第三章① ルキフェルとマテオ
それから数週間が過ぎた。
両者の関係は、氷の上に火を灯したような危うい均衡のまま続いていた。
ルキフェルはクォーターマスターとして船の物資と人員を管理し、マテオは彼の雑用係として淡々と命令をこなす。仕事の上では完璧だったが、互いの間には言葉よりも重い沈黙が常に横たわっていた。
報告書を差し出すマテオの手は決して震えず、ルキフェルの指示に対しても一切の感情を見せない。ただ「了解しました」と人形のように応じるだけ。彼の無表情さが、かえってルキフェルの神経を逆撫でした。最初のうちはルキフェルも冷静を装っていたが、日を重ねるごとに腹の底を見せないマテオの態度に苛立ちが募り、次第に心の中に黒い澱が溜まっていくのを自覚していたく。何を考えてるのか分からない。あの笑わない顔を見るだけで、どうにも落ち着かない。甲板で風を受けるマテオの背を遠くから見つめながら、ルキフェルは自嘲気味に舌打ちした。
この日、甲板の上は穏やかな陽光に照らされていた。帆を撫でる風の音と波が船腹を叩く低い響きだけが満ちている。ルキフェルは木箱を机代わりにして、物資管理の名簿へと鉛筆を走らせていた。船員たちが運び込む荷を一つひとつ確認しながら、数と状態を記していく。彼の背後では、マテオがジャスパーと短く言葉を交わしていた。背中越しでも、二人のやりとりの穏やかさが伝わる。ジャスパーが何か冗談を言ったのか、マテオがくすりと笑ったのが耳に届いた。
——笑った、だと?
ルキフェルの手の中で鉛筆の芯が小さく折れた。指先に力がこもりすぎて、白くなった節がわずかに震える。彼が誰に対しても冷ややかであるならまだしも、ジャスパーには壁を作っていないらしい。その事実が、理由の分からない棘となってルキフェルの胸を刺した。
「……俺にだけ、あの態度か」
小さく吐き捨てるように呟き、ルキフェルは名簿を閉じた。本心を引き出すには、あいつを追い詰めるしかない。ルキフェルは紙束を手に立ち上がって振り返ると、自身の冷えた瞳がマテオの背中を射抜いた。ルキフェルはゆっくりと歩み寄り、手にしていた名簿を軽く掲げる。
「マテオ、これを部屋に置いてきてくれ」
ルキフェルの声の調子は穏やかで、いつもと変わらないように聞こえた。マテオが振り返り。「了解しました」と静かに答えて手を差し出した瞬間、ルキフェルの手から名簿が滑り落ち、木の甲板を叩いて鈍い音を立てた。風が一瞬止まったように空気が張り詰める。マテオの眉がぴくりと動いた。彼の顔がわずかに歪んだのをルキフェルは見逃さない。
「ん、どうかしたか」
わざとらしい無邪気さを装いながら、ルキフェルはフードの奥で口の端を歪めた。その笑みは試すようでもあり、嗤うようでもある。マテオは何も言わず、ひったくるように名簿を拾い上げた。その手つきには明らかに怒気がこもっていた。マテオはルキフェルに一礼し、踵を返して船内への階段を降りていく。彼の背に海風が吹きつけた。周囲で見ていた船員たちは、誰一人として言葉を発せず、ただ沈黙の中で固まっている。
「……お前、えげつないことするな」
沈黙を破ったのはジャスパーだった。呆れとも感心ともつかぬ口調で言いながら、帽子のつばを指先で持ち上げる。ルキフェルはフードの奥で笑った。
「教育ってやつだよ。優秀すぎる部下ほど、時々こうして土を踏ませないと風を見失う」
ルキフェルの低く響く声はどこか愉しげで、同時に冷たかった。ジャスパーは小さく息を吐く。
「ったく、あいつ、風より先に嵐になるぞ」
帽子のつばを弄びながら、ジャスパーはぼそりと続ける。
「どう見ても八つ当たりだ。港に着いたら背後から刺されるんじゃない?」
ルキフェルはフードの影で肩を揺らした。
「刺されるなら、それもまた運命だ。もっとも、気の流れを読めば躱せるが」
ジャスパーは呆れ半分、苦笑半分で首を振る。
「……ほんと、性が悪いな」
「褒め言葉として受け取っておこう」
ルキフェルが背を向けると、ジャスパーは帽子を取っては潮風に靡く長い赤髪を後ろでざっくりと結んだ。
「でもよ、マテオは良いやつだぞ。おれたちみたいな連中の中じゃ珍しい。あいつくらいだろ? 海賊の掟、ぜんぶ守ってるの」
ルキフェルの足が止まり、フードの下で眉がわずかに動く。確かにマテオは自分の口から誓った通り、フランソワ船団の規律を愚直なほどに守っている。酒場での騒ぎにも加わらず、金の使い方も節度を保ち、命令には必ず「了解しました」と答える。その律儀さが、逆にルキフェルの神経を逆撫でした。
「……律儀すぎる奴は、時に一番厄介だ」
ジャスパーは口の端をわずかに吊り上げた。
「律儀も気まぐれも、どっちも船を沈める火種になるんだけどな」
ルキフェルは振り返ってジャスパーを見上げた。
「気まぐれといえば、お前も随分と成長したよな」
ジャスパーが結び終えた髪を軽く払って、ルキフェルに視線を向ける。
「なにが? 身長?」
「それもそうだが、そこじゃない」
ルキフェルはわずかに口角を上げた。
「操舵の腕だ。ちょっと前まで見習いだったのに、今じゃ操舵手の中でも一目置かれる存在になってる」
「へえ、それは光栄なこった。でも、おれはただの勘で動かしてるだけだぜ」
「勘、ね」
ルキフェルは言葉を反芻するように繰り返し、視線を海の向こうに投げた。
「勘ってのは積み重ねの結果だ」
ルキフェルは海を見つめたまま、ぽつりと呟いた。
「誰でも最初は偶然だと思う。けど、それを何度も繰り返して、自分の中で形にできる奴だけが勘を持てる。お前の舵取りはその域にある」
ジャスパーはしばらく黙っていたが、やがて肩をすくめて笑った。
「……そう言われると悪い気はしねえな」
「褒めてるんだよ」
「いや、分かってる。けどお前からそんなこと言われるとは思わなかった」
ルキフェルは小さく息を吐く。
「俺だって人を見る目くらいある」
「へえ。だったら、さっきのマテオにも少し優しくしてやりゃいいのに」
ルキフェルの表情がわずかに曇る。風が吹き抜け、マストの帆がきしむ音が甲板に響いた。
「……それは、また別の話だ」
そう答えたルキフェルの横顔に夕陽が淡く差し込み、海面の光と混ざり合う。
「……別の話、ね」
ジャスパーはそう呟き、遠くの水平線へ視線を向けた。風が赤髪を揺らす。
「それでも同じ船の仲間なんだ。お前の部下だろ。彼とちゃんと向き合わなきゃ」
ルキフェルは無言で耳を傾けていた。ジャスパーは少し声の調子を落としながら続ける。
「ルキフェルはあいつの普段の行動を知らないだろうけど、こんだけ経っても孤立したままだ。片腕だし、誰かが面倒見なきゃ」
ルキフェルは腕を組み、皮肉げに口を開く。
「ジャスパーが居てやればいいだろう」
「んー、そうしたいけどさ」
ジャスパーは苦笑し、帽子をいじる。
「なんか、マテオの方から拒絶してる感じがあるんだ」
ルキフェルがわずかに眉を動かした。
「ジャスパーでも? あんな穏やかに話してたのにか」
「って思うじゃん?」
ジャスパーは肩をすくめる。
「残念ながら、マテオは自分の周りにいる奴、みんな敵だと思ってる」
ルキフェルは目を細めた。
「根拠は?」
「勘だ」
沈黙。だが、ルキフェルはその言葉を否定せず、フードの奥でぼそりと呟く。
「……じゃあ、そうなんだろうな」
潮風が再び吹き抜け、甲板の上を乾いた木の香りが流れていった。ジャスパーが帽子を指でくるくる回しながら、ふっと笑う。
「ただ……お前とマテオは、案外いいコンビになると思うぞ」
「……冗談きつい」
「本気だって」
ジャスパーは口の端を上げたまま、海の方へ視線を向けた。
「だって、あいつはお前を意識してるんだよ。おれや他の奴らには無関心だけど、お前が側にいる時は片時も目を離してない」
ルキフェルは一瞬、言葉を失った。
「……何を言ってる?」
「お前、気づいてなかったのか?」
「そんな暇あるか。俺はいつも業務に集中してる」
「だからだよ」
ルキフェルは視線を落とし、フードの影の中で眉間に深い皺が寄った。自分を睨んでいると思っていたあの視線が、違う意味を孕んでいたのか。ルキフェルは小さく舌打ちをして、ぼそりと呟いた。
「……くだらん」
だが、その「くだらん」という言葉が、どこか自分に向けられたもののように響いた。
「あいつ、意味わかんない」
「分からないなら、向き合えばいい」
ジャスパーはルキフェルを見やり、軽く笑った。
「そのうち、お互い理解できるようになるさ」
ルキフェルは甲板の潮風を感じながら、視線を遠くに向ける。向き合う、か。今まで自分は、誰とも本音でぶつかることを避けてきた。それでも、あのマテオという存在が少しだけ自分を前に進ませる、そんな気がしてきた。フードの影の奥でルキフェルの目にほんのわずかだが、いつもより穏やかな光が差した。ジャスパーは操舵輪に肘をついて笑った。
「ま、その前に謝罪だな」
ルキフェルが眉を顰めるのを見て、ジャスパーは続ける。
「さっきの八つ当たりはやりすぎ。ちゃーんと謝罪して、そこから仲良くしな」
ルキフェルの口から言葉が突いて出る。
「いや、俺は別に仲良くなんて」
ジャスパーは飄々と微笑みながらも、笑顔の奥に鋭さを宿していた。ルキフェルは彼の視線にぞくりとして少し黙る。
「……わかった。ちゃんと謝る」
ジャスパーは再び穏やかな表情に戻り、くすりと笑った。
「ルキフェルは人に対して不器用だからなー」
しばらく二人の会話は続いた。
仕事を終え、いつの間にか戻ってきていたマテオは、階段の陰から二人のやり取りを窺っていた。内容は聞こえないが、自分の噂をしていることは明らかだ。彼は視線を外し、数人の水夫たちの方を見る。水夫たちは甲板掃除を終え、休憩に入ろうとしていた。傍らには木製のバケツが置かれ、中には余った雨水が残っている。マテオはそれに目を留めると軽やかに階段を上がり、水夫たちに近づいていくとバケツに手をかけ、低い声で告げる。
「すまない、貰っていく」
水夫たちは意外な人物から、しかも気配もなく近づかれて声をかけられたことに少し驚きながらも「おう、いいぞ」と返した。マテオは手にバケツを持ち上げるとルキフェルに目を向け、そのまま歩き出した。ルキフェルの背に近づき、どこか不敵な響きで言う。
「ただいま戻りました、クォーターマスター殿。喉が渇いたでしょう? 飲み物をお持ちしました」
ルキフェルは肩越しにちらりと視線を送り、やや呆れ混じりに答える。
「ん? ああ、マテオか。ご苦労」
ルキフェルは振り向きながら、少し期待を滲ませた声で続けた。
「ちょうどよかった。お前に話したいことが……」
刹那、マテオは躊躇なく手にしたバケツの水をルキフェル目掛けて豪快にひっくり返した。水の勢いに押され、ルキフェルは冷たい衝撃に思わず息を呑む。フードが無防備に滑り落ち、濡れた傷だらけの素顔がむき出しになった。冷えた水が頬を打ち、乱れた髪が額に張り付く。
偶然近くに立っていたジャスパーも濡れて、赤髪が甲板の風に沿って重たく垂れた。甲板に広がる水の音と、二人の濡れた姿が空気を一層緊張させる。ルキフェルは何も言えず目をパチパチさせていた。何が起きたか、さっきの言葉の意味も、なぜ自分が水をかけられたのかも、瞬時には理解できない。肩や髪から滴る冷たい水が体の感覚を呼び覚ますが、それでも思考は混乱したまま。
その隙を狙うかのように、マテオはバケツを甲板に置くと、涼やかな笑顔を浮かべたままルキフェルに向き直った。
「素顔も素敵ですよ? 水も滴る良い男ですね」
マテオの言葉と笑顔の破壊力に、ルキフェルの心臓が高鳴り、瞬く間に顔が熱くなって、額に青筋が立って震える声で口を開いた。
「お前、許さないからな」
マテオは口角を少し上げ、首を傾げながら返す。
「それはこちらの台詞です」
ルキフェルが眉を寄せる間もなく、マテオは続けた。
「私のどこが気に障ったか分かりませんが……あんな屈辱的なことされて、穏やかでいられるわけないでしょう」
ルキフェルは一瞬言葉に詰まるが、鼻を鳴らすように笑った。
「仕返しのつもりか」
マテオはルキフェルの目を逸らさず、確固たる口調で答える。
「ええ、少しはね」
ルキフェルはフードを濡れたままの髪にかき上げた。
「じゃあ、俺がお前にしたこと謝んねーから」
マテオの目が途端に鋭くなった。彼の冷ややかな目つきに、ルキフェルも目を細めて睨み返す。両者の間に火花が散っている中、ジャスパーは濡れた髪を気にしながらため息を吐いた。
「なんでもいいけどさ、服くらい乾かそうぜ」
ルキフェルの怒りはまだ収まらない。彼は濡れた外套をぎゅっと掴み、迷いなくマテオに向かって投げつけた。外套は空中でしなやかに翻り、マテオの肩や胸にバサリと落ちる。思わずマテオは後ろに一歩下がるも、外套の重みと水分で身体も濡れ、さらに髪やシャツに水が滴った。甲板には三人分の水滴が散り、ジャスパーは「おいおい」と呆れつつも、二人のやり取りに思わず苦笑いを浮かべた。ルキフェルはもう、自分の素顔が水で晒されたことなどどうでもよくなっていた。濡れた髪やシャツも気にならない。ただ目の前にいるマテオの人間性が、どうにも腹立たしかった。外套を被ったマテオを見て、ルキフェルはニヤリと笑って軽く煽ってみる。
「これでお揃いだな」
マテオは反射的に顔にかかっていた外套を掴むと床に乱暴に叩きつけた。クールに装っていた彼の顔は怒りで鋭く歪み、目つきはルキフェルを射抜くように激しく睨んでいた。
「今の行為はあまりに理不尽でございます」
ルキフェルはそれを聞くや否や顔を歪めて笑い、低く唸った。
「理不尽? ああ、俺の八つ当たりだって? だったら仕方ねぇな。お前が堪え性なしだってことを思い知らせてやっただけだ」
マテオの眉がぴくりと動く。
「堪え性がないのはどちらでございますか。私の顔に水を浴びせておきながら、平然とした態度でいるお方は」
ルキフェルの顔が紅潮する。
「平然もクソもねぇ。お前の態度が余計腹立たしいんだよ! 昼間からニヤニヤしやがって」
「昼間でも夜でも、私は常に己の立場を弁え、節度を守っております。ですが、貴殿のその荒々しい振る舞い、見過ごせるわけもございません」
ルキフェルはフッ、と鼻で笑いながら怒りに任せて言葉を重ねる。
「はぁ? 俺の荒々しさだと? あの態度が理不尽だと思ってんのはどっちだ」
二人の間に火花が散るような睨み合いが続く。マテオの口調は変わらず敬語であることで、彼の本性は秘められたまま。それがルキフェルの苛立ちを一層煽った。甲板に立つ二人は互いの目をまっすぐに見据え、一歩も引かない。ジャスパーは二人の間で呆れた表情を浮かべながら見守るしかなかった。やがて、ルキフェルはわずかに息を吐いて言った。
「……やる気か?」
マテオは冷静に決意を滲ませた口調で応じる。
「ここで大人しく退く私ではないので」
ルキフェルの口元に薄い笑みが広がる。
「上等じゃねえか」
ルキフェルは肩幅に脚を広げ、両腕を構えて太極拳の構えを取った。
「言っとくが、俺は強いからな。後悔すんなよ」
マテオは彼の姿に一瞬面食らいながらも、すぐに体を引き締め、次の動きに備えて身構える。甲板の風が一層強くなり、緊張が最高潮に達する中、ルキフェルとマテオは互いを見据えたまま静かに足を動かす。わずかな呼吸の乱れも逃さず、二人は互いの動きを探り合う。まさに火蓋が切り落とされる瞬間を待つかのように。ジャスパーは彼らの様子を前に思わず息を呑んだ。
「こりゃ、やべぇな……」
ジャスパーが呆れと危惧が入り混じった声を漏らす。ルキフェルの手が鋭く振りかざされ、マテオも同時に身を翻して反撃の構えを見せたその瞬間──フランソワが間に飛び込んだ。
「おい、止まれ!」
甲板に響く声とともにフランソワは両手を広げ、ルキフェルとマテオの腕に素早く手をかけ、動きを封じる。ルキフェルもマテオも思わず立ち止まり、フランソワに目を向ける。怒りと苛立ちを湛えた二人の目が、一瞬、抑え込まれるように収まった。フランソワは冷静な口調で言った。
「いい加減にしろ。お前たちは同じ船に乗る仲間だ。火蓋を切る前に、頭を冷やせ。」
フランソワは周囲の船員たちを鋭く見回した。
「今の俺は、船長としての義務は発生しない。だが……船団の責任者の一人として、上官として、何よりこいつらの保護者として、この二人とは話をつける」
フランソワの宣誓に船員たちは息を呑んだ。フランソワは両手を伸ばし、ルキフェルとマテオの首根っこをしっかりと掴む。二人は驚き、思わず声を上げるが、フランソワの腕はびくともしない。
「というわけで、お前たちは俺とお話しだ」
ルキフェルが「あ、ちょ、やめろ!」と叫び、マテオも「勝手に!?」と抗議の声を上げる。しかしフランソワは聞き入れず、強引に二人を引きずりながら甲板を離れた。船員たちはその光景を見つめ、言葉を失ったまま固まっている。ジャスパーは小さく息をつき、呆れ混じりに呟いた。
「やれやれ……こればかりはおれにも止められんな」




