第二章⑤ ルキフェルとマテオ
廊下に出ると、船体の軋む音と外の波音がかすかに響いている。ルキフェルは歩きながら、フードの下からそっと振り返る。マテオは壁に手をつきながら、慎重に一歩ずつ進んでいた。その足取りはおぼつかず、膝が震えている。左袖は結ばれたままで、そこにもう腕がないことが改めてルキフェルの胸を刺した。無理をさせたかもしれない。ほんのわずかに歩調を緩め、マテオが追いつくのを待つ。マテオが近づくたび、海の匂いと鉄の匂いが混ざって漂った。
「こっちだ」
ルキフェルは再び前を向いた。無言のまま二人は階段を下り、狭い通路を抜けていく。どちらも口を開かないが、静寂の中には互いの気配だけがあった。ルキフェルはその沈黙を破ることなく、自室のある区画へと足を向けた。せめて、座らせてやろう。そんな思いが、彼の中に静かに芽生えていた。ルキフェルの部屋に入ると、灯りがひとつ灯された。艶を失った木の机と、地図や羅針盤の置かれた空間。余計な装飾はなく、まるで彼の性格そのもののように簡素だった。ルキフェルは扉を閉め、振り返ってマテオを見た。
「そこに座れ」
ルキフェルが指先で椅子を示すとマテオはわずかに眉を寄せたが、ゆっくりと腰を下ろした。まだ顔色は悪く、額に汗が滲んでいる。ルキフェルは机の端に手を置いて言葉を続けた。
「さて、話を聞かせてもらおうか。なぜこの船にいた?」
ランプの灯が揺れ、二人の影が壁に映る。マテオはその光を見つめたまま、しばらく沈黙していた。やがて、かすれた声で呟く。
「……話すつもりはない」
その声音は拒絶というよりも、何かを守るような響きを持っていた。ルキフェルは目を細める。
「話したくない、か。理由は?」
マテオは顔を伏せ、皮肉にも似た言葉が返ってくる。
「理由を言えば、話すつもりがないって言葉の意味がなくなるだろ」
ルキフェルはしばらく彼を見据えていた。
「……なるほど。言葉の扱いは心得ているようだな」
マテオは視線を逸らし、結ばれた左袖をぎゅっと握りしめた。ルキフェルはそれに気づいても何も言わなず、落ち着いた声で告げる。
「話したくないならそれでいいが、ここは海の上だ。逃げ場はない」
その一言に、マテオの肩が小さく震えた。再び沈黙が訪れた。甲板の上で船が軋み、遠くで波が砕ける音が聞こえる。ルキフェルは暫くのあいだ沈黙を選んだ。彼が自分から何かを話し出すことを、ほんの少しだけ期待して。だがマテオは、俯いたまま身じろぎひとつしない。まるで世界そのものを拒むように、閉ざされていた。やはり、話すつもりはないか。ため息を胸の奥に押し込み、ルキフェルは腕を組んだまま静かに言った。
「黙ってないで、何か言ったらどうだ」
返答はやはり無い。部屋の空気が重く沈む。船体が軋む音だけが、遠くでかすかに響いていた。ルキフェルは舌打ちを呑み込み、数歩で彼との距離を詰めた。無言のままマテオの前に立つと、彼の頭を掴んで無理やり自分の方へと向かせる。
「目を逸らすな」
ルキフェルは一瞬ためらったのち、深々と被っていたフードに手をかけた。そして、フードを静かに外す。灯りに照らされたのは、顔面を斜めに走る深い裂傷の跡。そして、顔中に散りばめられた無数の切り傷。見た者が息を呑み、目を逸らすほどのもの。ルキフェルはそれを知っている。だからこそ、あえて見せた。脅しにでもなればいいとさえ思った。だが、マテオの反応は予想外だった。しばし見つめ合ったのち、マテオは口角をゆるりと吊り上げた。
「……あんた、いい目してんな」
ルキフェルは思わず息を呑んだ。マテオの視線は傷跡でも醜さでもなく、ルキフェルの翡翠色の瞳だけを真っ直ぐに見つめていた。マテオの唐突な言葉に、ルキフェルは思わず眉をひそめた。その一瞬、掴んでいたマテオの頭から力が抜ける。ルキフェルは手を下ろしながら努めて冷静な声で言った。
「……部屋が暗すぎて、目が見えていないんじゃないのか?」
軽口のつもりだっが、自分の声が思ったより低く響いたことにルキフェル自身が気づいていた。動揺を悟られまいとするように、視線を逸らさずにマテオを見据える。マテオはかすかに口元を歪めた。
「いいや。むしろ、暗闇とは友人みたいなもんだ」
語尾に笑うが混じる声音には、どこか疲れと皮肉が混じっていた。そして、マテオはふっと息を吐くように言葉を継ぐ。
「あんたの目は、いささか眩しすぎるんだよ」
ルキフェルの胸の奥で何かが一瞬、ざらりと音を立てた。まるで暗闇に慣れた心が不意に光を浴びたように。ルキフェルは眉をひそめ、マテオを見据えてもう一度問い直した。
「……お前は何者なんだ?」
マテオは相変わらず俯いたまま淡々と答える。
「……話したくはない」
ルキフェルは舌打ちしたが感情的にはならず、すぐに話題を切り替えた。
「なら、スペインの男がフランスにいた理由はなんだ?」
ルキフェルの視線は鋭く、問いかける口調にも自然な圧力があった。
「あの港はスペインと近しい場所にあるが、理由がなければスペイン野郎があんな場所にいるはずもない」
マテオは一瞬肩をすくめ、気ままに笑ったような仕草で答える。
「さあな。たまたま辿り着いたのがここだっただけだ」
曖昧な言い回しだが、声の調子や目の動きを見れば、マテオの発言に嘘はないことがすぐに分かった。ルキフェルはマテオを見つめながら微かに口元を歪める。
「どうやら、訳ありのようだな。怪我もしてたし」
マテオは肩をすくめるだけで目線を逸らした。薄暗い灯りの中、壁に映る二人の影が長く揺れる。ルキフェルは心の奥で、目の前の青年が余裕すら見せることに少し警戒心を抱いた。傷を負い、左腕を失ったばかりなのに、なぜこの男はこんなにも落ち着いていられるのか。ルキフェルは息を吐いてから口を開いた。
「いいだろう。話したくないなら、話さなくて良い。ただし、これからの処遇については考えなくてはならない。お前が目覚めたことは、明日にでも船長に報告する。おそらく今日みたいに尋問だ」
突然、マテオがふっと鼻先で笑いを漏らす。
「……尋問にしては甘いなぁ」
ルキフェルは一瞬、眉を顰めたが、深呼吸して効いてない振りをした。自分の視線がマテオの水色の瞳に吸い込まれそうになるのを感じる。怪我を負った者にしては危うく、力を秘めた瞳。二人の間に緊張と互いを探る空気が漂っていると突然、船医室の扉が勢いよく開かれ、ジャスパーが顔を出した。
「無事に良い波に乗ったんで、このまま走らせといた」
軽やかな声に緊張で張り詰めていた空気が一瞬だけ緩む。ルキフェルは扉を見つめたまま、マテオの反応を確認した。ジャスパーの視線がふとマテオに向く。
「お、お目覚めかい」
ルキフェルはすぐに答えた。
「マテオと云うらしい。すぐにでもフランソワに報告する」
ジャスパーはにこやかに頷くとマテオに向き直り、手を差し出して言った。
「おれはジャスパー。船を操ってるもんだ。ひとまずよろしく」
マテオは素っ気なくも力強く手を握り返す。
「ああ、頼む」
その後、マテオの瞳がルキフェルに向いた。
「そういや名前、なんて言うんだ?」
ルキフェルは一瞬言葉に詰まるが、肩をすくめて言った。
「ああ、そういえば名乗ってなかったな」
ジャスパーはすかさずルキフェルを茶化すように言った。
「こらー、ちゃんと自己紹介はしなさい」
ルキフェルはジャスパーの軽口を無視するようにマテオを見つめた。
「ルキフェルだ。この船のクォーターマスターやってる」
マテオは眉をひそめ、少し首を傾げながら言った。
「クォーター、マスター?」
舌を噛むように、初めて聞く言葉を口にしたその声には、警戒と好奇心が入り混じっていた。ルキフェルは薄く笑みを浮かべて答える。
「つまり、物資や積み荷の管理から航海の準備まで、この船の運営全般に関わる責任者ってところだ」
ジャスパーは横から口を挟むように、楽しげに言った。
「まあ、簡単に言えば『お船の便利屋』って感じだな」
マテオはその説明に目を丸くしながらも、徐々に理解した様子で頷いた。
「ああ、なるほど……じゃあ、あんた船の中ではけっこう偉いわけだな」
ルキフェルは真面目な表情を崩さず頷いた。
「そうだ。だからこそお前がここにいる以上、無事であることが最優先だ」
マテオはふと視線を自分の左袖に落とし、結ばれたままの腕を見つめる。言葉は発さないが、微かな吐息が漏れた。やがて、低く呟くように声を上げる。
「ルキフェル……」
その声にはどこか慎重さと好奇心が混ざっている。続けて、マテオがふっと口角を上げて言った。
「悪魔の名か。変わった名前だな」
褒めているのか、貶しているのか、意図が掴めない言い方だった。ルキフェルは一瞬、警戒心を強めて視線を鋭くした。部屋には静寂が戻り、互いの呼吸だけがかすかに響く。ルキフェルは警戒を緩めないまま、次の動きを見定めるようにマテオを見つめていた。
翌日の昼。ルキフェルは甲板での指揮をひと段落させ、深呼吸をしてから船医室へ向かった。部屋の中には、まだ療養中のマテオが膝を抱えて座っている。
「よし、行くぞ」
ルキフェルが声をかけると、マテオは警戒しながらも後をついてきた。船内の廊下を二人で歩き、階段を上って外に出ると船員たちの視線がチラチラと向けられる。片方は昼間でも外套を羽織り、フードで顔を深く隠す船の指揮官。片方は黒シャツの美青年。二人の姿はあまりに奇妙で、気にしない船員はいなかった。ルキフェルが船長室の扉前に立ってノックすると、中から親しみのある声が返ってくる。
「入れ、ルキフェル」
ルキフェルが扉を開けると、室内には机に座るフランソワが好奇心いっぱいの目で、ルキフェルの背後に控えるマテオを見つめていた。フランソワの視線を感じたマテオは少しばかり警戒の色を濃くしつつも、ルキフェルの後ろで静かに立っている。フランソワはマテオをまじまじと見たまま、やや柔らかい口調で言った。
「俺はフランソワ。この船団の責任者だ。船の上にいる以上、人それそれに役割があって決められるが……今の君にはできることも限られるだろうしな。普段はルキフェルが役割を振るけど、今回ばかりは君の希望を聞こうか」
フランソワの瞳は真剣そのもので、マテオの目を逃すことなく見据えている。
「何がしたい? それか、何ができることがあれば教えてくれ」
マテオは俯いた。苦悶の色が彼の顔に浮かび、呼吸の音だけが静かな部屋に響く。やがて、マテオは絞り出すようにして口を開いた。
「……料理」
ルキフェルは一瞬、思考が停止したように目を見開く。フランソワも同じく。二人の頭の中に「料理」という単語が不意に滑り込んできて、思いがけない響きに戸惑っていたのだ。マテオは慎重に言葉を選ぶようにして口を開いた。
「もちろん、今の私にできることは鍋の中を混ぜることぐらいです。ただ、料理人の覚えがある、とだけ伝えておきます」
彼の突然の丁寧な口調に、ルキフェルは顔を顰めた。
——なんだこいつ……なんで急に礼儀正しい口調になるんだ?
一方のフランソワは特に気にせず、天井を見上げて思案し、やがてゆっくりと言葉を紡いだ。
「料理人か。あいにく、司厨手は足りてるからなあ」
続けて、フランソワは柔らかさを保ったまま問いかける。
「君、読み書きはできるかい?」
マテオは首を横に振り、簡潔に答えた。
「できません」
フランソワは納得するように頷く。
「そうか。ならば、仕方ない。君は雑用係だ。できる範囲でいい、ルキフェルの身の回りの手伝いを頼む」
その瞬間、船長室は一瞬静寂に包まれた。ルキフェルは真っ先に目を見開き、声を張り上げる。
「え!?」
ルキフェルは驚きと困惑を隠せず、フランソワに向き直った。
「待ってくれ、フランソワ。なんでそうなる? 俺は誰にも手伝いなんか必要としてない」
ルキフェルの声に苛立ちも混じった。フランソワはため息をつき、椅子にもたれながら静かに語りかける。
「お前なあ、常に一人で業務を抱えて走り回って、いつも落ち着きないだろう。負担がデカすぎる。一人でもサポートが入れば業務もスムーズになるじゃないかー?」
フランソワはマテオに目を向け、少し微笑みを浮かべる。
「それに彼もお前と同い年っぽいし。年頃の近い奴同士なら、彼もお前も安心だろう」
ルキフェルは眉をひそめ、口元を固く結んだまま黙る。一方のマテオもフランソワの言葉に顔を少し顰め、困惑した表情を浮かべていた。ルキフェルは少し声を荒げてフランソワから顔を逸らした。
「ったく、余計なお世話だ」
フランソワはニヤリと笑い、肩をすくめながら答えた。
「おう、いくつになってもお前の世話はするからな」
ルキフェルはため息を吐き、少し目を伏せた。心の中では鬱陶しさと安心感が微妙に入り混じる。マテオはそんな二人のやり取りを見つめ、眉をひそめつつも興味深げに耳を傾けていた。やがて、ルキフェルは弾かれたように口を開く。
「けど、こいつにそんな義務を負わせる必要は——」
しかしフランソワは微笑みを浮かべ、全く是非を言わせなかった。
「ルキフェル、海賊の掟は誰のためでもある。今こそ、マテオにその一端を伝える時だ」
そう言うとフランソワは引き出しから聖書と羊皮紙を取り出し、掟を読み上げ、船員としての宣誓の儀を執り行った。
マテオは一瞬戸惑いを見せたが、すぐに冷静な表情に戻り、聖書に手を乗せて裏切らぬことを自分の口で誓った。フランソワはにっこりと微笑み、サインの代わりに握手を交わす。マテオの手は強く、落ち着いた力を感じさせた。
二人の握手の間、ルキフェルは心の奥で混乱と苛立ちが入り交じり、わずかに手が震えていた。自分の意志では止められない流れの中、ただ見守るしかない状況が胸の奥を微かに締め付ける。




