第三章② フランソワの介入
フランソワの力強い腕に引かれ、ルキフェルとマテオは抗いながらも船長室へと連行されていった。船長室の重い扉が閉じられると、ルキフェルとマテオはようやくフランソワの力から解放されたが、身体の緊張はまだ抜けなかった。二人の間に沈黙が流れ、フランソワはゆっくりと二人の顔を見渡す。
「……ふたりとも、落ち着け」
フランソワの声には威圧と同時に、どこか父親のような包容力が混じっていた。ルキフェルは思わず視線を逸らすが、フランソワは逃さない。
「ルキフェル、俺とお前は血のつながりはないが、父親のように言わせてもらう。何を考えてたのか、わかっているのか?」
ルキフェルの胸の奥が小さく疼く。怒りと苛立ちで火照った頬が、恥ずかしさと自覚の入り混じった感情でさらに熱くなる。
「この船は、お前の遊び場でも、衝動のはけ口でもない。部下が危険にさらされ、仲間との信頼を壊すような行為をしていい場所ではない!」
フランソワはルキフェルの肩に手を置き、強く押さえつけるようにして視線を合わさせる。叱責の声は厳しいが、どこか温かさも感じられた。
「お前が怒りに任せて手を出せば、部下もお前を見放す。強さとは、力だけじゃない。制御する意志を持つことだ」
ルキフェルは拳を握りしめたまま唇を震わせた。反抗の炎が胸でくすぶっていたが、フランソワの言葉は無視できない重みを持っていた。
「マテオ。お前も、自分の感情に流されるな。敵意でも苛立ちでもいいが、それを振るう相手を選ぶんだ。お互いに敬意をもってやり取りしろ」
マテオはただ頷く。口元は冷静を装っているが、瞳の奥にはまだ怒りの火が灯っていた。フランソワは最後に深く息をつき、二人を見下ろす。
「……この船の秩序を乱すのは許さん。わかったら、それぞれ自分の仕事に戻れ」
ルキフェルはフランソワの前で息を吐いた。
「あのな、フランソワ」
言葉を切ることなく続けて、ルキフェルは少し荒げた口調で言った。
「こいつは、誰に対しても心を閉ざすんだ。誰にも本性を見せない。俺はそれが気に入らない」
フランソワは頷き、ルキフェルの言葉を受け止める。
「……なるほどな。お前がそう思うのも無理はない。けど、お前のやり方で彼の心を無理に引き出そうとすれば、事態は悪化するだけだ」
ルキフェルは少し唇を噛み、悔しそうにフランソワの目を真っ直ぐに見つめた。
「だからって、このままじゃダメなんだ!」
ルキフェルの声に力が入りすぎて少し震えが、言葉を止めずに続ける。
「同じ船で過ごすって決めた以上、互いに信頼し合わなきゃいけないだろ? 俺はクォーターマスターとして、それを見過ごすわけにはいかないんだ!」
ルキフェルは感情が先走り、言葉も飛び出すままマテオを指差した。
「こいつに何があったかなんて知らないし、知る必要もない! 海の上なんて、そういう奴らが集まるところだ! だけど、この船にいる以上は少しでも歩み寄らなきゃ、生き残れないだろ! フランソワ、わかってくれよ!」
言い終えた瞬間、ルキフェルは拳を握ったまま少し俯いた。フランソワはルキフェルの必死な訴えを受け止め、ゆっくりと息を吐いた。
「ルキフェル、分かっている。お前の言うことも立場も、十分に理解しているぞ」
そう言いながらも、フランソワの目の奥には少し厳しい光が宿っていた。
「けどな、お前は自分の行いを正当化したいだけで、マテオの気持ちや今置かれた状況をまるで考えていない。お前の頭の中は、自分がどう思うか、自分の立場がどうかばかりだ」
フランソワはルキフェルの肩を掴み、視線を逸らさせずに続ける。
「お前の心意気は買うが、誰かと信頼関係を築くというのは、相手の立場に立って考えることから始まるんだ。自分の気持ちだけを押し通せば、力はあっても結局何も変わらん」
ルキフェルはフランソワから顔を背け、荒い息を漏らした。必死に訴えたばかりの思いが、まるで指摘されるように胸を突かれた。
「わかるか、ルキフェル。お前のやり方では、互いに歩み寄ることはできん。力任せで押し通せば、相手はますます心を閉ざすだけだ」
フランソワの声は穏やかだが重みを帯びていて、ルキフェルの駄々っ子の心にもズシリと響いた。
マテオは船長室の隅で沈黙を保ちながらも、心の奥でかつて味わった孤独と裏切りの記憶が微かに疼いていた。
夜ごと暗い路地や無人の屋根の上を駆け回り、片手に鋭利な刃を握りしめて生き延びてきたあの日々が、今でも心の奥底に刻まれていた。そして裏切られ、命を狙われたあの夜。あの痛みと絶望を思い出すたび、マテオは「誰も信用できない」という思いを心の奥底に深く刻み込んできた。
だからこそ、ルキフェルやジャスパー、フランソワ。目の前の船員たちも、最初は皆「信用できない存在」「裏切るかもしれない存在」としか思えなかった。笑顔も親切も、言葉の裏に潜む危険を探るように見つめ、心を閉ざすことでしか自分を守れなかった。だが、フランソワの姿を見て、マテオの胸にほんのわずかな温かさが差し込んだ。
裏切りと闇に覆われた自分の世界に、初めて疑いだけではない光が触れてきた。無言のまま、マテオは心の壁の一部が揺らいでいた。「こいつもどうせ裏切る」と常に貼り付けていた鎖が、ほんのわずかだけ緩む。目の前のフランソワはただの船長ではない。自らの信念を背負い、覚悟を持って船員を守る男の姿に、マテオは無意識に自分を少しずつ解きほぐすことを許していた。
一方、フランソワはルキフェルの目を真っ直ぐに見据えて対話を続けていた。
「ルキフェル、お前がクォーターマスターとしてこの船で尽力してくれること、俺は頼りにしているし、誇りに思っている。だからこそ、お前自身の気持ちはどうなんだ? 役割としてではなく、本来の自分としてだ」
ルキフェルは黙ったままフランソワの視線を受け止めた。胸の奥でざわつくものを押さえ込みながら何も言えなかった。フランソワはため息交じりに続ける。
「お前こそ、みんなをもっと信頼するべきだ。一人で抱え込むな。仕事も、気持ちも。どちらも負担が大きければ心は死ぬぞ」
ルキフェルは胸を突かれたように目を伏せるしかなかった。
「だったら、どうすればいいんだよ……」
フランソワは落ち着いた声で答える。
「そうだな。計算や管理の細かいことは、他の奴らに任せればいい。航海計算なら航海士に、積載の計算と管理は甲板長に、食料の管理は司厨手長に。それぞれの責任者に任せて、必要ならお前が指導してやる」
フランソワは少し間を置き、柔らかく笑みを浮かべて続ける。
「お前は彼らの判断を聞いて、最終決定権だけ握っていればいい。それで十分だ」
ルキフェルはその言葉を胸に刻みつつ、少しずつ肩の力を抜くように息を吐いた。フランソワはルキフェルを見据え、頷きながら口を開く。
「うむ、異論はなさそうだな。契約と報酬、そして船員たちの管理と仲裁は、引き続きお前に一任させよう。……俺が勝手に決めたことを知ったら、アランさん、怒るだろうな」
ルキフェルは少しだけ息を整え、口元に微かな笑みを浮かべて答える。
「いや、それでいい。その方向でいく」
フランソワは満足そうに頷き、ルキフェルの背中に軽く手を置いた。ルキフェルはフランソワを見上げ、わずかに肩をすくめて言った。
「あ、じゃあ戦闘になったら船の統率はすぐにフランソワに任せるよ。全部、フランソワがやれば船員の指揮も上がる」
フランソワは溜息をつき、呆れた顔で返した。
「お前なあ、そこはちゃんと俺が支配者にならないよう監視してろ」
ルキフェルは微かに笑みを浮かべる。
「どうせ俺はこの顔なんだ。悪いけど、これからも表には極力出ないで、顔を隠して生きるから」
ルキフェルの言葉には、平静を装う中にも孤独感と自己嫌悪がほのかに滲んでいた。マテオは思わず目を見開き、ルキフェルの顔を凝視した。フランソワは二人を見回し、深く息を吐く。
「よし、二人ともやっと落ち着いたな。服、乾かしてこい」
ルキフェルは少し肩をすくめた。次にフランソワはマテオに向き直り、穏やかな声で言う。
「マテオ。無理に馴染めとは言わない。お前も事情があってこの船にやってきたんだろう。そのままでもいい。海の上にいる以上、誰もお前を阻むものはない」
マテオは一瞬、面食らったように言葉を失うが、静かに頭を下げ、再び自らの仮面を被るように本性を押し込めた。
「ありがとうございます」
フランソワは深く息をつき、船長室の空気はようやく静けさを取り戻した。ルキフェルもマテオも、それぞれの思いを胸に抱えながらその場を後にする。
その後、ルキフェルとマテオとジャスパーは甲板の一角で濡れた服と身体を陽光に晒して乾かしていた。海風に吹かれながら、ルキフェルもマテオもしなやかで引き締まった上半身を自然に晒し、濡れたシャツや外套をロープにかけていく。ジャスパーは少し拗ねたように腕を組み、赤髪をいじりながら言った。
「でもさー、おれも濡れ鼠になったことは謝ってよね」
ルキフェルは眉をひそめつつも、素直に肩をすくめて「すまない」と頭を下げる。マテオもいつものように淡々とした声で「申し訳ない」と告げ、二人揃ってジャスパーに謝った。ジャスパーはマテオの失った片腕の断面に新しい包帯を慎重に巻きながら声をかけた。
「それで? 二人は謝れたの」
ルキフェルもマテオも互いに目を合わせず、押し黙ったまま。ジャスパーはため息をつき、最後の包帯を巻き終えるとマテオの腕を整えて笑った。
「相変わらず頑固だねー」
言葉とは裏腹に、ジャスパーの瞳の奥では二人の間に流れる微妙な空気の変化を確かに感じ取っていた。ルキフェルは眉をひそめつつも、濡れた外套をロープにかけ終えると、そっと木箱の上に置いてあった麻の白い長袖シャツを手に取り、マテオの元へ歩み寄った。
「あまり腕を晒したくないだろう」
マテオの返答を待つことなく、ルキフェルは慎重にシャツの襟をマテオの頭に通してやると、マテオが右腕をシャツの袖に通す。ルキフェルは左腕の袖を手に取り、ぎゅっと結び終えると手を離した。マテオは少しだけ視線を伏せたまま、「ありがとう」と言いかけて結局何も言わなかった。その沈黙を破るように、近くでロープを直していたジャスパーが口笛を吹く。
「へぇ、仲良いねー」
ルキフェルとマテオはほぼ同時に顔を上げ、揃って言った。
「よくねーよ」
二人の声の重なりにジャスパーは目を丸くし、腹を抱えて笑い出した。
「いやー、息ぴったりじゃん」
ルキフェルは小さく舌打ちをし、マテオはむっつりと顔を背けるが、どちらの口元にも柔らかい影が宿っていた。
「……はぁ、まったく。おれの仕事は操舵だけじゃなくて、空気の仲裁まで増えるのかね。はいはい、ツンツン二人組っと」
ジャスパーは肩をすくめた。太陽光に照らされて、彼の赤髪が波打つようにきらめく。
「でもさ、二人ともいつかちゃんと謝れよ。嵐の後は潮も澄むもんさ」
彼の軽口にルキフェルは苦笑をこぼし、マテオはふと海の方を見やった。青く広がる水平線の向こうで、波頭がきらきらと光る。あの煌めきの中に、どこか安堵の色が差しているようにも見えた。風が吹き抜け、三人の濡れた髪を揺らす。濃い潮の香りが、ようやく戦いと衝突の余韻を洗い流していく。
まだぎこちないながらも仲間としての第一歩だった。




