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報復の航路【第二作 ルー・ブレス】1・2巻「誕生編」  作者: セキユズル
第三章「んじゃ、お前は今日から“ルカ”だ」
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第三章③ 三人組

 航海士たちの計算によれば、サン・マロまではもう間もなくとのことだった。


 風向きも潮も悪くはない。順調にいけば、夕方には港が見えるだろう、とルキフェルは算段していた。甲板では船員たちが手際よく縄を締め、積荷を確認している。


 ルキフェルはいつものように外套の襟を立て、船の中央を静かに歩いた。航海士や甲板長のもとへ足を運んでは、報告と確認を繰り返す。以前より歩き回ることは減ったが、部屋で待って報告を受けるより、自分の目と耳で確かめるほうが落ち着く。

 こればかりは、もう癖みたいなものだな。苦笑をこぼしつつ、風に翻る外套の裾を押さえる。空いた時間は、できるだけマテオの様子を見るようにしていた。もっとも、必要以上に干渉はしない。彼が何かを求めるときだけ側にいる。それが、いまのルキフェルなりの距離の取り方だった。


 船団全体に活気が戻ってきた。サン・マロの港へ向けて、帆が一斉に風を孕む。甲板には掛け声が飛び交い、ロープが軋む音が響いた。フランソワ船団は下船準備のために慌ただしく動き出し、夕陽を受けて船体の影が海面に長く伸びていく。

 サン・マロの港が遠くに見え始めたころ、甲板の風は次第に塩気を濃くしていった。海鳥が帆の上を旋回し、港町特有の喧噪が風に乗ってかすかに聞こえてくる。ルキフェルはマストの影から姿を現し、海面の先に視線を向けた。彼の隣でマテオも静かに立ち、まだ見ぬ港の輪郭を目で追う。ジャスパーはというと、片手で髪を押さえながら伸びをした。


「いやー、サン・マロとか久々だなぁ。あの潮風の匂い、懐かしいねぇ」


 軽口を叩くジャスパーに、マテオがわずかに首を傾げた。


「……サン・マロ?」


 彼の問いに答えたのはルキフェルだった。


「俺たちの拠点だ。たまに軍人もいるがな」


 淡々とした声ながら、その口調にはどこか誇らしげな響きがあった。港の街並みはすでに夕陽に染まり、遠くの城壁が黄金色に輝いていた。海面に反射する光の帯が、まるで道のように三人の足元から伸びていく。その光の先にあるものを、それぞれが無言のまま見つめていた。


「なあ、ルキフェル」


 ジャスパーがルキフェルの隣で声を上げる。


「今回の報酬、おれたちの分も少しばかり残してるよな?」


 ルキフェルはふっと息を漏らした。頭の中に、一度だけ全額を乗組員たちに回して、自分とジャスパーの取り分をゼロにしたあの日のことが蘇る。退屈な数日間と無駄に長い昼寝。そして何より、文句ひとつ言わず笑って済ませたジャスパーの顔。苦笑しながらルキフェルは答えた。


「もちろん、ちゃんと計算して残してある」


 そう言ってルキフェルはマテオに顔を向ける。


「お前の分もな。港を降りる時に渡そう」


 マテオは一瞬、驚いたように瞬きをした。彼の表情を見て、ルキフェルは気恥ずかしそうに肩を竦める。


「クォーターマスターの仕事だ。嫌でも金のことは覚えてる」


 ジャスパーはにやりと笑い、ルキフェルの背中を叩いた。


「そうこなくっちゃ。おれたちの財布係、頼りにしてるよ」


 港の輪郭が次第に鮮明になっていった。潮の匂いに混じって、魚と油の匂い、鉄錆の匂い、そして人いきれが風に乗って届き、帆船の群れと積荷を担ぐ労働者たちの掛け声が響いている。


「見えてきたな」


 ルキフェルがぼそりと呟く。舷側の下では水夫たちが綱を引き、錨を下ろす準備を進めていた。甲板を打つ足音と号令が重なり、やがて船体がどん、と低く唸って止まった。接岸。木と木が擦れる軋みとともに、綱が桟橋にかけられる。ルキフェルは一度だけ息を吸い込み、潮風を胸に入れた。見慣れたはずの港の景色なのに、どこか懐かしさを覚える。ジャスパーが帽子を押さえて言った。


「よーし、上陸といこうか!」


 ルキフェルとマテオは無言のまま頷き、続けて桟橋へ降りる。濡れた板の上を靴音が響き、港の喧騒が一気に耳を満たした。波の音、叫び声、馬車の車輪。全てが混ざり合い、まるで生きている街そのものだった。マテオは人混みを見渡て呟いた。


「……これが、サン・マロ」


 ルキフェルは前を歩きながら小さく笑う。


「そうだ。ここが俺たちの拠点。そして、海賊たちの街だ」


 甲板の上では船員たちが慣れた手つきで縄を投げ、艫を固定していく。潮風の中に混じる魚と油の匂いが鼻をついた。ルキフェルは舷側から港を一瞥すると、すぐに号令をかける。


「積み荷の搬出、始めろ! マテオ、左舷側の監督を頼む。ジャスパーは物資台帳の確認を!」

「了解!」


 二人が動き出すと船員たちも彼らに続き、次々と物資を担いで桟橋を渡っていく。港の片隅で荷を下ろしたばかりの木箱が山のように積まれていった。ルキフェルはそれらを横目に、先に整列した船員たちの前へと歩み出る。手には航海中に計算しておいた報酬リスト。


「よし……じゃあ、受け取り順に並べ」


 ルキフェルの号令に応じて、五十人近い船員たちが次々と列を作る。ルキフェルは銀貨袋を一つずつ確認しながら、受け渡しを進めた。ジャスパーとマテオも隣に立って助力した。ジャスパーが名前を呼び上げ、マテオが受領印を取る手際の良さは見事だった。忙しなく動く三人の姿に、船員の一人がぼそりと漏らす。


「お頭たち、なんだかんだ息ぴったりだな」

「仲良いよねー」


 ジャスパーがにやりと茶々を入れると、ルキフェルとマテオがほぼ同時に振り返って「だからよくねーよ」と言い放った。やがて、最後の船員が銀貨袋を受け取り、満足げに去っていく。ルキフェルは深く息を吐き出し、帳簿を閉じた。


「——ふう。これで全員分、渡し終えた」


 ルキフェルが額の汗を拭いながら見上げた空には西陽が差し込み、帆の影が金色に染まっていた。長い航海の終わりをようやく実感する。ジャスパーが彼の隣で軽く肩を回しながら言った。


「お疲れさん。五十人分はさすがに堪えるな」

「まったくだ。数え間違えてたら、あの連中に海に落とされそうだ」


 ルキフェルの小言にジャスパーが笑いながら木箱に腰を下ろし、木箱の上に帳簿を置いた。ルキフェルはしばし息をついたあと、ジャスパーとマテオを見て小さく笑い、懐から二つの小袋を取り出し、重みを確かめるように手のひらで転がして二人に放った。


「お前らの分。ご苦労だった」


 ジャスパーは器用に受け取り、口笛を鳴らす。


「太っ腹じゃん。ちょっと見直したかも」

「見直すな。働いた分を払ってるだけだ」


 マテオは袋を片手で受け取りながら、僅かに眉を上げた。


「……こんなにいいんですか」

「今回の航海は危険だった。見合った報酬ってだけだ」


 ルキフェルの口調はあくまで淡々としていたが、その目には確かな労いの色があった。彼は帳簿を片付け終えると二人を振り返る。


「遊びに行っていいぞ。ジャスパー、呑みすぎるな」


 ジャスパーは肩をすくめ、鼻をひくつかせてみせる。


「いやいや、こんな潮と魚の匂いが入り混じったとこで遊ぶ気分になれないって。もう鼻がもげそう」

「お前は相変わらず感覚が鋭すぎる」


 ルキフェルは苦笑をこぼし、マテオへ目を向けた。


「マテオはどうする? 女のところに行ってもいいぞ」


 マテオは少し考える素振りを見せたが、すぐに首を横に振った。


「港の女、しつこい。……私は船に残ります」

「そうか」


 ルキフェルはわずかに頷き、外套の裾を翻した。


「じゃあ三人で晩飯だな」


 三人は桟橋を渡って船へ戻っていく。夕暮れの光が彼らの背を淡く照らし、潮騒の中に溶けていった。



 夜の帳が港を包み始めるころ、甲板の上はすっかり静まり返っていた。船員たちの笑い声は遠くの酒場からわずかに聞こえるだけで、〈リュシアン〉号の上には穏やかな風が流れている。ジャスパーが急ぎの遣いから戻り、手にした革袋を掲げてみせた。


「ほら、飲み水。井戸のほうで汲んでもらった」


 ルキフェルは頷き、木皿を並べていく。夕食は塩気の強い干し肉と黒パン、それに茹でた豆のスープ。どれも一般の船員たちと同じ、質素な献立だった。三人は言葉少なにそれぞれ席についた。船体の軋む音と、波が船腹を叩く音だけが静かに響く。ジャスパーがスープを啜る音、ルキフェルがパンを千切る音、そしてマテオがゆっくりと息をつく音が交わりながらも、どこか心地よい沈黙をつくっていた。騒がしかった数日が、ようやく遠ざかっていく。

 

 ルキフェルがマテオをチラ見すると、マテオは右手にスプーンを持ち、スープを掬って啜る仕草がどこか優雅に見えた。ルキフェルが不思議そうに眺めていると、マテオのパンがそのまま皿の横に置かれていることに気づくとそっと手を伸ばし、片腕のない彼の代わりにパンを小さく千切った。


「知ってたか? パンはスープに浸して食うとなかなかだぞ」


 小さく笑みを浮かべながら言うルキフェルに、ジャスパーも口を挟む。


「海に出ると肉ばっかの生活になるからなー」


 そう言って彼はスプーンを一掬いした後、軽口を添えた。


「あとキャベツもか」


 三人は言葉少なに笑い、どこか穏やかな空気が船内に流れた。小さな食卓のやり取りが、無言のまま互いの距離を少しだけ縮めていくようだった。マテオはルキフェルに千切ってもらったパンを手に取り、そっとスープに浸すと口に運び、思わず小さく感心の声を漏らした。


「悪くない」


 続けて、マテオは好奇心を抑えきれずに尋ねた。


「このスープ、作ったのは誰です?」


 ジャスパーが肩をすくめて笑う。


「あ、おれだよ。残念ながらルキフェルじゃないんだ。でもまあ、ルキフェルが調理してるの想像したら笑っちゃうだろう?」


 ルキフェルは聞くや否や眉をひそめ、ジャスパーに突っ込む。


「どういう意味だよ。俺だってスープくらい作れる」


 ジャスパーは肩を揺らして笑い、ルキフェルは頬をわずかに赤らめた。マテオは二人のやり取りを横目に見てスープを口に含むと、眉をひそめて小さく呟いた。


「ただ……このスープ、少しどころじゃない。だいぶ塩辛い」


 さらにマテオはジャスパーに目を向けて追撃する。


「塩の量、配分がおかしいんじゃないか?」


 ジャスパーは首を傾げ、無邪気に答える。


「え、そうかなぁ?」


 ルキフェルは心の中で「嘘だろ」と呟いた。考えてみれば、ジャスパーの作る食事にはずっと慣れ親しんでいた。自分の味覚は知らず知らずのうちにその味に染まり、基準が狂ってしまっていたらしい。改めて味わってみて、やっとその事実に気づく。


 そこで、ルキフェルはふと記憶を辿り始める。

 あの時、マテオは自分たちに向かって「料理人の覚えがあります」と言った。その時は思わず面食らってしまい、半分冗談だろうと片付けたものだった。だが今、スープを前に塩加減を指摘するマテオの姿を見て、ルキフェルは気づく。あの時の発言はあながち嘘ではないのかもしれない、と。決して冗談めかしていたようには見えなかった。


 ルキフェルは小さく「なるほどな」と呟き、ほんの少しだけマテオに感心した。司厨手のもとで、試食係にでもしてみるか。だが、その考えはすぐに打ち消された。今のマテオの立場に不満がないのなら、こちらから必要以上に干渉することはない。それに、少しだけ自分の側に置いておくのも悪くない。そう考えながら、ルキフェルは視線をマテオに戻した。


 やがて三人は食事を終え、少しばかり会話を交わしたあと、ジャスパーが「あー、もう寝る」と言い、自然とお開きとなった。ジャスパーは自分のハンモックに飛び乗り、ルキフェルとマテオに「おやすみ」と告げると、すぐに眠りに落ちた。ルキフェルは彼のいつものマイペースぶりに苦笑を漏らした。

 ルキフェルとマテオは船内を歩き、船医室へ足を踏み入れた。ルキフェルはマテオがベッドで落ち着くまで手を貸し、布団をかけるなど補助を尽くした。すべてが落ち着いたところで、ルキフェルはふと気づく。自分はまた必要以上に干渉していた。



「……あ、すまない。余計なことばっかりした」


 マテオはベッドに身を沈めながら落ち着いた声で言った。


「いいんですよ、別に気にしてません」


 ルキフェルは小さく「そうか」と呟き、踵を返してランタンに手を伸ばす。


「それじゃ、良い夢みろよ」


 船医室の明かりを消し、静かな廊下に足を踏み出した瞬間、暗闇の中から微かな声が聞こえた。


「……ありがとうな」


 ルキフェルは思わず立ち止まり、振り返った。


「今、何か言ったか?」


 返事はすぐに聞こえた。


「なんでもありませんよ」


 続けて、微かに、「おやすみなさい、マスター」と囁かれた。ルキフェルは息を吐き、ほんの少し微笑んで応える。


「ああ、おやすみ」


 そう言い残し、ルキフェルは自室へと向かうため暗い廊下を一人歩いていった。やがて自室の扉を閉めると、かつて拳でかち割ったボロい鏡の前を通りかかった。チラリと自分の顔を映す破れた鏡を見つめ、心の片隅で思う。彼の前なら、この顔を晒したままでも平気かも。しかし、すぐにその考えを振り払った。


「無駄な期待はやめだ」


 ルキフェルは布団に潜り込み、深く息を吐いた。今日の一連の出来事の熱を引きずりながらも、少しだけ心が軽くなった。甲板での些細なやり取り、マテオの腕や素顔、そして無言ながらも目に宿ったわずかな感情の動き。それらが頭の中で静かに反芻される。ふといつもは口に出さない思いが漏れた。


「……あいつ、案外、俺のこと見てるのかもな」


 けれど、すぐに自分を戒める。


「油断はできない。過去の俺みたいに、裏切る奴もいるかもしれん」


 それでも、今日のやり取りで互いの距離がほんの少しだけ縮まった気がして、胸の奥に柔らかな余韻が残った。ルキフェルは苦笑して目を閉じた。暗い船室の中で微かな温もりを抱えながら、静かに眠りに落ちていく。

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