第四章① フランソワ船団
フランソワ船団がサン・マロに戻ってきた。
荒れた帆は張り替えられ、船体には新たな塗装が施され、港の空気はひどく穏やかだった。潮の匂いと油の匂いが混じり合う中、船員たちは束の間の休息を謳歌していた。
甲板ではマテオとジャスパーが取り留めのない話を交わし、ルキフェルは手摺に寄りかかって海を見下ろしている。波は緩やかで、まるでこの穏やかさが永遠に続くかのように錯覚させるが、静けさというものは往々にして嵐の前触れである。
午後の日差しが傾き始めた頃。港に停泊する彼らの船に一隻の小舟が近づいた。乗っていたのは痩せた男。埃を被った外套の袖口から、封蝋のついた書簡が覗いている。船員の誰かが合図するよりも先に、ルキフェルはその印章に目を留めた。
深紅の蝋に押された、髑髏と三本の交差した剣の紋章。
イングランドの私掠船長、エドガー・ロジャースのものだった。ルキフェルが眉を寄せると、ちょうど彼の背後からフランソワが現れた。
「お、敵に塩でも送りつけてきたか」
フランソワが苦笑とも呆れともつかぬ声で呟く。彼は書簡を受け取り、蝋を割って中を広げた。紙の端に記された短い文は、まるで悪友の酒席の誘いのように軽い。
最後にアイルランドで一暴れする。お前の腕を借りたい。
それと、ウェールズに残した連中を連れていく。護衛してくれ。
──エドガー・ロジャース
読み終えたフランソワは、ふっと鼻で笑った。
「やれやれ、あの馬鹿がまた厄介ごとを持ってきやがった」
フランソワは書簡を握りしめたまま、桟橋を見下ろした。ルキフェルはフランソワの背を見つめたまま口を開く。
「……どうする?」
「決まってる。行くさ、あいつとは腐れ縁だからな」
「行くって、どこへ?」
「アイルランドだ」
「は?」
マテオの間の抜けた声が潮風の中に響く。
「おいおい、オレたちフランス側の私掠船団だろ? 敵地に出向くとか、正気かよ」
ルキフェルも腕を組み、真剣な眼差しでフランソワを見据えた。
「……フランソワ。なんで敵であるはずのエドガーの元に行くんだ?」
フランソワは彼の視線を正面から受け止め、口の端をわずかに吊り上げた。
「理由なんざ単純さ。俺とエドガーは昔からの悪友だから」
そう言って笑う彼の目は、懐かしさと警戒の入り混じった光を帯びていた。ルキフェルは何も言えず、潮風に揺れる髪を押さえた。これにはジャスパーでさえ眉を顰める。
「まさか、アイルランドで何か企んでるんじゃないか」
フランソワは苦笑した。
「あいつが企むのはいつものことだ、ジャスパー」
ルキフェルとマテオが顔を見合わせる。フランソワは三人を見回した。
「行くなら準備をしろ。今回は少数で動く。……四人で行こう」
「四人?」
マテオが聞き返すと、フランソワは頷いた。
「まずはガーンジー島へ向かう。あそこはイングランドお抱えの島だ。エドガーと合流するなら、そこしかない」
そう言いながらフランソワは水平線にを向けた。夕陽に照らされた海面は鈍く光り、これから始まる一件の波乱を予感させていた。
密使を乗せた小舟は、港の外れにひっそりと繋がれたままだった。フランソワの指示を受けた三人は潮風を背に、それぞれの持ち場で密やかな旅支度を始めていく。
ルキフェルの部屋には油の匂いが漂っていた。机の上には一本のカットラスが置かれ、ルキフェルは布で丁寧に刃を拭っている。手慣れた動作ではあったが、彼の目はどこか遠く、これから訪れる未知の海を見つめているかのようだった。磨き上げられた刃が、夕日を受けてほのかに赤く光る。ルキフェルの寝台では、マテオが無造作にシャツを肌けながら五丁の銃を剣帯に巻きつけている。
「……どうせまた、ろくでもない旅になるんだろう」
そんなことを呟きながらも、マテオの指先は迷いなく動いている。手に取ったナイフを夕日の中にかざすと刃先が赤く染まった。ジャスパーはといえば、部屋の隅で剣帯に携えたカットラスを弄びながら、壁に掛けられた古びた鏡を覗き込んでいた。鏡は何年も前から割れたままで、亀裂の隙間に煤が入り込んでいる。彼はその歪んだ鏡像に映る自分の顔を、どこか興味深げに見つめていた。
「割れた鏡に映る顔ってのは、悪い前兆だって言うが」
ジャスパーの口の端にわずかな笑みが浮かぶ。
「まあ、今さら縁起なんて気にしねえさ」
ルキフェルは刃を最後に一拭きした。カットラスの手入れを終え、剣帯を肩にかけてカットラスを吊るす。外套を羽織りながら、彼はふとマテオの方を見た。
「なあ、マテオ。いつから銃を持つようになったんだ」
ルキフェルの問いかけに、マテオは肩をすくめながら答える。
「そりゃあ、あれよ。ルカ。お前は剣の腕がピカイチすぎる。オレは腕一本でも剣は振れるが、それでもお前には敵わねえ」
ルキフェルが苦笑するとマテオはニヤリと口角を上げ、ナイフをくるりと指の間で回した。
「だから思ったのさ。お前に勝つには、銃しかねえって。片腕でも撃てるし、鍛えれば当てられる」
「……俺たち、いつの間にか張り合ってのか?」
ルキフェルが呆れ気味に言うと、マテオは声を張り上げた。
「うるせえ! オレだってな、お前が強すぎて悔しいんだよ。それに……銃なら、遠くからでもお前を援護できる。片腕のオレでも」
ルキフェルは目を伏せ、夕陽の差す窓の外に目をやった。すると、ジャスパーが薄く皮肉を含んだ声で口を挟んだ。
「おいおい、ルキフェルの質問にまだ答えられてないぜ。 マテオが銃を持ち始めたのは、この間の戦闘から」
ジャスパーの一言に、ルキフェルの手が一瞬止まった。剣帯に納めたカットラスの柄をぎゅっと握り直し、目を見開いてマテオを見る。
「マテオ、お前……戦闘に出たのか?」
ルキフェルの声が思わず荒くなる。続けざまに、記憶が繋がるように口が滑った。
「あの日、なぜかお前の姿が見えなかったんだ。フランソワは、俺とマテオに『隠れろ』って言っただろう!」
ジャスパーは肩をすくめて、悪戯っぽく笑った。
「いつものやつだな。けど、どうやらマテオは隠れてなかったらしい。——おれの分まで働きやがってよ。」
マテオは淡々と答えた。
「オレだって、船団のために戦う」
ルキフェルの眉が険しく寄る。甲板で銃が飛び交う光景を想像して、理性が先に反応した。
「船の上で銃を使うなんてリスクが高すぎる。流れ弾が味方に当たったらどうするんだ。あんな混戦で狙撃なんて——」
「だったら外さず、確実に狙って当てればいいだけだ」
マテオは薄く笑みを含ませながらルキフェルをまっすぐに見据えた。ルキフェルは一瞬、胸の奥がざわつく。銃弾の危険性を説く理屈と、マテオの無言の自負。両方が頭の中でぶつかるが、答えは出ない。ジャスパーはふふ、と笑って二人の肩を叩いた。
「まあよ。お前ら二人とも、やり方は違えど船のために動いてるってことだ。あとは……お互いに当てないように気を付けてくれよな、頼むから」
ルキフェルは息を吐き、剣の柄に触れたままマテオを見返す。すると扉が唐突に開き、木の軋む音とともにフランソワが現れた。彼の外套には潮風の匂いがまだ残っている。
「そろそろ出るぞ。エドガーの連中をあまり待たせない方がいい」
フランソワは言い放ちながら、部屋の中をぐるりと見渡す。ルキフェルたち三人はすでにそれぞれの支度を終えていた。マテオは銃を、ジャスパーは剣を確認し、ルキフェルは外套の襟を正してる。フランソワはそんな彼らに満足げに頷くと、ルキフェルのほうを見やって軽く顎をしゃくった。
「それと、しっかり顔を隠せよ。エドガーに見せてもいいが……あいつに何を言われるか堪ったもんじゃないからな」
ルキフェルは眉をひそめ、舌打ちをひとつ鳴らした。
「わかってるよ」
フランソワは口角を上げ、ルキフェルの肩を叩くと踵を返した。船室の扉が閉まる音とともに、潮の匂いと外のざわめきが一瞬だけ流れ込む。沈黙の中でルキフェルは外套のフードを深くかぶり、夕日に染まる港の影をじっと見据えた。出航の気配が近づいている。
三人が甲板に出ると、潮風が頬を撫でた。空はすでに薄暮を帯び、海面には夕陽の名残が赤く滲んでいる。フランソワは船首に立ち、集まってきた船員たちへといつもの調子で声を張り上げた。
「諸君! 今夜はちょっとした取引だ。規模は小さいが、大事な話がある」
「取引、ですか?」
誰かが問うと、フランソワはにやりと笑って肩をすくめた。
「大したもんじゃねえ。心配すんな、近日中には戻る。お前たちはゆっくり休んでくれ」
ルキフェルはマテオとジャスパーと共にタラップを降り、桟橋に繋がれている小舟へと足を向けた。エドガーの密使が舵を握り、無言のまま一礼した。三人は順に乗り込み、最後に乗り込んだフランソワがロープを解くと海へと漕ぎ出した。船体が離岸する音だけが夜の海に溶けていく。誰一人声を上げず、櫂の音と波のさざめきだけが響く。遠ざかる母船の灯りを背にフランソワは低く呟いた。
「……目的地はガーンジー島。誰にも気づかれるな」
小舟は闇の帳に包まれながら、密やかに敵国の影が落ちる海へと消えていった。




