第三章⑦ ルキフェルとマテオ
甲板の片隅、木箱を即席の机代わりにして四人が集まる。ジャスパーとフランソワは盃を手にし、夕陽を背に杯を軽く合わせていた。ルキフェルとマテオは少し離れて並び、二人の様子を無言で眺めている。フランソワが杯を木箱の上に置き、細く笑って言った。
「それにしても、マテオ。お前にそんな腕があったとはな。見くびっていたよ、正直に言うと」
マテオは冷ややかな笑みを浮かべ、杯の縁に指を触れたまま淡々と答える。
「あの船長が馬鹿すぎ。舐めてかかる奴が多すぎる。オレが本気出せば、この船、血溜まりにできるぜ」
一瞬、甲板の空気がピリリと引き締まる。フランソワはその言葉にさほど驚かず、むしろ含みのある目でマテオを見つめた。
「お前は昔を引きずっているのか。けど、ここで死者を増やしてはならん。お前の腕は役に立ったが、これからはその力をどう使うかだ」
ジャスパーがくすりと笑って間をつなぐ。
「おうおう、物騒な発言だな。けどさ、マテオ。お前がいなかったらおれたち全員やられてたかもしれないだろ。手柄はちゃんと勘定に入るかもな?」
マテオは少しだけ口元を緩めた。
「勘定だの手柄だの、どうでもいい。生きてりゃいいんだ」
ルキフェルはやり取りを横目に杯に手を伸ばした。
「……今日のことは忘れない。だが、二度とこういう無用な流血は起こすな。分かったか?」
マテオはじっとルキフェルの瞳を見据えて頷いた。
「わかってる。けどよ、オレを侮るな」
フランソワは二人の間を柔らかく見渡し、掌で自分の杯を軽く叩いた。
「いいか、俺たちは船団だ。それぞれに過去があり、それぞれに宿命がある。けど、ここでは互いを守る。それだけは忘れるな」
ジャスパーが豪快に笑い声をあげ、杯を掲げた。
「じゃあさ、祝杯といこうじゃねえか! 今日の勝利に乾杯!」
四人の杯が合わせられた。ルキフェルはそっと杯の中の液体を覗き込み、淡い琥珀色に透けるその香りを吸い込んだ。緑茶葉、ドライジンジャー、ナツメ、ほんの少量の蜂蜜、慣れ親しんだ味わいが口の中に広がる。まだ酒を口にできない船員たちのために、こうしたブレンドが用意されているのだ。
マテオの杯も同じ色と香りを漂わせている。ルキフェルにとっては昔から口に馴染んだ味。ほのかな渋みと甘みのバランスが心地よく、自然と喉を通る。だが、マテオはそうはいかないらしい。何度口にしても舌に合わないのか、飲むたびに眉間に皺を寄せている。ルキフェルは彼の様子を観察しながら、微かに笑みを浮かべた。
「まだ慣れないか」
マテオは苦々しく顔を顰め、少しずつ口の中に液体を流し込んで無言で味わう。ルキフェルの方を見る目は、いつもの冷静さと好奇心が混ざったような輝きを帯びていた。マテオは杯をゆっくり置き、吐き捨てるように言った。
「たぶん、オレはお茶がダメなんだろうな」
するとジャスパーが少し赤らんだ顔で苦笑混じりに返す。
「お前さー、十九歳って自称してるから、酒が振る舞われないんだぞ。文句言うなよ」
マテオは即座に首を振り、声を張り上げる。
「自称じゃねえし。事実だし」
ルキフェルは目を見開いてマテオに問いかける。
「マテオ、十九なのか?」
マテオはにやりと笑って答えた。
「そうだよ。なんか文句あるか?」
ルキフェルは笑みを浮かべる。
「俺も十九」
マテオは目を丸くし、少し間を置いてから吐き出すように言った。
「……マジかよ。落ち着きすぎだろ、お前」
ルキフェルは杯を弄びながら言った。
「フランソワが言うには、俺は夏に生まれたらしい」
マテオは軽く肩をすくめ、笑みを浮かべて返す。
「奇遇だな。オレも夏に生まれたってよ」
陽が落ちると、司厨手が手際よく料理を運んできた。四人は甲板の上で夕飯を兼ねた宴会を始める。柔らかなランタンの灯りのもと、他愛もない雑談に笑い声が混ざり、時折航海や戦略についての意見が交わされる。ルキフェルとマテオ、ジャスパーの仲睦まじい様子を、フランソワは注意深く見守っていた。やがて笑い声が途切れ、ジャスパーが「おれもう寝たいわ」と呟いたのを合図に、宴会は自然とお開きとなる。ルキフェルとマテオが片付けをしている間、フランソワはジャスパーが甲板の階段を無事に降り切るまで苦笑しながら見守っていた。
——あれでは、早朝の操舵は任せられないな。
ほどなく判断を下すと、フランソワはルキフェルとマテオに顔を向け、静かに言った。
「それじゃ、俺も休ませてもらう。二人ともしっかり休め」
言い終えると、フランソワは船長室へと足早に消えていった。ルキフェルとマテオが片付けを終えると、マテオが肩をすくめて言った。
「じゃ、オレもう寝るわ。別に他の奴より早く寝たっていいよな?」
ルキフェルは頷き、「ああ、もちろんだ」と応じる。マテオは微笑みながら続けた。
「お前もさ、大人ぶってるのも疲れるだろ。オレといる時だけは素でいろ」
ルキフェルは少し照れくさそうに答えた。
「悪いな、これでも精一杯だ。どうも、本当の自分でいるのが苦手で」
マテオは真剣な瞳で言った。
「そうかよ。ま、オレはどんなお前でも受け止めてやるから」
ルキフェルはその言葉に、ランプの柔らかな光に照らされたマテオの整った顔をじっと見つめた。こんな美形を目の前にしても、今は心に闇が広がらない。あれほど嫉妬で狂っていたはずなのに。もし隣にマテオがいて、その光で自分を照らしてくれるのなら自分は影のままでいい。影のままでも、その光に守られながら生きていける。マテオは少し笑みを浮かべ、軽く肩を竦めながら言った。
「んじゃ、おやすみな。マスター」
ルキフェルはその呼び方に真剣な瞳で返す。
「ルキフェルって呼んでくれ」
マテオは目を細め、からかうように笑った。
「ルキフェル、か。そんな不吉な名前、お前には似合わねえよ」
ルキフェルは一瞬言葉に詰まり、首を傾げてつぶやく。
「そうだろうか……」
記憶を失ってから、この名だけが自分の心の拠り所だった。まさか、真っ向から否定してくる者が現れるとは夢にも思わなかった。だが、どこか心が軽くなるような感覚が胸の奥で静かに広がった。マテオはしばし考え込むように唇を噛み、低く呟いた。
「そうだな……」
やがて、マテオはルキフェルに目を向けて、にやりと笑った。
「んじゃ、お前は今日から“ルカ”だ」
「……ルカ?」
ルキフェルは一瞬、聞き慣れない響きを反芻し、自分の中に刻まれたもう一つの名を噛み締めた。
「ずいぶん簡略化したな」
ルキフェルが眉をひそめると、マテオは片手を振りながら笑った。
「ハッ! お前がなんと言おうと、オレはこの名で呼ぶから」
そして彼は少し間を置き、穏やかな声で続けた。
「これからも頼むよ、ルカ」
ルキフェルは頷き、柔らかく答える。
「ああ。頼りにしてるぞ、マテオ」
マテオは笑みを浮かべ、船内への階段を降りていく。
ルキフェルは彼の背中を見送りながら甲板に立ち尽くし、静かな海の夜に包まれていた。ふと見張り台を見上げ、息を吐くと索具に手をかけて足を掛け、軽やかに登り始めた。
帆桁を渡る風が思いのほか強く、登るたびに外套がはためいては、まるで彼を海へ引き戻そうとするかのように乱れた。風を避けるように肩をすくめ、ロープに身を寄せながら一歩、また一歩と慎重に進む。強風はしばらく止まず、見張り台まではなかなかの道のりだった。焦る気持ちを押さえつけ、呼吸を整えながら耐え抜く。
まともな判断ができているのは、酒を口にしなかったおかげかもしれない。
やがて、空がわずかに白みはじめる。吹き荒れていた風も次第に弱まり、帆のきしむ音だけが静かに響いた。最後の索具を掴み、一気に体を持ち上げて見張り台へと登り詰めた瞬間、東の水平線から太陽がわずかに顔を覗かせ、海面を淡い金に染めていった。夜と朝の境を分かつ光の中で、彼は目を細めて息を整えた。
ルキフェルは見張り台の手すりに手をかけたまま、昇りゆく朝日をただ眺めていた。水平線を割って伸びる光が彼の頬や髪を金に染め、甲板の影までも淡く照らしていく。光があまりにも眩しく思えて、彼は腰を下ろした。足元に広がる海は、夜の名残をわずかに残したまま揺れている。
──幾つになっても、この朝日は自分には眩しすぎる。
そう思うたび、胸の奥がわずかに軋んだ。いつまでも闇の中にいたいと願っても太陽は容赦なく昇り、世界を照らしてしまう。ルキフェルはその光から逃げるように、ゆっくりと目を閉じた。まぶたの裏で朝の光が薄く揺らぎ、代わりに波の音が静かに耳を満たしていった。
「おーい、ルカー!」
下から呼ぶ声に、ルキフェルはハッとして目を開けた。いつの間にか夜はすっかり明け、見上げた空は澄み渡る青に染まっていた。波の音に混じって吹き抜ける風が、彼の髪を軽く揺らす。目の前に広がるのは、空と海が溶け合うように交わる光景。思わず口元が緩む。
──ああ、この景色なら、いつまでも見ていられるのに。
見張り台から身を乗り出し、声の主を探すと甲板の上でマテオがこちらに向かって手を振っていた。
昼の陽光に照らされたその姿は、あいかわらず整った顔立ちをしていて、今はどこか少年の面影よりも大人の色気を帯びて見えた。
ルキフェルは見張り台の手すりに片手を添え、下で手を振るマテオの姿を一瞥すると、傍らのロープに手を伸ばす。ざらついた繊維の感触を確かめ、手首に一巻き、もう一巻き。指先がしっかりと食い込み、掌に血が通うのを感じた。息を吸う。胸の奥で風が渦を巻く瞬間、ルキフェルは迷いなく踏み出した。
——風が爆ぜ、身体が宙を舞い、外套が翼のように広がる。
陽光を浴びた帆布が銀色に閃き、彼の影が甲板の上を疾走した。ロープがきしみ、腕に鋭い痛みが走るが、その痛みすら生を実感させる歓喜に変わる。海風が頬を叩き、塩の匂いが鼻を抜けた。重力に引かれながらも、心は逆に浮かび上がっていく。空と海の境目を切り裂くように、彼は真っ直ぐに降りていった。やがて、ふっと身体の重みが抜ける。ロープを手放した瞬間、足が甲板を踏みしめ、軽やかな着地音が響いた。風を背に、ルキフェルは顔を上げる。
二十二歳。
かつて少年の面影は遠くへ、輪郭は鋭く、瞳には落ち着いた光が宿っている。少し日焼けした肌と引き締まった腕。潮風に鍛えられた身体は、今や一人の青年ではなく、仲間を率いる男としての風格を纏っていた。変化は微々たるもの。それでも、時間は彼を形作っていった。
孤独と後悔に囚われていた十九の頃とは違う。今は隣に笑う友がいて、語り合う夜がある。彼らの笑顔に触れるたび、胸の奥の闇は少しずつ和らいでいった。風が吹く。
どこまでも晴れ渡る空の下、ルキフェルは微かに目を細めた。彼の横で、マテオが片手を突き出すように肩を叩いた。
「なあ、あの時のこと、覚えてる?」
「どの時?」
「見張り台といえば、あれしかないだろ。みんな探し回ってたら、お前が上で寝てたやつ。あれ、忘れられねぇわ」
マテオは笑いながら肩をすくめ、悪戯っぽく言った。
「馬鹿だろ。でも、最高だったぞ」
ルキフェルは一瞬吹き出して、それから小さく息をついた。
「……あの時は、ただ波の音を感じたかった」
陽光が二人の頬を照らし、白く眩しい波頭が遠くで弾けた。その光景は、あの頃の延長線上にありながら、今という時間の中で眩しく続いている。マテオの笑い声が風に溶けていく。
ルキフェルはふと彼の横顔を盗み見た。片腕の袖は風を孕んでわずかに揺れていた。
本来なら、欠損した船員は船を降りる。それが掟であり、常識でもあるが、この男は降りなかった。あの日、自分の側にいると約束した、その言葉のままに。今も彼はここにいる。自分のすぐ隣に。そして、これからもそうしてくれるのだろう。
ルキフェルは小さく息を吐いた。潮の匂いの中で、胸の奥がわずかに熱を帯びる。
心のどこかで、誰よりも信じている相手がいる。これほどまでに静かな力になるとは、十九の頃の自分には想像もできなかった。
「……なあ、マテオ」
ルキフェルが不意に口を開くと、隣のマテオがゆっくりと彼の方へ顔を向けた。朝の光が二人の髪を暗褐色とキャメル色の糸のように照らしている。
「俺達……この先、どんな奴と出逢うんだろうな」
ぽつりと零れたルキフェルの言葉に、マテオは少し目を細めて笑った。
「そりゃルカ、面白いやつに決まってるだろ」
「面白いやつ?」
「ああ。オレとジャスパーみたいな、それかもっと変な奴にな」
そう言ってマテオは空を仰ぎ、続けた。
「どんな荒波が来ようと、考えるだけでワクワクするな」
ルキフェルは思わず笑みを漏らした。
「マテオ、自分を変な奴と自覚してるのか?」
「うるせーよ」
頬を掻き、吐き捨てたマテオの声が潮風に溶けていく。その時、背後から陽気な声が飛んだ。
「おーい、二人とも! サボってねえで舵、見に来いよー!」
操舵輪を回すジャスパーが手を振っている。ルキフェルとマテオは顔を見合わせた。甲板を渡る足音が響く。まばゆい陽光の下で三人分の笑い声が混じり合い、どこまでも青い空へと溶けていった。
直後、風向きが変わった。
操舵輪の側に立つ三人の頬を見知らぬ潮の匂いがかすめていく。
まだ誰も知らない、新しい出逢いの気配を乗せて。




