章③ 五人組
翌朝、淡い朝陽が海面を染める頃。
フランソワは甲板に全員を集めた。〈リュシアン号〉の帆が風に揺れ、波音が低く響く中、乗組員たちは互いに目を合わせず、静かに並んでいた。
フランソワは昨夜知らされた国王の方針転換と私掠免状剥奪の経緯を一つひとつ説明した。乗組員たちは声を上げることもなく、顔に恐怖と怒り、そして深い悔しさを滲ませた。その沈黙の重さが、フランソワの胸に重くのしかかる。ルキフェルもまた背筋を伸ばして立ちながらも、胸の奥で同じように苦しんでいた。フランソワは全員を見渡し、静かに告げる。
「お前たちには、一人ずつ今後どうするか決断してもらう。船に残るか、船を降りて立ち去るか。ただし、時間はない。決断した者はクォーターマスターに申告しろ」
フランソワは集会を終え、静かに甲板を離れた。
ルキフェルのもとには、決断した乗組員たちが次々とやって来た。船を降りる者の多くは地元に家族がいる者や、もともと船を離れるつもりだった者たちだ。
ルキフェルは彼らに報酬と今後の生活資金を手渡し、荷物をまとめさせる。船を降りる者たちは、フランソワとルキフェルに深く感謝を告げ、港を後にした。
船が徐々に活気を取り戻す一方で、ルキフェルの胸にはまだ昨日の夜の重苦しい記憶と、仲間を失った悔しさが冷たく残っている。船に残ることを決めた者たちは思った以上に多かった。多くは独り身で陸の世界で居場所を失い、命からがら逃げてきた者たちだ。中には、フランソワへの忠誠を声高に口にする者もいた。初めて自分の熱い想いを口にする彼らの姿を、ルキフェルは静かに見つめた。胸が熱くなるのと同時に、手に握ったペンに力が入る。
これからフランソワと自分が彼らの生活をどう守り、維持していくのか。その重責が目の前に浮かび上がった。自分たちは、国にとっては害獣のような存在かもしれない。だが、この船にいる者たちの人権と尊厳を守るために、どう向き合えばいいのか。ルキフェルは思考の渦に巻き込まれるように混乱した。甲板を渡る風が彼の心の沈みと交錯する。
ルキフェルは全員の希望を聞き終えた後、疲労感を抱えたまま誰もいない船尾へ向かった。近くの木箱に座るとフードをゆっくりと下ろし、傷だらけの顔を西陽に晒した。目の前には水平線が広がっているだけで、言葉にすることも思考を巡らせることも億劫に感じられた。胸の奥が重く、息が浅くなる。
クォーターマスターとしての職務に全力を注ぎ、責任に没頭してきた日々の疲れが今、どっと押し寄せてきた。心の防壁は長い間少しずつ削られ、崩れ落ちる。何かを決め、判断し、背負うことに疲れ果て、ただ座っているだけで精一杯だった。手足は鉛のように重く、心の中は薄暗い海に沈むような感覚に囚われた。
——俺は、何を背負っているんだ。守るためにここにいるのに、どうして胸が痛い。これ以上、誰も失いたくないのに……俺自身はどうすれば……。
問いかけは答えを持たず、虚空の中でひたすら反響するだけだった。守るべき者たちの笑顔を思い浮かべても、心の奥に残るのは不安と重圧だけ。自分が今どれほど心身ともにぐったりしているかを初めてはっきりと認識した。水平線の向こうに広がる光景はもはや希望ではなく、重く沈んだ虚無の色を帯びて見えた。
「でも……俺は、逃げるわけにはいかない」
ルキフェルは茫然と水平線を見つめたまま、重い呼吸を繰り返していた。そんな沈黙を破ったのは、甲板をゆっくりと歩いて近づいてくるジャスパーだった。
「お疲れさん。今日も朝から駆け回ってんな」
彼の背後に続くマテオがルキフェルの座る木箱を背にして座り、コリンはルキフェルの隣にちょこんと腰を下ろす。ニールはジャスパーの隣に立ち続けていた。ルキフェルは顔を上げずに声だけで問う。
「お前たちは、どうするんだ」
ジャスパーは肩をすくめ、少し笑みを浮かべながら答えた。
「おれは今さら船を降りるつもりないからな。陸の世界はつまんない」
マテオも間髪入れず口を開く。
「オレたちには帰る場所がないんだ。問答無用で残るぞ」
ニールは言葉こそ発さないものの、頷きで同意を示す。ルキフェルはわずかに目を向け、彼らの意志を確認したとき、コリンがにこりと笑って冗談めかして言った。
「ルキフェルは友達いないから、ぼくが残ってあげる」
軽口の裏にはコリンの幼いながら複雑な心境が透けていた。
自分が不思議な力を持つせいで、自分を怖がる大人たちの前で、常に「馬鹿じゃないの」と嘲るような態度を取らざるを得なかった。ここでは信頼できる大人たちがいて、自分の居場所がある。フランソワとルキフェルへの恩が、自然と感謝の形で滲み出ていた。
ルキフェルはコリンの言葉を聞き、胸の奥にあった重い鉛のような疲労感が、わずかに解れた。彼らがここにいる。自分を信じ、共に生きる意志を示す者たちが、目の前にいる。それだけで、少しだけ心が軽くなった。ルキフェルは木箱に座ったまま、ゆっくりと深呼吸をした。ジャスパーの飄々とした笑み、マテオの不器用ながらも熱い忠誠、ニールの静かな眼差し、そしてコリンの純粋な信頼が、ルキフェルの胸に温かな光を灯した。
「……俺は、まだ戦えるかもしれない」
小さく呟きながら、ルキフェルは顔に付いた傷跡を一度撫でる。痛みはまだ残る。失ったものの代わりに得た仲間の存在の重さと価値を思い知らせるものだった。ルキフェルはゆっくりと立ち上がると仲間たちを見回した。ジャスパーが軽く肘でルキフェルを突き、にやりと笑う。マテオが小さく頭を下げ、ニールは静かに頷く。コリンは木箱に座ったまま無邪気に笑った。
「よし……やるか」
ルキフェルの声は震えていたが、瞳には意志の光が宿っていた。
「何をやるんだい?」
問いかけたジャスパーの声には半ば呆れと期待が入り混じっていた。ルキフェルはしばし沈黙を置いて言葉を落とした。
「海軍員に会ってくる。あいつらを説得して、どうか考えを改めてもらえないか掛け合う」
「待て待て、それは考えが飛躍しすぎてるぞ」
マテオが思わず身を乗り出し、ルキフェルの腕を掴んだ。
「お前、正気か? クビ切った連中に話が通じるわけねえ。下手すりゃ、帰ってこられなくなる」
ルキフェルはマテオの手をゆっくりと外した。
「それでも行く。今ここで動かなきゃ、手遅れになる。フランソワでダメなら、俺が話をつけてくる」
ルキフェルは踵を返し、足早に甲板を駆け抜けていく。海風がフードを揺らし、船を降りるタラップの前で一瞬だけ振り返ったが、誰の言葉も待たずに港へと消えた。
「……まったく、あのバカ」
舌打ちと同時に、ジャスパーが駆け出す。
「行くぞ!」
マテオもため息を吐きながら後を追い、ニールが無言で続いた。最後にコリンが甲板の上でぽつりと呟く。
「ほんと、止まらないんだから……」
そう言って、小さな足音で彼らの背を追いかけた。
港の風が冷たくなり始めていた。陽は傾き、空は群青と橙のあわいを描く。
ルキフェルは外套のフードを深く被り、石畳の通りを駆け抜けていた。足音が夕暮れの街並みに乾いたリズムを刻む。彼の胸の中で、何かが焦げ付くように熱くなっていた。怒りでも、恐怖でもない。黙って見過ごすことへの拒絶だった。国の裏切りも無力さも、すべて呑み込んだ上で、それでも立ち止まれなかった。港の喧騒が遠のき、代わりに住宅街の静寂が広がる。ルキフェルの息が白くなりはじめる頃、後ろから足音が増えていった。
「おい、待てってば!」
ジャスパーの声が響く。
「バカ野郎、ひとりで突っ走るな!」
マテオも荒い息を吐きながら追いつこうとする。ニールは言葉を発さず冷静に彼らの背を追い、コリンは短い脚で懸命に走っていた。だが、ルキフェルは立ち止まらない。
やがて、通りの突き当たりに古びた煉瓦造りの屋敷が見えてくる。サン・マロ駐在の海軍員たちが詰めていると噂される家。ルキフェルはそこでようやく足を止め、荒い息を整える。指先は震え、喉の奥は乾いていた。それでも、彼の瞳にはためらいがなかった。
「……ここだ」
小さく呟いた声が、冷たい風に溶けて消える。ルキフェルは深く息を吸い込んでから扉を叩いた。
「……駐在海軍員に話がある。フランソワ船団の者だ」
返答はない。屋敷の中は、まるで最初から誰もいなかったかのように静まり返っていた。もう一度、強く叩く。
「聞こえているだろう? 話がしたいだけだ、出てきてくれ!」
ルキフェルの声が夜の通りに虚しく響くが、返ってくるのは波の音と吹き抜ける潮風の笛声だけだった。焦燥がルキフェルの胸の奥を締め付けた。逃げた、その確信が冷たく心を貫いた。
「どこへ行った……ふざけるな……!」
叫び声とともに、ルキフェルの拳が扉を殴りつけた。乾いた音が響き、手の甲に鈍い痛みが走る。それでも止まらなかった。
「逃げるなッ! 話をしろ……! 俺たちを、こんな形で終わらせるな!」
拳が木の板を叩き、爪が割れ、皮膚が裂ける。血が滲んでも、止めることができなかった。やがて蹴りを加え、肩で体当たりをしながら、掠れた声で叫び続ける。
「出てこいよ、卑怯者ッ! お前らが、お前らが、この街を腐らせたんだ!」
ジャスパーとマテオが慌てて駆け寄り、ルキフェルの腕を掴む。
「やめろ、ルキフェル!」
だがルキフェルは血に濡れた拳を止められたまま、ただ呆然と扉を見つめていた。乾いた唇が震え、掠れた声で言葉を落とす。
「……いない。最初から、俺たちなんか見てなかったんだ」
風が通りを抜け、ルキフェルの外套を揺らした。血が掌から滴り落ち、石畳に赤い染みを残していく。肩が大きく上下し、呼吸は荒く、目には涙とも汗ともつかぬ光が宿っていた。
「……どうして、こうなったんだ」
掠れた声が漏れ、ルキフェルは手の血を見つめた。彼の背後からジャスパーがそっと彼の肩を掴む。
「ルキフェル、もうやめろ……手が、血だらけだ」
マテオも息を切らせながら続く。
「落ち着けって。誰も責めちゃいねえ。今は、まず手を拭け」
ニールが懐から布を取り出し、ためらいがちに差し出す。ルキフェルはしばらく動かず、血まみれの手を見つめていたが、やがて力なく布を受け取った。コリンがルキフェルを見上げながら言う。
「……これ以上、自分を傷つけても、何も戻らないよ」
ルキフェルは答えなかった。滲んだ血を拭いながら、固く唇を結んでいる。遠くで鳴る鐘。風が止み、通りを包むのは静寂だけだった。ルキフェルは血の滲む布を見つめたまま、誰とも言葉を交わさなかった。ジャスパーたちも沈黙したまま、ただその傍らに立ち尽くす。
——その時だった。
靴音。乾いた石畳を踏む、規則的な音が遠くから響いてきた。最初に察知したのはジャスパーだった。彼はぴくりと眉を動かし、瞬時に腰の剣に手をやる。
「……誰だ?」
マテオとニール、コリンも一斉に振り返る。灯りも乏しい通りの奥、そこにゆらゆらと橙の光が揺れていた。やがて、それは人の形を帯びる。外套を羽織り、片手にランタンを掲げた男がゆっくりと近づいてくる。薄闇の中で揺れる火の明かりが、彼の顔を仄かに照らした。
陽に焼けたような褐色の肌。目は穏やかで、どこか人の良さを滲ませていた。だが今、その黒目はわずかに揺れていた。驚き、不安、そして……ほんの少しの恐怖。彼の視線が、ランタンの光越しに五人を捉える。ルキフェルはようやく振り返った。手にはまだ乾ききらぬ血が残り、唇は固く結ばれている。ランタンの灯が、揺れる影を地面に落とす。男は一歩、二歩と近づくと、立ち尽くす五人を前に立ち止まった。
「……君たちは、一体?」
誠実さを含む声に、マテオが即座に反応した。彼はルキフェルの前へ一歩出て、手を腰の短剣に添える。
「名乗るなら、まず自分からな」
警戒心を隠そうともしない声音。マテオの鋭さに男は小さく息を吐き、困ったように微笑んだ。
「失礼。君の言う通りだな」
男はゆっくりとランタンを持ち直し、光を胸元に寄せた。その動きに敵意はなく、むしろ穏やかな慎重さがあった。
「ベルナルド・シルバだ。……海軍で、軍医をしている」
ルキフェルたちは一瞬、言葉を失った。海軍。その響きが、夜の冷気の中に重く落ちた。ベルナルドの黒い瞳は、怯えではなく確かな観察の色を帯びていた。彼は目の前の五人を順に見やりながら、わずかに眉を顰めている。ルキフェルの胸の奥で何かが低く鳴った。ベルナルドに一歩、また一歩と近づく。彼の瞳には怒りと悔しさ、失望が渦巻いていた。
「お前……俺たちが海軍に裏切られたって、分かってるのか?」
ルキフェルの声が震える。普段の冷静な口調は影も形もなく、怒気だけが通りに響く。ベルナルドは一歩下がり、ランタンを少し高く掲げて慎重に距離を取る。
「落ち着け、ルキフェル——」
ジャスパーがすぐさま止めに入ろうとしたが、ルキフェルはその手を振り払い、ベルナルドに詰め寄った。
「落ち着けるかよ! 俺たちを、七年も国のために尽くしてきた俺たちを……あんなふうに、あっさり切り捨てるなんて!」
ルキフェルの声が夜の通りに反響する。マテオやニール、コリンも緊張し、ルキフェルの周囲で一瞬息をのむ。ベルナルドはじっとルキフェルを見つめ、言葉を選びながら応じた。
「……分かる。けど、俺には……」
ルキフェルの耳には届かない。怒りの波が彼の理性を押し流していた。
「何を分かるって言うんだ! お前たちは、俺たちを悪と決めつけた! 俺たちを駒扱いしたんだぞ!」
ルキフェルは拳を握り締め、怒りのままベルナルドの胸元に近づく。
「どうして! どうして俺たちを……七年も尽くしたのに!」
ルキフェルが拳を振り上げようとした時、ジャスパーが無言でルキフェルに駆け寄って力強く背中から抱き留めた。ルキフェルは一瞬暴れたが、ジャスパーの圧力に押さえられ、やがて荒い呼吸を整える。
「……ルキフェル、落ち着け。おれたちの敵は、あいつじゃない」
ジャスパーは低い声で叱責する。彼は怒りの残る瞳でルキフェルを見つめた後、手を緩めてルキフェルを離すと、代わりにベルナルドに向き直った。
「すまない。あいつが……感情を抑えきれなかった」
ベルナルドは無言でうなずき、ジャスパーの謝罪を受け入れる。ジャスパーは慎重に問いかけた。
「……軍医ってことは、実戦部隊の人間かい?」
ベルナルドは少し顔を曇らせて答える。
「そうだ。俺は第七艦艇部隊。海賊討伐任務にあたる部隊の医官だ」
その言葉に、ジャスパー、マテオ、ルキフェル、そしてニールとコリンの表情が一瞬引き締まる。ベルナルドは続けて誠実な口調で説明した。
「海軍は、君たちに通達したような方針転換を受け、混乱している。私掠免状の剥奪は、上層部の意向だが、現場の士官や実務担当者の間では、対応に温度差がある」
彼はゆっくりと息をつき、続けた。
「俺自身は、命令には従うしかない。が、現場で見てきた限り、君たちを悪と断じることには違和感を覚えている。だからこうして、直接顔を合わせて話すために来た」
ルキフェルは額に手を当て、まだ残る怒りと苛立ちを抑えつつも少しずつ耳を傾け始めた。ベルナルドはふと辺りを見回し、目を細めながら言った。
「その家、駐在海軍員のものか?」
ニールが肩をすくめ、やや皮肉めいた口調で答える。
「そうみたい。でも、もうもぬけの殻だよ」
ベルナルドは悔しそうに舌打ちをした。
「遅かったか……」
彼の言葉に、マテオが眉をひそめて問いかける。
「おい、実戦部隊の奴がなんでこんな街にいるんだ?」
ベルナルドは少し息をつき、厳しい表情で答えた。
「色々と話したいことはあるが、今は時間がない。早急に、フランソワ船長に会わせてくれ」
その一言に四人の顔に緊張が走る。ルキフェルもベルナルドに真剣な視線を向け、頷いた。この場ではまず船長との対面が先決だ。全員が自然とその方向に意識を集中させた。静寂がぎりぎりまで張り詰めている瞬間、ルキフェルはぶっきらぼうに言い放った。
「分かった。フランソワに会わせてやるが……妙な素振りを見せたら斬る」
言葉は刃のように冷たく、それ自体が警告となって周囲に響いた。ベルナルドは一瞬たじろいだが、やがて頷くと腰に差していた短剣に手を伸ばした。柄を確かめる仕草は軍医らしい慎重さを含んでいる。
「これだけだ。どうか、安心してほしい」
ベルナルドは短剣を抜き、その刃をジャスパーに差し出した。ジャスパーは受け取り、にやりと笑った。
「預かるぜ、軍医殿。安心しな」
ジャスパーはそう言うと、六人は歩き出した。通りは眠りにはまだ早いが人影は少なく、石畳が靴底の音を淡く反響させる。月は雲に隠れたり顔を出したりして、彼らの影を揺らす。ベルナルドは時折周囲を気にしながらも、淡々と歩幅を合わせた。海の匂いが次第に強くなり、遠くからは波が桟橋に当たる音が聞こえてきた。
「君たちの船まではこのままか?」
ベルナルドが小声で訊ねるとニールは頷き返す。ジャスパーは皮肉っぽく笑いながらも、手にした短剣の重さを確かめるように指先で柄を弾いた。やがて灯台の光が遠方で揺れ、〈リュシアン号〉の黒い船体が暗闇の中に浮かび上がる。甲板からはかすかな人声と物音が漏れてきて、船へ向かう足取りが自然と速くなった。ルキフェルは一度だけ振り返り、仲間たちとベルナルドの顔を確かめ、夜の海へ向かって歩を進めた。




