第五章① 五人組
ガーンジー島への航海は出港の高鳴りを過ぎたあと、穏やかな風とともに始まった。五隻の船団は寄せ来る波を切り裂き、朝靄の中を進む。陽光は雲間から滲み出し、白帆を銀に照らし出した。甲板のあちこちでは、船員たちが錨鎖を巻き上げ、縄を整え、潮の匂いを浴びながら新しい航路を噛み締めていた。
イングランドを離れた彼らにとっては亡命でもあり、自由への最初の一歩でもあった。
ルキフェルは甲板の欄干にもたれ、風に靡く帆を見上げていた。すぐそばではニールがマテオ、ジャスパー、コリンの三人に囲まれ、質問攻めにあっている。
「ほら、ニールってやっぱ頭いい!」
「頭っていうかもう、脳みそが別の構造してそうだな……」
「だよなぁ。おれだったら絶対覚えきれねぇよ」
甲板には笑い声が広がる。その光景をルキフェルは見つめていた。風に舞う髪の向こう、彼の横顔にはほんのわずかな微笑が浮かんでいた。するとコリンが急に身を乗り出し、ニールの目の前に手をかざした。
「ねぇ、博士。ちょっと見てて」
「え?」
コリンはニッと笑うと軽く指を鳴らした瞬間、パチッと乾いた音とともに指先から細い炎が生まれた。オレンジの火は風に揺れ、瞬きほどの時間で消え、ニールはまるで心臓が止まったように動けなくなった。
「……え、なに……?」
「ん? まぁ、ちょっとした芸だよ」
コリンは肩を竦めて笑い、マテオとジャスパーは慣れた調子で「またやってる」「火遊び好きだなぁ」と軽口を叩くが、ニールだけは驚愕を隠せず、息を飲んだままだった。彼の視線が揺れ、ルキフェルの方へと流れる。ニールの眼差しに宿る理解不能の色を、ルキフェルは受け止めていた。消えた炎の残光が、ほんのわずかに朝靄の中で瞬く。ニールは呆然としたまま、言葉を探していた。
「……まさか、そんな……今の、熱も確かに感じた……魔術?」
思わず漏れたニールの言葉に、マテオとジャスパーが顔を見合わせた。
「魔術、ねぇ」
「そっちの言い方の方が、なんかロマンあるな」
ルキフェルは息を吐いて肩をすくめる。
「俺に聞かれても分からないからな。火が出る理由を、理屈で説明できる人間なんていない」
淡々とした声だが、響きの奥には「これがこの世界の現実だ」という重みがあった。コリンはそんなルキフェルとニールの間に割って入り、少しだけ困ったように頭を掻く。
「うーん、やっぱ魔術なのかなぁ。正直、自分でもよく分からないんだよね」
彼は指先を見つめながら軽く動かしてみせる。
「火を出そうとすると出るけど、どうしてこんなこと出来るのかなんて考えたことはないんだ。……魔術っ
て言葉以外に、当てはまらないよねえ」
ニールはまだ信じきれない表情で炎の跡を見つめていた。彼の中で、長年積み上げてきた理性と現実の境界が音を立てて崩れ始めている。ジャスパーが気まずそうに笑い、煙の跡を指差した。
「まあ、この世界には不思議なこともあるってもんだな。この煙の跡を見ても、まだ信じられないってんなら、それでいいけどよ」
海風が吹き抜け、白い線がゆっくりと空へと溶けていくのをルキフェルは静かに目で追った。
「……そうだな。今ここで見たものは夢じゃない。現実に起きてる」
ルキフェルの視線がコリンへと向かう。しばしの沈黙ののち、ニールは腕を組んで小さく唸った。
「……その力、悪用しようとする奴も出てきそうだよね」
彼の声音は柔らかいが、目だけは真剣そのものだった。コリンはきょとんとした顔で首を傾げる。ニールはコリンの視線を受け止め、やや穏やかに言葉を続けた。
「力を見せる相手を選ぶ必要があるかも。見せ方を間違えると、自分を危険に晒すことになる」
コリンはむっと唇を尖らせた。
「そんなこと、分かってるし」
その拗ねた声に、ジャスパーが吹き出す。
「それにこの船、木造だ。海の上で火なんか出されたら燃えるぞ。海に出てる間は絶対に火を出すな」
すかさずマテオが手を振ってツッコむ。
「いや、出てない時でもダメだろ! 港でも燃えたらどうすんだよ!」
ジャスパーは「そりゃそうか」と頭を掻き、コリンは頬を膨らませてぷいと顔を背ける。ルキフェルはわずかに微笑んだ。ほんのひととき、戦場での血の記憶が遠く霞んだように感じられたから。やがて、水平線の向こうに、薄靄の中から島影がゆらりと浮かび上がる。岩肌に沿って白い家々が並び、港の尖塔がわずかに陽を反射していた。最初に気づいたのはコリンだった。
「ねぇ、見て! あれ……ガーンジー島じゃない?」
コリンの声に、他四人の視線が一斉に空と海の境を向く。ルキフェルは無言で目を細め、マテオが陽光を手で遮って頷いた。
「間違いねえ。目的地だ」
潮風が強まり、船体が軽くきしむ。寄港の準備が始まりつつあった。そこへ、甲板の後方から重い靴音が響かせてフランソワが現れ、五人を見回す。
「直ちに荷物をまとめろ。すぐにサン・マロへ出発するぞ」
その言葉に、マテオとジャスパーが顔を見合わせた。
「出発って……このままガーンジーに上陸じゃねえのか?」
「違う。フェルナンドが小舟を出して待ってる。俺たちは別行動」
フランソワの声はいつものように迷いがなかった。彼はふとニールのほうへ視線を向けた。
「本当に俺たちについていくのか? エドガー海賊団じゃなくて」
ニールは一瞬、柔らかな笑みを浮かべ、真っ直ぐにフランソワを見つめた。
「僕は、あなたたちがいいんだ。たとえ追い払われたとしても、どこまでもついていくよ」
フランソワの眉がわずかに動いたが、何も言わなかった。ニールは続けて、いつもの爽やかな笑顔で肩をすくめる。
「ま、あなたたちが僕を簡単に追い払いはしないってことも分かってるけど」
マテオが「おい、こいつ調子いいな」と呟き、ジャスパーが笑いながらニールの肩を叩いた。
「いいじゃないか。賢くて図々しい奴ほど、長生きするもんだ」
ジャスパーの軽口に、フランソワは苦笑を浮かべた。
「……勝手にしろ」
そう吐き捨てると、彼は再び前方の島影へと目を向けた。ルキフェルは小さく息をつき、同じ方向を見つめた。彼の瞳に映るその島は終わりではなく、次の始まりのように見えた。ほどなくして、小舟の準備が始まる。櫂を操るのは航海士フェルナンド。彼の姿を見たニールが、腕を組んで唇を尖らせた。
「うーん……顔も身なりも優雅なのに、なんか大袈裟」
「オメーが言うな」
即座にマテオがツッコミを入れ、周囲に小さな笑いが起きた。フェルナンドが濡れた栗毛色の髪をかき上げる。陽光を受けて、まるで舞台の上の俳優のように輝いて見えた。
「おやおや、皆さまご機嫌よう。……どうやら無事に戻れそうで何よりですな」
芝居がかった一礼に、マテオが肩をすくめる。
「お前の顔を見ると、また面倒な交渉が始まりそうだな」
フェルナンドは唇の端を上げて笑った。
「面倒なのはいつもこちらの方ですよ。……そちらの熱血大将が、どんな無茶を言い出すか分かりませんからね」
彼の視線の先では、フランソワが腕を組んで無言のまま睨み返している。
「俺が言い出す前に、お前らが勝手に動くんだろうが」
「おっと、耳が痛い」
フェルナンドは片手を上げて降参の仕草を見せたが、その口元には悪戯っぽい笑みが浮かんでいた。そのやり取りを見ていたニールが、興味深そうに目を瞬かせる。
「この人は、エドガー海賊団の航海士……だっけ?」
「ああ、口が達者で手も速ぇ」
マテオが低く答えると、フェルナンドが軽く眉を上げた。
「ほう、紹介の仕方がずいぶんと簡潔ですな。だが、悪くはない」
「誉め言葉じゃねえよ」
フェルナンドはふと視線を遠くにやり、ガーンジー島の岸辺を見据える。
「……さて、劇の幕は次の場面へ。皆さまの出番はもうすぐです」
フランソワは黙って顎を引いた。潮の香りが濃くなり、波音が徐々に岩肌を打つ音へと変わっていく。陽が傾き始めたガーンジー島の港を金色に染めていた。フランソワたちが乗り込む小舟のそばで、エドガーがゆっくりと歩み寄ってくる。
「——フランソワ」
振り向いたフランソワの前に、エドガーが立っていた。海風に髪をなびかせながら、彼は少しばかり照れくさそうに笑う。
「ありがとうな。オレの我儘に付き合わせちまった」
フランソワは息を吐いた。
「例には及ばない。それと報酬はいらないから」
そう言って、彼はわずかに口の端を上げる。
「俺は、またお前と戦えて嬉しかったさ」
エドガーの目がかすかに和らぐ。
「……へっ、そんな殊勝なこと言うとは思わなかったぜ」
そう言いながら、エドガーは右手を差し出した。フランソワも迷わずその手を取る。厚い掌が打ち合わさり、沈黙が二人の間を満たす。
「なあ、これからどこへ行く?」
手を離したあと、フランソワが尋ねた。エドガーは口の端を吊り上げ、遠くを見た。
「トルチュ島だ。海賊の楽園ってやつ。少し滞在して、また大西洋で本格的に暴れるつもりだ」
夕日が彼らの頬を照らし、潮風が二人の外套を翻す。フランソワは頷き、わずかに笑みを浮かべた。
「そうか。なら、次は敵として会うことになるかもしれん」
エドガーは肩をすくめた。
「望むところだ。その時は、また本気でやろうじゃねぇか」
そう言い残し、彼はゆっくりと背を向けた。
大海賊にふさわしい背中を、落陽が真紅に染めていた。
月光を受けて、海面が銀の鱗のように波打っていた。フェルナンドの櫂が滑らかに水を切るたび小舟は静かに進み、潮風と共に塩の匂いが頬を撫でる。フランソワは黙って夜空を見上げていたが、彼の隣でルキフェルが微かに息を吐いたのを感じると、ようやく肩の力を抜いた。やがて、港の灯が見えてきた。遠くで笑い声が混じり合い、波止場の方からは酒場の音楽が流れてくる。
「サン・マロだ」
フェルナンドの低い声に、マテオとジャスパーが同時に顔を上げた。石造りの防壁が月光を反射し、海風に旗が揺れる。夜更けとは思えぬほど賑わう港町の灯が、彼らを迎えるように瞬いていた。フェルナンドは器用に舵を取って小舟を接岸させると、軽く片手を上げた。
「ここまでだ。お達者で、フランソワ殿」
「世話になった。お前も気をつけろよ」
フランソワの言葉に、フェルナンドは笑って櫂を握り直した。彼の小舟は音もなく港を離れ、再びガーンジー島の方角へと滑り出していった。桟橋から石畳に足をつけた瞬間、コリンが目を丸くした。
「うわあ……すごい! 石の道が光ってる!」
濡れた石畳がランタンの灯を反射して黄金色に輝き、潮とワインの香りが混じる夜の空気が彼の胸を満たす。コリンの隣で、ニールは少し遅れて歩を進めながら港の景色を見渡した。
「……これが、サン・マロ。地図で見るより、ずっと賑やかだな」
遠くで笑い声が絶えず響き、船乗りたちが樽を転がしている。酒場の扉が開くたびにバイオリンの旋律がこぼれ、夜風とともに通りを抜けていった。マテオが肩越しに振り返り、苦笑しながら言う。
「ようこそ、フランスの海の玄関口へってとこだな」
コリンは瞳を輝かせ、ニールは頷いた。港の喧騒に混じって、どこからか甲高い笛の音に反応するように、通りの向こうから一人の水夫が駆け寄ってくる。肩にはロープを下げ、顔には疲れと安堵が入り混じった笑みが浮かんでいた。
「あっ、船長! それにルキフェルさんに、その他の皆さんも! ご無事で何よりです!」
声を張り上げて敬礼する水夫に、フランソワは一瞬だけ眉を上げた。ニールが小声でマテオの袖を引く。
「ねえ、あれって……礼儀正しいのかどうなのか分かんないね」
「まあ許してやれ」
ジャスパーが肩をすくめながら笑った。
「うちはあんな奴ばっかだ」
水夫は気を取り直し、息を整えながら続けた。
「海軍の連中がその通りを右に曲がった先の酒場でお待ちしてます! 船長が何日も戻らないもんで、ずっと待機してましたよ」
フランソワは頷き、低く応えた。
「そうか、悪かったな。大事な商談と取引が思ったより長引いてしまって」
「へへっ、とんでもないです!」
水夫はにかっと笑い、また仲間たちのいる方へ駆け戻っていった。彼の背中を見送りながら、フランソワは五人の方へ向き直る。
「……お前らは先に〈リュシアン号〉へ戻っていろ。俺は用事ができた」
「また女絡みじゃないだろうな?」
ジャスパーが茶化すとマテオが肩で笑った。
「放っとけ。あの人はどこ行っても女と商売は切り離せねぇ」
フランソワは苦笑を浮かべながらも、それ以上は否定せず踵を返す。月明かりに照らされた背中が人混みに紛れ、やがて見えなくなった。残されたルキフェルたちは一瞬だけ無言になり、次いでジャスパーがぽつりと口を開いた。
「じゃあ、リュシアン号に帰るか」
ルキフェルが頷いた。マテオとジャスパー、ニール、コリンの四人は軽口を交わしながら歩き、少し離れてルキフェルがその背後を歩いていた。ルキフェルはふと立ち止まり、港の方へと視線を向けると、月の光
照らされた水面の上に無数の帆柱が並んでおり、その数に思わず息をつく。
「停泊してる船団が多いな」
ルキフェルの独り言を、前を歩いていたジャスパーが耳ざとく拾った。
「んー? いつものことじゃねえ?」
ジャスパーが振り返りざまに言って肩をすくめる。マテオも目を細めながら海の方を見やった。
「まあ確かに。多いと言えば多いな。……けど、漁船って感じでもねぇ。軍艦や商船も混じってやがる」
潮風が吹き抜け、遠くで帆が鳴った。その音に混じって、夜の港町のざわめきが途切れ途切れに響く。ニールとコリンは少し遅れて立ち止まり、同じように海を見つめた。灯りの数が星空より多いようにさえ見える。ルキフェルは港に並ぶ船影を眺めながら、普段とは違う空気を肌で感じていた。潮の匂いはいつも通りだが、どこかざわめきの奥に潜む静寂がある。船団の明かりが水面に反射して揺れるたび、夜の闇が一瞬薄く裂けるような感覚に襲われた。ジャスパーが唸るように口を開いた。
「……何か、嫌な予感がする」
港に停泊する船団は、ただの停泊ではない。船の間に漂う緊張、漁師や水夫たちのざわめきの影、夜風に混じる微かな声が、ジャスパーの直感に異変を告げていた。ルキフェルは後ろからジャスパーに声をかける。
「根拠は?」
「勘だ」
ルキフェルは小さく肩をすくめるだけで返事をしない。
普段なら「じゃあ、そうなんだろうな」と返すのが日常だが、口に出す必要もない。体が、心が、この空気の重さをすでに読み取っていたから。マテオが横目でジャスパーを見つつ笑う。
「まあ、こっちも夜の港には慣れてるけど……なんだか妙に張り詰めてるな」
ルキフェルの視線は水面の先、船の明かりの奥にある闇へ向けられた。
「……準備しとかないと」
何も起きていないが、この静けさの先に何かが待っている。ルキフェルもそう直感していた。




