第四章② エドガー・ロジャース船団
四人を乗せた小舟は音もなく滑るように進んでいく。波は穏やかで、月も雲間から薄く顔を覗かせていた。フランソワは前方を見据え、ルキフェルは背後の海を監視していた。櫂を操っていた密使が、ふと肩をすくめるようにしてフードを脱ぐ。月光がその整った横顔を照らし、艶のある栗毛色の髪が風に流れた。
「……ここまでくれば、フランス野郎は誰も気にかけませんよ」
低くも柔らかな声。その口調と仕草には、海賊らしい粗野さの欠片もない。ルキフェルは思わず眉をひそめ、マテオと視線を交わした。フランソワは笑いを含んだ声で言う。
「ずいぶんと悠長だな、若いの」
フェルナンドと名乗ったその男は、芝居がかった所作で胸に手を当て、優雅に一礼してみせる。
「もちろん、イングランド側が気にしないとも限りませんので。油断は禁物です」
フランソワは微動だにせず、夜の海を見据えたまま低く呟いた。
「いいだろう。芝居の幕開けってわけだ」
フェルナンドの櫂捌きは見事なものだった。波立つこともなく、舟はまるで風に導かれるように進んでいく。やがて遠くに陸影が見えはじめ、フランソワが「ガーンジー島だ」と呟いた。夜霧の向こう、酒と笑い声の響く港町を避け、舟は静かな入江へと舵を切った。岩肌に囲まれた入り江は、外海の喧騒から切り離されたかのように静まり返っている。やがて小舟が浅瀬に差しかかると、砂浜に潜んでいた数人の影がバシャバシャと水を蹴って現れた。彼らはロープを掴み、小舟をぐいと引き摺り寄せる。
「待たせたな」
フランソワが言い、最初に砂地へと足を下ろす。靴底がぬかるんだ砂を踏む音が響く。そのあとにルキフェル、マテオ、ジャスパーが続き、それぞれ周囲を警戒する。最後にフェルナンドが軽やかに舟を降り、濡れた靴を気にも留めず、一行の前に立った。彼は振り返りざま、夜風を受けた髪をかき上げて微笑む。
「こちらへ。エドガー・ロジャースがお待ちです」
一行はフェルナンドの背を追って暗い入江の奥へと歩き出した。エドガーの私室は、船長室とは思えぬほど整然としていた。磨き込まれた木の机の上には航海図が広げられ、その上に散らばる小瓶や羽ペンが、男の几帳面な性格を物語っている。机に向かって何やら記し込んでいたエドガー・ロジャースは、扉がノックされると同時に顔を上げた。
「入れ」
フェルナンドが扉を押し開け、優雅に一礼して中へ入った。彼の背後から、フランソワが姿を現す。エドガーは一瞬、目を見開いた。次の瞬間には羽ペンを置き、椅子を引いて立ち上がっていた。
「——フランソワ!」
その声には驚きよりも、懐かしさが滲んでいた。勢いよく机の前を回り込み、彼は笑いながら歩み寄る。
「まさか本当に来るとは」
フランソワも腕を広げて迎えようとした。
「お前が助けろなんて言葉を使う日が来るとはな、エドガー」
二人は互いの肩を叩き合い、かつて敵国として刃を交えたことなどまるでなかったかのように、旧友としての再会を心から喜んだ。フェルナンドが口元に微笑を浮かべながら控えめに一歩下がり、ルキフェルたちは二人の光景を黙って見つめている。国や立場を超えて繋がる者たちの、数少ない真の友情のようにも思えた。エドガーはフランソワとしばし笑い合った後、ふっと真顔になり、机の上のワイン瓶に目をやった。
「さて。再会を祝して一杯やりたいところだが、今はそれどころじゃない」
エドガーの言葉に、フランソワの笑みが静かに消える。
「……だろうな」
フランソワは懐から密書を取り出すと、無造作に机の上へ放った。蝋印の跡が光を受けて鈍く反射する。
「エドガー。さっそく本題だが、これはどういうつもりだ?」
エドガーは密書を手に取り、軽く指で弾くと鼻で笑った。
「単純な話だよ、フランソワ」
「単純?」
「ああ。オレはもう、国家のために働くのが性に合わん」
窓の外、潮騒が聞こえる。彼はその音を聞きながら、ゆっくりとワイン瓶の栓を抜き、グラスに赤い液体を注いだ。
「イングランドはオレに私掠免状をくれたがな。あれは結局、首輪みたいなもんだ。王のために略奪し、戦のために命を懸ける。馬鹿らしい」
エドガーはグラスを手に取ると軽く掲げた。
「オレはオレらしく生きたい。たとえ無法者と呼ばれようと、自分の旗の下で海を行く。誰の命令も受けず、誰にも支配されない。それが自由ってやつだろ?」
フランソワは彼のに耳を傾けていたが、やがて口の端を吊り上げる。
「……お前らしいな、エドガー」
フランソワは机の上に手を置き、真剣な眼差しで問いかけた。
「それで? 俺たちを呼びつけた理由はなんだ。しかも、護衛」
エドガーは椅子に腰掛け、軽く笑みを浮かべながら答える。
「どうせ国に逆らうんだ。エドガー海賊団としての第一歩を、お前と踏みたかったんだよ」
フランソワは眉をひそめ、さらに突っ込む。
「君の仲間はどうなんだ? 納得してるのか」
エドガーは肩をすくめ、静かに言った。
「すでに話はつけてある。多少降りた奴はいるが、オレは止めはしない。まあ、元船乗りは全員降りなかったな。ただの船乗りに戻れば、また地獄を味わう。特にイングランドの船乗りは」
フランソワは呆れたように目を細め、口元に笑みを浮かべる。
ルキフェルは二人のやり取りを、少し離れた位置からじっと眺めていた。手は自然にカットラスの柄に触れつつも緊張を抑えるようにしている。
エドガー・ロジャースとはこれまでにも何度か顔を合わせたことがあるが、そのたびに胸の奥に微かな圧迫感が生じ、やはり苦手意識が消えない。フランソワとエドガーは旧知の仲だと言うが、エドガーの瞳の奥に渦巻く炎のような圧力を感じるたび、ルキフェルは思わず目を逸らし、手元の外套に触れる指先にさえ力が入りそうになる。
それに、私掠船を辞めて無法海賊になるというエドガーの破天荒な決定。
どうしても納得できない。海賊でありながら、心のどこかでフランスという国に忠義を尽くしている小さな誇り。ルキフェルはエドガーから目を逸らしながら、今初めてその誇りの存在をはっきりと自覚した。
マテオはやや生意気に首を傾げながら言った。
「なあ、ただの船乗りでいることと海賊ってどう違うんだ?」
ジャスパーは苦笑し、ゆっくり口を開く。
「んー、労働環境が違いすぎるかな。船乗りはねー、マジで最悪」
ルキフェルとフランソワが少し眉をひそめる中、ジャスパーは続ける。
「上の奴らがとにかく最低。怒鳴って偉そうにしてるだけ、なのに給料は良い。おれたち下っ端は低賃金でまともに暮らせやしない。そりゃ、一回の略奪で大金を手にできる海賊に転身する奴は多いよ。海賊の方が夢があるってもんさ」
エドガーはマテオを一瞥し、にやりと笑った。
「ほう、初めて見る顔だな。めちゃくちゃ顔が良いじゃねえか」
フランソワは軽く笑みを浮かべながら答える。
「マテオって言うんだ。ルキフェルとジャスパーの友人さ」
ルキフェルは友人という単語に思わず反応して顔を少し赤らめた。それを見たジャスパーは肩を揺らして笑いながら突っ込む。
「なんでルキフェルが照れるんだよ」
フランソワはその場の空気を楽しみつつ、エドガーに向き直って言った。
「マテオは腕もかなり立つ。だから連れてきた」
マテオは隣で赤面するルキフェルの様子を面白がって微笑んでいたが、ふと思い返したように口を開く。
「ただの船乗りに戻れば地獄を味わうって意味はわかった。けどよ、イングランドって特に酷いのか?」
ジャスパーが思わず突っ込む。
「おい、今それを聞くのかよ」
エドガーは少し間を置き、落ち着いた口調で説明し始める。
「まあ、イングランドというより、イングランド海軍のせいだな」
ルキフェルたちが身を乗り出す中、エドガーはさらに続けた。
「イングランド海軍。あいつらは怖いぞ。戦時には人手不足を補うための『強制徴募』って制度があるんだ。港や酒場で健康そうな男を見つけると、徴募隊と呼ばれる連中が鎖や棍棒で襲いかかって、気絶させて船に引きずり込む。目を覚ました頃には、もう海の上だ。拒否すれば鞭打ちや監禁の目に遭う」
エドガーの顔は険しく、言葉には冷たい重みがあった。
「女や子どもが泣き縋っても容赦なし。そんな暗黒の制度が、今でもある」
マテオは思わず顔を強張らせ、ジャスパーは舌打ちをした。ルキフェルはエドガーの言葉を聞いて軽く天井を見上げた。
「……なるほどな。それじゃ、普通の船乗りなんてやってられないわけだ」
ルキフェルは目の前で語られるエドガーの説明を聞きながら、自然と心の中で思いを巡らせていた。
ここ最近まで、各国は海の上で果てしなく争いを繰り広げていた。
フランソワ船団も、かつては私掠船同士の抗争に加わっていた。ようやく落ち着きを取り戻したとはいえ、また同じような事態が起きるかもしれない。その度に、よその国では自由意志を奪われた若い男たちが、身勝手な者たちに連れ去られ、まるで奴隷のように扱われるのだと思うと胸が痛む。
自分はクォーターマスターとして、彼らの事情や苦境に少しでも寄り添わなければならない。自分が影なら、彼らは光だ。自分は黙って背後にいるだけでいい。彼らを守るためなら、時には自分から動くことに迷いはない。光を邪魔せず、それでいて光を守る。それが今の自分にできる最良の在り方だと、ルキフェルは思った。エドガーはワイングラスを揺らしながら、フランソワ、マテオ、ジャスパー、そしてフードで顔を隠しつつも、その奥で翡翠の瞳を輝かせるルキフェルを順に見渡した。一人ひとりが、それぞれの覚悟を胸に秘めていることを鋭い眼差しで確認する。
やがてエドガーは口元に薄く笑みを浮かべ、低く力強い声で言った。
「……オレも、覚悟を決めるか」
そのままワイングラスの中身を一口で飲み干し、グラスを机に置く。静寂が部屋を満たした後、エドガーは再び視線を全員に向けた。
「さて、ここからはお前たちの役目を具体的に伝える」
エドガーは手を伸ばし、一人ひとりを順に指差す。
「お前たちは、オレの用心棒として側にいるように。その代わり、他の船員には決してお前たちの正体を明かさないと約束しよう」
部屋の隅でひっそりと聞き入っていたフェルナンドもきちんと姿勢を正す。エドガーは彼に視線を向け、鋭く命じた。
「わかったな? フェルナンド、このことは口外禁止だ」
フェルナンドは頷き、厳かな空気の中で全員の覚悟が一層引き締まるのを感じていた。ルキフェルはふとフードをわずかに上げ、目だけでマテオとジャスパーをチラリと見やった。彼の目線に、言葉はなくとも連帯感が宿っている。マテオは頷き、ジャスパーも目で答える。ルキフェルの胸に密かな安心がひとすじ流れ込んだ。




