第四章⑥ カーディフの入江にて
三人は息を切らして拠点に辿り着き、木製の桟橋を駆け抜ける。港の騒音は徐々に遠ざかり、波の音だけが耳に残った。ルキフェルは息を整えながら桟橋の端に立つジャスパーに叫ぶ。
「フランソワとエドガーはどうした!?」
ジャスパーは肩で息をしながらも、どこか楽しげに答える。
「二人は海軍をボコりながら向かってると思うぞ。私掠免状をビリビリにした後、酒場で乱闘騒ぎになった」
ルキフェルは苦笑いを浮かべ、マテオとコリンを見やる。
「さすがあの二人だな。無茶をやりやがる」
マテオは腕の義手を軽く握りしめ、無言で頷いた。コリンはルキフェルの後ろにぴたりと付き添った。ジャスパーは頭を抱えながらぼやく。
「とはいえ、先に出航準備させろって言われても、言葉の通じない奴らにどう指示出せって言うんだよ。この国の言葉、わかんねえよ……」
ニールは顔を上げ、落ち着いた声で応えた。
「それなら僕がやる」
ジャスパーは驚きつつもニールに目線を合わせると、エドガーから受けた指示を簡潔に伝えた。
「じゃあ、こいつに任せるぞ。エドガーの言った通り、出航準備を整えろって指示を回してくれ」
ニールはすぐさま近くにいたエドガーの部下たちへと歩み寄る。部下たちは最初、言葉の壁に戸惑っていたが、ニールが冷静に身振り手振りを交え、正確に伝えるとすぐに理解し、指示を着実にこなしていった。ジャスパーはその様子を見守りながら、思わず口元を緩めた。
「あいつ、優秀だなあ……」
マテオもルキフェルも同意するように頷き、コリンは少し誇らしげに微笑む。エドガー海賊団の船団が慌ただしく動き回った。誰もが主人の指示を待ち焦がれ、各自が勝手に動くわけにもいかず、緊張と焦燥が入り混じった空気が漂っていた。
「帆をもう一度点検しろ!」
「荷物を固定しろ!」
「船員たち、急げ!」
声が飛び交い、荒れた港の水面に命令が跳ね返る。その時、遠くの入江の入り口に二人の姿が見えた。エドガーとフランソワが、満身の疲れを押し隠して港に駆け込んでくる。船員たちは歓声と安堵の息を漏らし、一斉に動きが速くなるが、歓喜の時間は長く続かなかった。入江の奥から、規律正しく整列したイングランド海軍の兵たちが、鋼の鎧と長槍を揺らしながら傾れ込むように近づいてきたのだ。
「おい、逃がすな!海賊どもを捕らえろ!」
兵士の声が入江に響き渡る。エドガーは鋭い目で敵を睨み、フランソワも腰に手をかけた。船団を守るため、そして私掠免状をビリビリに破いたあの行動の報いを乗り越えるため、戦いの気配が瞬時に漂った。船員たちは息を呑み、即座に防戦態勢に入る。ルキフェルとマテオ、そしてニール、コリンも少し離れた岩陰や建物の影からその様子を見守り、次に何が起きるかを見極めていた。ルキフェルはフードを深く被り直すと、コリンに向かって言った。
「お前は船に乗ってろ。ここは大人の領分だ」
コリンは小さく頷き、急ぎ桟橋を掛けてタラップを渡っていった。ルキフェルは剣帯に差したカットラスを引き抜き、刃先に微かに光を反射させる。
「さあ、行くぞ」
マテオとジャスパーも剣を抜いてルキフェルの背後で並んだ時、ニールが一歩前に出た。
「僕も戦う」
ニールの懐から引き抜かれたのは、血で刀身が錆びたナイフ。ルキフェルとマテオは思わず目を見開き、ジャスパーも顔を強張らせた。遠目から彼らの様子を見ていたフランソワが叫ぶ。
「やめとけやめとけ! 錆び付きナイフじゃ、素手で戦うのと同じだ!」
フランソワは自分のスペアの剣を抜き、ニールの手元に差し出した。
「ほら。お手並み拝見といこうか」
ニールは驚いた表情を見せつつも、フランソワの剣を受け取って握りしめる。傾れ込むイングランド海軍兵たちの軍勢が、鎧の金属音と足並みの揃った行進が拠点の静けさを切り裂く。その光景を目にしたエドガーは鋭い目で隊列を見据え、自ら剣を抜き放った。
「行くぞ、皆!」
号令一つで、エドガー海賊団の戦闘員たちが海軍兵たちに襲いかかる。港の石畳を駆ける足音、ぶつかる刃、飛び散る水しぶき。入江は瞬く間に戦場と化した。
フランソワとエドガーは型破りな動きを見せ、互いに連携しながら意表を突く斬撃で海軍兵を翻弄する。二人の剣が飛び、受け手の肩や腕をかすめるたび、海軍兵たちは混乱に陥る。
ジャスパーは流派に縛られない独特の剣裁きで、手足の長さを活かした連続の斬撃を繰り出す。左右に揺れながら回転し、間合いを変え、まるで影が舞うかのように複数の敵を切り裂いた。
マテオは義手の左腕に剣を構え、右腕には身体に巻き付けた五梃の短銃を瞬時に一発ずつ放つ。反動を見越した動作で全弾を命中させ、海軍兵の胸や肩を貫く。その所作は機械仕掛けのように正確で、戦場の中で一際異彩を放つ。
ニールは優雅かつ洗練された西洋剣術で敵を薙ぎ倒す。鋼の軋む音と共に軽やかな足運びで間合いを取り、剣の刃先は一度も無駄になることなく標的を捉える。
あのフェルナンドは高らかに笑いながら、目は冷徹に鋭く光り、海兵たちを切り裂いていく。
ルキフェルはカットラスを握り、敵兵の鎖付き棍棒を受け流しながら宙を舞った。跳躍と回転の連続で、刃が光を切り裂く。目の前の兵士が不意に足を滑らせた瞬間、ルキフェルの剣はためらうことなく相手の胸を貫いた。冷たい鉄の感触と共に血が顔面に跳ね、髪や外套を赤く染める。
その血の感触に、存在しないはずの記憶が脳裏に閃いた。
暗闇の中で誰かが斬られ、血が降りかかる──見知らぬ女の顔、悲鳴、熱い液体の重み。
その記憶が現実と混ざり、不意に眩暈を起こしてルキフェルは額に手を当てた。
「今のは……?」
倒れ伏した兵士は口を泡で汚し、足を痙攣させながら呻いている。ルキフェルの鼓動が耳を打ち、カットラスを握る手に僅かな震えが走る。鉄の臭気が生々しく、時間が歪むように長く感じられた。
「これ、俺が……?」
初めて自分の手で人を殺めた重さが、全身を押し潰すように襲う。血の匂いとべっとりと絡みつく感触、倒れる兵士の痙攣する手足、恐怖と動揺で揺れ、冷たい汗が背中を伝う。手にした剣の重みは単なる武器ではなく、命を奪う自分の象徴となった。ルキフェルは血塗れの剣を握り直し、戦場に視線を巡らせた。目の前で砕け散る木材、悲鳴を上げる兵士、飛び散る血が彼の感覚を鋭く研ぎ澄ます。
「……上等じゃねえか」
呟く声は震えるどころか冷たく、戦慄を帯びていた。かつて自分を苛んだ存在しないはずの記憶も、今この瞬間にはどこか遠くへ消え去った。頭を過るのはただ一つ。
「俺は仲間を守るために、影になるって決めたんだ」
剣を振るうたび敵兵の体が空中に跳ね、地面に崩れ落ちる。苦痛に歪む表情も、脳裏に焼き付くことはなく、ただ無数の障害を排するための手段に変わっていった。
ルキフェルの動きは太極剣の流麗さを保ちながらも、刃は躊躇いなく相手を貫く。鋭い蹴り、回転、跳躍──彼の体は戦場の渦に溶け込み、敵を次々と切り伏せていく。血の飛沫が視界に入り、鉄の匂いが鼻を突き、敵兵の呻き声が耳を打つが恐怖はなく、あるのは冷徹な判断と仲間を守る覚悟だけだった。一振りごとに敵は地面に倒れ、空いた空間を次の標的に向けて疾走する。
ルキフェルの眼差しは冷たく澄み切り、戦慄させるほどに無慈悲だ。かつて人を殺めることを怖れ、手加減をしていた自分はもうそこにはいない。一線を超えた者だけが持つ、恐怖を知らぬ力──それを手にしたルキフェルはもはや止まることなく、仲間たちの安全を確保するため、戦場を駆け抜ける。
そんな彼の姿を、マテオとジャスパーは息を飲みながら見つめていた。マテオでさえ言葉を失い、ジャスパーも目を丸くして「……マジかよ」と唇を噛むしかなかった。
「あんな動き、見たことない」
ニールが思わず声を漏らす。洗練された西洋剣術を身につけた彼でさえ、その流れるような連続動作の正確さと殺意の鋭さに驚きを隠せなかった。フェルナンドは目を浮かべて微笑し、エドガーも目を輝かせ、遠目から声を上げる。
「お、あのマントの兄ちゃん、やるじゃないか!」
フランソワは喜びでもなく驚きでもなく、ただ震えている。
「……なんてことだ……」
彼の眼には怒り、悔しさ、そして言葉にできない悲しみが入り混じっていた。胸の奥で熱く込み上げる感情が、まるで体を引き裂くように震えを生む。フランソワは手で顔を覆いながら、目の前で戦場を駆けるルキフェルの姿を見つめた。彼の心にはルキフェルの力がもたらす現実に対する絶望が押し寄せていた。
対して、ルキフェルの目はもはや恐怖も躊躇も映していなかった。剣を振るう度に兵士が倒れ、血が飛び散る。皮膚に、外套に、乱れた髪に、血の匂いが纏わりつくが、頭の片隅でかつて暗闇の中で誰かが斬られる記憶の断片が微かに瞬く。
「……関係ない」
今、ここで彼が守るべきは仲間だけ。過去の痛みも迷いも、罪悪感も、今は何の意味も持たない。太極剣の流れる動きとアクロバットの身のこなしで、海軍兵たちは次々と翻弄され、彼の足音は乱れることなく敵と仲間を見据えた。フランソワは再び震える声で呟く。
「……リュウに申し訳が立たん……」
ルキフェルの剣が最後の一閃を決めると、周囲に散らばっていた海軍兵たちは、戦意を喪失して次々と逃げ出した。鎖や棍棒を放り投げ、足早に港の奥や街路へと消えていく。
残された者たちの目には恐怖と絶望が宿っていた。まるで、この戦場の支配者は人間ではなく、影そのものの存在であるかのように。
一瞬の静寂が訪れる。遠くで波が砕ける音と、血に濡れた剣先から滴る赤が、戦いの痕跡を物語る。ルキフェルは深く息を吸い込み、初めて自分の胸を覆っていた緊張と殺意を解き放った。振り返れば、仲間たちの姿。皆、まだ戦慄の残る瞳でルキフェルを見つめるが、ルキフェルは血で汚れた外套を振り払い、目を閉じて深く息をつく。彼の背中を見たマテオやジャスパー、ニールは恐怖と尊敬、安堵が入り混じった表情でルキフェルの存在を噛み締めていた。




