第二章⑥ ルキフェルとマテオ
ルキフェルの自室には、紙に走るペン先の音だけが響いていた。窓から差す陽光が、机の上の地図とメモ用紙を淡く照らす。外の甲板からは遠く帆がはためく音と、人々の話し声がかすかに流れ込んでくるだけ。彼はまっすぐに視線を落とし、字を一文字ずつ丁寧に刻むようにして書き進めた。指は震えていない。
「そろそろ暴れ回りたい奴らもいるだろう。私掠船狙いも視野に入れて……」
誰にも向けられてない呟きが木壁に吸い込まれる。あの日からだ。スザンヌと別れて以降、ルキフェルはより一層責務に没頭するようになったが、彼の様子は半ば自暴自棄で、何かに怯え逃げているようだった。彼はスザンヌとの思い出を消したつもりでいるが、あの悲恋の傷は今も包帯を変えないまま心を腐らせている。
「まずはサン・マロを目指す。物資と武器の調達を行う。フランソワ傘下の他船団が合流可能なら、私掠船群を優先して叩く。合流不可なら商船を狙い、確実な戦利を確保すること。乗員の消耗が激しければ即時撤退。持ち場を守ること、混乱を許すな。積み荷管理はクォーターマスターの指示に従え。──以上」
ルキフェルはインクの乾きを待たずに最後の一行を書き終えると、息を吐いてペンを机の台に置いた。指先についたインクをさっと布で拭い、ページを折りたたんで揃える。横には簡潔に書かれた補足メモがあり、積載量の目安や補給地点、警戒レベルまで明記してある。部屋の隅に控えていたマテオが近づいてきた。彼の瞳には不思議と落ち着きがあり、ルキフェルはその視線に少しだけ気持ちを落ち着けられた。ルキフェルはメモを差し出すとマテオに告げる。
「これを甲板長と一等航海士に渡せ。行き先と作戦の概要だ。指示通りに動くよう念押ししておけ」
マテオは受け取ると、紙面を一瞥してから真顔で返した。
「かしこまりました」
丁寧な言葉に距離のある物言い。礼儀正しく、冷たさやよそよそしさの残る応対に、ルキフェルはため息を漏らす。胸の内の漠然とした苛立ちと、任務への確かな集中が入り混じっていた。マテオは礼をして退室する。扉が閉まると、再び室内にはペン先の置かれた机と、ルキフェルの呼吸だけが残された。彼はしばらくその場に座り、地図の上に手を置いて目を閉じる。
しばらくの時が過ぎた。船室の中には紙をめくる音と、帳簿にペン先を走らせる微かな音だけが響く。ルキフェルは椅子に深く腰を掛け、航海日誌と物資の帳簿を交互に見比べては、小さく数字を訂正していったが、ふとペンの動きが止まる。彼は眉を寄せ、机の上の砂時計に視線を移した。砂はほとんど落ち切っている。
「……あいつ、帰ってくるのが遅いな。」
甲板長と航海士のところへ行っただけのはずだ。報告して戻るのに、そう時間はかからない。ほんの少し胸の奥がざわついた。理由はわからないが、気にかかる。ルキフェルはため息を一つ吐き、椅子を引いて立ち上がった。壁際の外套を手に取り、無言で羽織ると癖のように深くフードを被る。半ば無意識に顔を隠す仕草はもう染み付いていた。
「どうせ甲板の連中と話し込んでるだけかな」
自分に言い聞かせながらも、どこか急ぎ足で扉を開けた。廊下を歩きながら、すれ違う船員たちに声をかける。
「黒いシャツの男を見なかったか? マテオだ。スペイン訛りの若い奴だ」
誰もが少し考えたあと「ああ、さっき甲板にいた」と答える。甲板。潮風と喧騒の真ん中、あの負傷した腕で何をしているつもりなのか。ルキフェルは舌打ちをして足を速めた。外へ出る階段の先に、光が差し込んでいる。その向こうに、マテオの姿がある気がしてならなかった。ルキフェルは甲板を縦に探した。船首、中腹と足を速めるが、マテオの姿は見当たらない。
最後に残った手掛かり、船尾へと向かうたびに、どこからともなく小さなざわめきが聞こえてきた。声が寄せては返すたびに、ルキフェルの胸に嫌な予感が重なる。駆け出して船尾へ駆け上がると、そこには数人の水夫が集まり、片隅に膝をつくマテオを囲んでいた。黒シャツの青年は片腕を縛られ、俯いたまま身を小さく丸めている。水夫たちのうちの一人が手を振り上げて殴りつけようとする瞬間、ルキフェルは声を張り上げた。
「やめろ、お前ら!」
ルキフェルの声は甲板に冷たく鳴り渡り、水夫たちは一斉に手を止めて縮こまった。殴りかけていた者は咳き込み、俯く。
「ルキフェルさん! す、すみません……こいつの顔見て、つい苛立ってしまって……」
ひとりが震える声で弁解する。言い訳は薄く、言葉の端に怯えが混じっていた。ルキフェルは外套の裾を握りしめたまま冷徹に一瞥する。
「如何なる理由があろうと、船上での争いは厳禁だ。無抵抗の者に暴力を振るうことは許されん。次に同じことがあれば即刻、途中港で船を降りてもらう。わかったか?」
水夫たちは一瞬、互いに目配せを交わした。ルキフェルの言葉の重みを知っている。彼らの舌はしばらく固まり、やがて先ほどの弁解のひとりが震え声で返した。
「……はい、ルキフェルさん。二度としません……」
ルキフェルはさらに強く言い渡す。
「なら、今すぐここを離れろ。船の仕事に戻れ。余計な因縁はここに置いていけ」
水夫たちは頷き、尻尾を巻いた犬のように甲板を離れていく。行儀よく列をなすようにして、元の仕事場へ散っていく彼らの背中に時折小声で謝罪が漏れた。甲板に残された静けさだけが波の音と混ざる。マテオはまだ俯いたまま。ルキフェルは歩み寄り、マテオの片手で縛られた袖を確かめるように見下ろした。
「……大丈夫か」
問いかけは淡い。マテオはゆっくりと視線を上げ、暗い水色の瞳がルキフェルを捕らえた。甲板に漂う血の匂いが今しがたまでの騒ぎを生々しく告げる。ルキフェルは息を吐き、周囲を見渡してから言った。
「船上での平穏は、俺が守る。例外はない。分からんことがあれば俺に言え」
マテオは言葉少なに頷いた。ルキフェルは甲板の風を胸に受けながら目を細めた。海で暴れ回りたい連中が、あそこまで鬱屈を溜め込んでいたとは思わなかった。あの拳の一つひとつが、抑えきれぬ苛立ちのはけ口だったのだと気づき、己の手腕の甘さを痛感する。
船を動かすのに、腕の立つ人間はいくらでも欲しい。だが、それが同時に火種にもなる。
海賊に転じる輩が増えてきているこの時勢、己の隊にも油断はできぬ。力を欲して人を集めれば、秩序が崩れる。だが、締めつけ過ぎれば士気が下がる。舵取りは、いつだって紙一重だ。
ルキフェルは無言のまま、欄干越しに海を見下ろした。薄く陽光を反射する波面を見つめながら、苦々しい思いを押し殺すように唇を結ぶ。
このままではいけない。次に同じようなことが起きれば、誰かが命を落とすかもしれない。彼は心の中でひとつの結論に至っていた。人員の見極めと制限。たとえ戦力が減ろうとも、船の秩序を守るためには必要なことだ。
ルキフェルはマテオの背後に膝をついた。乱れた茶髪の隙間から覗く横顔は、まだ幼さの残る輪郭をしているのに瞳の奥だけがひどく冷たく沈んでいた。ルキフェルは無言でマテオの片腕に手を伸ばし、結ばれていた縄を解いた。硬く締まった結び目がほどけると、白い手首に赤い痕が浮かび上がる。それを見た瞬間、ルキフェルの胸に鈍い痛みが走った。
「……船医のところへ行こう。俺が手を貸す」
そう言ってマテオの肩にそっと手を置こうとした瞬間、マテオの手が鋭く動いた。ぱしん、と乾いた音が響く。ルキフェルの手の甲に痺れが走り、空気が凍りつく。マテオの目だけは炎のように怒りを宿していた。その怒りが、誰に向けられたものかはルキフェルにも分かっている。しばし、二人の視線がぶつかり合う。ルキフェルは言葉を探したが、喉の奥で音が途切れた。やがてマテオは小さく息を吐き、低く言った。
「……一人で立てます」
マテオの声には拒絶と誇りが入り混じっていた。彼は自らの足で立ち上がり、足取りこそふらついていたが、誰の助けも借りずに船尾の方へと歩き去っていった。残されたルキフェルは、静まり返った甲板の上でしばらく動けずにいた。海風が彼の外套を無情に揺らしている。
***
「あの野郎、なんだってんだ!」
甲板の上に怒号が爆ぜた。普段のルキフェルからは想像もできないような、荒々しい声だった。縄を結んでいた水夫たちは一斉に手を止め、空気が凍りつく。波の音と風の唸りだけが響き、誰もが息を潜めた。操舵輪の前に立つジャスパーは、耳を押さえながら顔を顰めている。
「おいおい、鼓膜が死ぬとこだったぜ……まあ、落ち着けって。たぶんシャイなんだろうよ、あの坊主」
「落ち着いていられるか!」
ルキフェルは操舵輪の横を行ったり来たりしながら、苛立ちを抑えきれずに拳を握りしめた。
「あの坊主は俺のことをずっと睨んでたんだ」
「へえ、そんな風には見えなかったけどな。あの目、ただの——」
「シャイとかじゃない。あれは、しっかり敵意のある目をしている」
ルキフェルは言葉を遮るように操舵輪の前へ踏み出し、ジャスパーの視界を塞いだ。怒りの熱を帯びた瞳で、ジャスパーを見上げるようにして言い放つ。ジャスパーはため息をつき、肩をすくめながらも心の奥で「これは、面倒なことになりそうだ」と悟っていた。ルキフェルは荒れた息を吐き出し、苛立ちのまま言葉を続けた。
「あいつの態度は不可解すぎる。昨夜の舐めたような口調から一転して、今日は丁寧な言い方で虫唾が走る。まるで上流の奴らみたいだ」
操舵輪の裏側で、ジャスパーは肩を揺らして苦笑した。
「そこはな、ルキフェル。あれだよ」
ルキフェルが眉を顰めると、ジャスパーは操舵輪を軽く回しながら緩い口調で続けた。
「これまでの習慣なんだろうよ。自分より偉い奴にはペコペコする、そういう生活を長く続けてきたんだ」
ルキフェルの表情がわずかに固まった。それから彼は舵の音に混じって鼻で笑った。
「あの顔でか? ふん、あれではまるで貴公子みたいだ」
フードの下でぼそりと呟いた声は誰に向けたものでもなく、風にさらわれて消えた。
ルキフェルの脳裏に浮かぶのは、茶色がかった髪と澄んだ水色の瞳、まるで陽の光を映すような傷一つない顔だった。ルキフェルは無意識に、自分の頬へ手をやった。指先に触れる古傷の感触。裂けた皮膚の凹凸が、冷たい風よりもはっきりと彼の現実を突きつける。
昼間でも部下たちの前で顔を隠さねばならないこの重圧。仮に外套を脱いだところで、返ってくるのは敬意ではなく視線と沈黙。
それに比べ、マテオはどうだ。あの容姿のまま、陽光の下を堂々と歩ける。誰からも恐れられず、疎まれず、そのままの姿でいられる。
ルキフェルは舌打ちし、胸の奥に渦巻く羨望と自己嫌悪を押し殺すように視線を海へと逸らした。白波が陽光を弾き、どこまでも眩しい。ジャスパーは操舵輪を軽く回しながら、にやりと笑った。
「羨ましいか? マテオのこと」
突然の問いに、ルキフェルの肩がわずかに動いた。
「……なんでそう言える?」
ルキフェルの声の調子が低くなり、フードの奥の目が鋭く光る。ジャスパーは肩をすくめて呑気な調子で続けた。
「そりゃ、マテオはかっこいいからよ。船員の誰もが振り返る。そんで、当の本人はクールに振る舞うもんだから、余計に謎めいた奴として目に映る。気にならないやつはいないな」
風が二人の間を抜け、舵の軋む音だけが響く。ジャスパーは片手を操舵輪に残したまま、ちらりとルキフェルを見やった。
「まあ、お前も大概ミステリアスな奴だけどな」
「あいつと俺を一緒にするな」
ルキフェルの声はハッキリとした拒絶を帯びていた。ジャスパーは一瞬だけ目を瞬かせ、吹き出すように笑いながら舵を握り直した。
「ははっ、悪かったよ。そうムキになるなって」
ルキフェルは答えず、ただフードの影で唇を固く結んでいた。ジャスパーは笑いを収め、操舵輪から片手を離して続ける。
「ただ、お前は気にするんだろうなって思ってさ」
ルキフェルの眉がピクリと動く。
「何をだ」
「顔を隠してるだけで、自分の顔が気にならなくなったわけじゃないだろ。お前はその外套で顔を隠すと同時に、本音も隠してる」
ジャスパーの声は穏やかだったが、その言葉はどこか鋭かった。風が吹き抜け、帆が鳴る。沈黙の中で、ルキフェルの拳がそっと外套の裾を握り締めた。ジャスパーは苦笑を浮かべながら続けた。
「そんな時に、あんな美男子が急に現れたんだ。気にせずにはいられないだろうな」
その瞬間、ルキフェルの胸の奥で何かが音を立てて弾けた。怒り。否定したい衝動。だがその根にあるものが、もっと厄介な感情だと、彼はすぐに気づいてしまった。
——嫉妬だ。どうしてあんな奴に。どうして、あの目を思い出すだけで心がざわつく。
ルキフェルはジャスパーの言葉を振り払うように顔を背けた。風が頬の傷を撫で、焼けたように痛む。心の中で、あの茶髪の美青年の顔が浮かぶ。整った輪郭、透き通るような水色の瞳が自分とは真逆の世界にあるように思えた。鏡を見るたびに突きつけられるのは、傷跡だらけの自分。誰よりも強く在ろうとして、それでも残ったのは「醜い」という烙印。その隣に立つマテオの姿が、まるで「自分にはなれなかった何か」を形にしたかのように見えてしまう。
——あの顔にも、同じ傷を刻めたら。あいつの完璧な顔を、この手で歪ませてやれたら。
そんな考えが一瞬、脳裏をかすめた。胸の奥が熱く、ざらつく。喉の奥から何か黒いものが込み上げてくる。ルキフェルは息を呑み、拳を握り締めた。
「……俺は、何を考えてるんだ」
ルキフェルの呟きは掠れ、風に溶けて消えた。拳を開いた指先が震えていた。嫉妬でも怒りでもない。己の中に潜んでいた闇に気づいた恐怖だけが残った。
「どうした?」
ジャスパーが訝しげに眉を寄せる。
「……なんでもない」
ルキフェルは答え、フードの奥で目を伏せた。ほんの数秒前まで胸を焼いていた衝動が、潮風に冷やされるように静まっていく。我ながら、何を考えていたのか。彼は深く息を吐いたあと、話題を変えるように口を開いた。
「それより……さっき、マテオが乗組員どもに絡まれていた」
「絡まれた?」
「ああ。あいつら、暴力を振るった。相当、不満を溜め込んでる」
ジャスパーはふっと苦笑を漏らす。
「だろうな。顔が良いやつは目立つと同時に、嫉妬の的になる。港の女にしか相手にされない連中にとっちゃ、マテオみたいなのは格好の餌食だ」
ルキフェルはジャスパーの言葉を聞きながら、甲板に漂う潮風とざわめきの中で深く眉を寄せた。
「……わかっているが、やりきれない」
自分の胸の奥で燻る苛立ちと、理性の間で揺れる感情を押さえ込むように、ルキフェルはフードの下で顔を伏せた。甲板の端に立つマテオの姿が、ちらりと視界に入る。あの青年は痛みや不安を抱えながらも、微動だにせず立っている。まるで何もなかったかのように。ルキフェルの胸の奥に複雑な感情が渦巻いた。守るべき存在でありながら、羨望と嫉妬、そして怒り。あの美しい顔に自分と同じような傷を刻んでしまいたいという衝動も一瞬芽生えたが、すぐに理性がそれを打ち消す。
「……馬鹿な、俺は何を考えているんだ」
ルキフェルはフードを深くかぶり直した。自分の感情を整理するように目を閉じて深く息を吸い、吐き出す。ジャスパーはそんなルキフェルを一瞥し、静かに言った。
「……ま、まずはあいつを守ることだな。暴力にさらされるのは、見過ごせない」
ルキフェルはジャスパーの言葉に頷き、フードの下で固く歯を噛んだ。
「ああ。絶対に守る。誰にも、あいつを傷つけさせはしない」
決意を胸にルキフェルは視線を再び甲板に向ける。潮風に揺れるマテオの背中が遠く見えた。ルキフェルは甲板を静かに歩き、マテオに近づく。潮風が髪を揺らす中、黒いシャツの青年は微動だにせず、船の軋む音と波の音だけが周囲に響いていた。ルキフェルはゆっくりと慎重に距離を詰めながらマテオに声をかける。
「大丈夫だったか、痛みは……」
マテオは一瞥もせず、鋭い視線でルキフェルを見返した。その目には怒りと警戒が混ざって光っている。ルキフェルはため息混じりに、できる限り柔らかい声で続ける。
「無理に話す必要はない。ただ……安全かどうか、確認したいだけだ」
マテオの瞳が微かに光り、ゆっくりとルキフェルの肩を振りほどいた。
「それで、私を慰めてるつもりですか?」
鋭く、敵意を剥き出しにしたその声に、ルキフェルは一瞬、言葉を失った。
「はぁ?」
思わず口をついて出た声に、周囲の風と波の音が同時に凍りついたかのようだった。ルキフェルはマテオの視線を真っ直ぐに受け止め、声を低くして言った。
「お前、この船にいる間は俺の部下だってこと忘れたのか? 部下の心配をするのが、上に立つ者にとっては当たり前だ」
マテオは眉をわずかに上げ、冷静な口調で応じる。
「上の立場ね……」
マテオの目には、わずかな挑戦の光が混ざっていた。続けて、皮肉っぽく口を開く。
「そうやって人の心配するフリして、権威を振りかざすのがあなたの仕事ってわけですか」
ルキフェルは一瞬言葉を失い、彼の鋭い皮肉に苛立ちを覚えつつも、冷静さを保とうと肩をすくめた。
「お前が何言ってるのか、分からないな。何が不満だ。ちゃんと話せ」
マテオはじっとルキフェルを見つめたあと淡々と答える。
「いえ、なんでもありませんよ」
ルキフェルはもどかしさと苛立ちを胸に抱えつつも、深呼吸して敢えて冷静を装い、少し身を乗り出してマテオの目を見据える。
「……本当に、なんでもないのか?」
マテオはわずかに目を細め、口元に微かな笑みを浮かべるが、その瞳には挑戦的な光が宿っていた。
「なんでもありません。上の立場の方が心配してくれるなら、別に文句はありません」
ルキフェルは思わず胸の奥が騒ついた。「なんだこの小生意気さは」と心の中で呟きがらも深い呼吸で気を落ち着ける。マテオは微かに肩をすくめ、ルキフェルの動きを冷静に観察する。その態度がルキフェルの苛立ちをさらに煽る。
「……何を考えてやがる」
ルキフェルはゆっくりと距離を詰めると、ふいにマテオの胸ぐらを掴んだ。普段の冷静さは影を潜め、素の苛立ちがその声に滲み出る。
「舐めた態度を取ってると海に放り出す」
マテオはわずかに眉を上げ、不敵に笑った。その笑みの奥には確かな怒りが燃えており、表面上はあくまで冷静を装っている。
「ご自由にどうぞ。むしろそうしてほしいくらいです」
その瞬間、ルキフェルの苛立ちはさらに増幅された。舐めた態度に加え、挑発的な言葉。理性で押さえ込もうとしても、胸の奥で黒い感情が渦巻く。甲板の上、二人は視線を鋭く交わしたまま、言葉少なに火花を散らすように睨み合った。マテオの瞳は青白く光り、ルキフェルの瞳には怒りと苛立ちが宿る。時折、海風が二人の間を吹き抜け、甲板の木材がかすかに軋む音だけが響いた。
二人の間に流れる緊迫した時間。どちらも一歩も引かず、まるで互いの心の奥底を探り合うかのように睨み合っていた。




