第三章⑥ ルキフェルとマテオ
甲板の喧騒が少し遠くなり、ルキフェルの目はついに静かに立つマテオを捉えた。
マテオは戦闘の余韻も意に介さず、血で汚したシャツを着たまま船尾で海を見つめている。その背中には、片腕ながらも戦いを終えた者の凛とした佇まいがあった。ルキフェルはマテオの隣に立ち、しばし波の音に耳を傾けたあと口を開いた。
「……さっきは助かった」
マテオは無言で、少しだけルキフェルに目を向ける。ルキフェルはマテオを見つめたまま続ける。
「お前がいなければ、フランソワはやられていた。……ありがとう」
マテオはわずかに肩をすくめた。ルキフェルは深く息をついた。この男が戦場で命を守る力を発揮した事実が、ルキフェルの胸に重く響く。思わず、胸に秘めていた温かさを言葉にしていた。
「……お前さえよければ、これからも俺の側にいてほしい。いつも頼りにしている。できれば、これからも頼りにしたい」
ルキフェルの言葉を聞いた瞬間、マテオの表情が一変した。眉をひそめ、鋭くルキフェルを睨む。
「はぁ?」
マテオは急に距離を詰めたと思いきや、ルキフェルの顔を覗き込んで低い声で続けた。
「その前に言うことあんだろ」
ルキフェルは一瞬、息を呑んだ。予想外の口調、荒々しすぎる言葉遣いに軽く後ずさるが次の瞬間、マテオは迷いなく拳を振り上げた。ルキフェルの頬に一撃が飛び込む。痛みと衝撃で視界と頭が揺れる。殴られた衝撃で頭が真っ白になり、甲板の波や風の感覚も一瞬遠のいて、気付けば甲板に身を沈めて空を仰いでいた。マテオが視界の中に現れ、ルキフェルを見下ろしながらゆっくりと拳を引き、鋭い声で言った。
「言っとくけどな? ……お前がオレにしたこと、許してねぇから」
単なる怒りだけでなく、記憶の奥底に刻まれた鮮烈な光景が絡みついていた。
——あの日、ルキフェルが自分の目の前で名簿をわざと落とし、焦る自分を見て薄く嘲笑ったあの瞬間。
手を伸ばして拾った自分の掌に残る軽い怒りと屈辱。今も脳裏に焼き付いて、鮮やかに蘇る。ルキフェルはマテオの鋭い視線に背筋を冷たくさせながらも、言葉を発する余裕はなかった。
「お前……覚えてるだろうな、あのときのこと……」
マテオの声は荒く、吐き出すように低く威圧を帯びていた。ルキフェルは思わず身を起こして後ずさりし、無意識にフードを深く被った。心臓の鼓動が耳の奥で跳ねる。
「……いや、ちょ、ちょっと待て……」
必死に声を絞り出すが、震える自分の声にすら力はない。マテオは一歩踏み出し、距離を詰めてくる。拳を握った右腕をわずかに振るだけで、ルキフェルはこれまでに感じたことのない恐怖を全身で感じた。
「お前。あのときのこと、ずっと忘れてねぇんだぞ。今日までずっとな!」
マテオの言葉にルキフェルは目を見開き、今まさに自分が面倒を見てきた男の凶暴性と執念が現実に立ち現れたのを理解する。マテオの身のこなし、筋肉の引き締まり、鋭い眼差しが計算され尽くした脅威だった。
ルキフェルはマテオの目の奥に潜む感情の変化を思い巡らせた。これまでの彼は常に冷静で、丁寧な言葉遣いでクールに仕事をこなし、誰に対してもよそよそしい態度を崩さなかった。腹の底を見せず、感情を表に出すことなど滅多になかった。
——ただ一度だけ、マテオの化けの皮が剥がれた瞬間もあった。
挑発に対して黙って受け流すのではなく、鋭く仕返しをしてきた。水をかけて怒りを返す、あの大胆な行動。そして、あの後の喧嘩。怒りで歪んだ表情、牙を剥くような態度。それが今目の前の凶暴な姿と共に、ルキフェルの記憶と重なった。
「……そうか……」
ルキフェルは思わず呟いた。これまで自分が見てきた表面上のクールさの奥底に、こんな力強い感情が眠っていたとは。彼が今ここにいる意味、自分がこれからも側に置きたくなる理由が、少しずつ理解できた気がした。ルキフェルはふと肩の力を抜き、にやりと笑った。その笑みを見たマテオは少し戸惑い、眉をひそめる。
「……そっちが本性だな」
ルキフェルは低く呟きながらも、納得したように顔をほころばせる。
「それでいい。そっちの方が生き生きしてて、お前らしいぞ」
ルキフェルの言葉には不思議な安心感と、どこか嬉しげな響きがあった。マテオは一瞬動きを止め、言葉を失ったままルキフェルを見返す。ルキフェルは静かに立ち上がるとフードを取り、外套を肩から脱ぎ捨てた。甲板の冷たい風が肌を撫で、彼の表情をくっきりと見せる。ルキフェルはマテオの瞳を見つめ、言葉を選ぶように息を整えた。
「……すまなかった」
マテオは一瞬、呼吸を止めて彼を見返す。
「俺があんなことをしたのは……お前の本性を炙り出したかったから」
ルキフェルの瞳は揺るがない。
「フランソワの言う通りだった。俺のやり方が間違っていた」
ルキフェルは深く頭を垂れ、甲板の木目を見つめた。
「申し訳ない」
ルキフェルの言葉には表面だけの謝罪ではなく、心の奥底からの誠意が滲んでいた。マテオの瞳は揺れた。
裏切りと絶望の果てに辿り着いたこの船で、孤立した日々を過ごす中、常に側に付き纏うルキフェルを見て、少しずつ心を開きつつも、どこかで「こいつもどうせ裏切る」と思っていた。だが今、ルキフェルが自分と真正面から向き合い、謝罪の言葉を口にした瞬間、マテオの胸に長くこびりついていた疑念や怒りは嘘のように薄れていった。
ルキフェルがかつて自分にした仕打ちは、もはや些細なことに思えた。それどころか、つい晒してしまった本当の自分を見ても「そっちの方がお前らしい」と言ってくれた。彼の言葉が、胸の奥で温かく跳ね上がった。
ガキの頃から口も気性も荒く、暗殺者“アウレア”として感情を押し殺し、裏社会で傭兵のように生きてきた自分。だが今、ルキフェルの真剣で澄んだ翡翠色の瞳を見つめると、心の奥底が救われるような感覚があった。
ルキフェルは、自分にとって光そのものだ。それなら、自分はその光を、命の燈ごと消すわけにはいかない。影の中で生き、感情を押し殺す必要もない。そう知った今、マテオは心に決めた。
ここで本当の自分を取り戻し、この光の傍に居続けよう。
静かな決意が、甲板上の風に揺れた。マテオは肩をすくめ、少し照れくさそうに口を開く。
「遅えよ、今さら……でも、悪かった。水かけたこと反省してる」
ルキフェルは一瞬戸惑ったが、すぐに笑みを浮かべた。ルキフェルの表情を見て、マテオもわずかに顔を緩める。その一部始終を、少し離れたところから見ていたジャスパーが大きな声で笑った。
「やっと謝ったー! まあ、おれの言った通りだったな。お前ら、良いコンビだぞ。仲良いねー」
ルキフェルとマテオは顔を見合わせ、同時に「よくねーよ!」と声をあげるが、次の瞬間には三人とも笑い出し、甲板に小さな温かさが広がった。ジャスパーが笑いながらルキフェルに声をかける。
「まあ、それにしても珍しい。おれ以外の誰かにその顔を見せてるの」
マテオは眉を顰めつつ淡々と返す。
「……ああ? そうだっけか」
ルキフェルは床に落とした外套を手に取り、丁寧に畳みながら答えた。
「これがないと俺は表に出られないんだ」
ルキフェルの手は自然と額から頬にかけて走る裂傷痕に触れた。
「皆を怖がらせるから」
マテオは少し困惑した顔でルキフェルを見つめて声を漏らした。
「なに? じゃあ、オレには見せてもいいってことか」
ルキフェルは穏やかに答える。
「ああ、そうだ。信じているから」
マテオはその言葉を反芻するように、小さく「信じてる、か」と呟いた。裏切りと絶望を味わってきた彼にとって、「信じる」という言葉は簡単に耳に入るものではなかった。だが今、目の前にいるルキフェルが真正面から、自分の目を見て言ったその言葉は、氷のように閉ざされていた心の扉を音もなく開かせた。心の奥底に押し込めていた警戒心と疑念がふっと溶けていく。自分も彼を信じていいんだ。マテオはルキフェルをじっと見つめ、少し照れくさそうに言った。
「さっき、これからも側にいてくれって言ったな」
ルキフェルは肩をすくめて、穏やかに答える。
「嫌なら断ってくれて構わない」
マテオの瞳がほんのわずかに光り、真剣な声で言った。
「いや。その誘い、乗った。オレは、お前の側にいる」
ルキフェルは思わず肩を震わせて小さく笑った。力強く、不器用ながらもマテオの気持ちは伝わってきた。マテオはぐっとルキフェルの目を見据え、声を落とす。
「それにさ。お前、その顔を見られたくないんだろ? 日陰者として生きていたいんだな」
ルキフェルは一瞬眉をひそめたが、黙って頷いた。夕陽が二人の間を斜めに横切る。マテオは続ける。言葉は静かだが、揺るがぬ決意が籠もっていた。
「いいさ。お前に危険が迫れば、オレが助ける。逆に、お前が暴走するようなことがあればオレが止める。容赦はしない」
「容赦しない」の一言に、マテオの瞳に一瞬だけかすかな柔らかさが滲んだ。照れを隠すように言葉を続けるそれが、彼なりの誓いの形だった。ルキフェルは彼の言葉を胸に受け止めるように、わずかに息をついた。頬に浮かんだ表情は、いつもの冷たさとは違う。安堵と戸惑いが混じったものだ。
「……ありがとう、マテオ」
マテオは彼の笑顔を見逃さず、少しだけ目を細めた。二人の間で、ジャスパーがにやりと口角を上げた声を上げる。
「おう、いい雰囲気だな。見てられねぇから、酒でも持って来るわ!」
ジャスパーは陽気に手を振ると、どこかへ走り去っていった。ルキフェルはふとため息交じりに呟いた。
「……お前が側にいてくれるなら、多少は顔を晒してもいいかもしれない」
マテオは素直に頷き、本来のぶっきらぼうな口調で返した。
「じゃあ期待はしとけ。お前の顔を馬鹿にする奴がいれば、オレがぶっ飛ばす」
ルキフェルはほんの僅かに笑って、甲板の向こうへ視線を投げた。海は夕陽を反射し、船は再び進み始める。二人の間に流れる空気は、少しだけ柔らかくなっていた。




