第二章④ ルキフェル
その時、船尾の方から騒めくような声が聞こえた。夜の帳に包まれた甲板の上で、その響きだけが波間を切り裂くように広がっていく。
ルキフェルは再び深くフードを被り直した。足音を殺して船尾へと歩み寄る。月明かりが甲板を横切り、彼の影を静かに揺らした。近づくにつれて、数人の船員が何かを囲むようにして騒いでいるのが見える。
「……どうかしたのか?」
静かに放たれたその声に、騒ついていた空気がぴたりと止まる。夜の海に吸い込まれるような声だった。かつての中性的な柔らかさは薄れ、今は重みと透明さを帯びている。その一言に周囲の者たちは反射的に姿勢を正し、振り返った。フードの奥に光る眼差し、少年の名残をわずかに宿しながらも、もはや少年ではなかった。孤独を知り、痛みを呑み込み、それでも立ち上がってきた者の目だった。
「その声……ルキフェルさん、ですか?」
船員のひとりが怯えと安堵の入り混じった声音で言った。月光がかすかに照らす中、彼らの顔は蒼ざめ、額には冷や汗がにじんでいる。ルキフェルは無言で一歩近づいた。足音が甲板に響くたび、誰もが息を呑んだ。
「何があった?」
静かだが、抗えぬ威圧を含んだ問いかけだった。その声に押されるように、船員が喉を鳴らしながら答える。
「そ、それが……知らない男が、船に紛れ込んでたみたいで……。気を失ってて、怪我をしてるんです。かなりひどくて……」
「怪我……?」
ルキフェルの眉がわずかに動いた。潮の匂いに混じって、鉄のような生臭い匂いが漂っていることに今さら気づく。夜気を裂くような血の匂いだった。
「……すぐに船医のもとへ運べ。話はそれからだ」
低く通る声で告げると、船員たちは即座に動き出した。誰かが「了解!」と短く答え、数人がかりで気絶した男の身体を担ぎ上げる。ルキフェルは彼らの背を無言で見送った。
〈リュシアン〉号は、つい先ほど港を発ったばかりだった。出航前、あれほど念入りに最終確認をしたというのに、いつの間に紛れ込んでいたのか。船を預かる者として、クォーターマスターとして見過ごすわけにはいかない。彼は息を吐き、己の胸に芽生えた責任の火を押し広げた。それは、少年の頃にはまだ知らなかった指揮官の炎だった。
ルキフェルは船医の部屋に足を踏み入れた。薬品と血の匂いが入り混じる空気の中、灯されたランプの灯が静かに揺れている。寝台のそばには船医が控えており、包帯や布を手際よく用意していた。ルキフェルが近づくと、船医は顔を上げて軽く会釈する。
「侵入者というのは、こいつか?」
船医の返事を待たずに、ルキフェルは寝台の上の人物を覗き込んだ瞬間、言葉を失った。
どんな男が紛れ込んだのかと警戒していたが、そこに横たわっていたのは想像とはまるで違う存在だった。
この船とは不釣り合いな美青年。
肩を越える長さのキャメル色の髪。柔らかく波打つ髪の束が枕に広がり、ランプの光を受けて淡く輝いている。細長い顔立ちはどこか異国めいており、閉じられた目元には冷たさと鋭さの影が宿っていた。黒いシャツの襟元から覗く首筋には、しなやかでありながら鍛えられた筋の通ったラインが浮かんでいる。痩せて見えるが、肩幅や胸の厚みからして、ただの流れ者ではない。
ルキフェルの視線が自然と下へと滑る。
——左腕。包帯の隙間から血が滲んでいた。赤黒い染みが布をゆっくりと濡らしていく。傷は深いにもかかわらず、彼の寝顔には苦痛の色が見えなかった。静かすぎるほどの呼吸。まるで深い眠りに落ちているかのように。ルキフェルは小さく息を飲んだ。
この男は何者だ。何のために〈リュシアン〉に忍び込んだ?
その問いが頭を過ぎると同時に、彼の中の警戒心が静かに燃え上がる。やがて、ルキフェルは船医の方を見ずに低く問うた。
「命に別状は?」
船医は寝台の隣で侵入者の左腕を確認しながら重々しく言った。
「今のところ命に別状はなさそうです。しかし……左腕の出血と損傷が酷い。状況によっては、切断するしかありませんな」
ルキフェルの眉がわずかに顰められる。心の奥で緊張の糸が張り詰めた。
「……意識を取り戻したら、すぐ俺に知らせろ」
ルキフェルは低く告げると、無言で船医室を出る。廊下へ足を踏み出した瞬間、どうしても振り返らずにはいられなかった。寝台に横たわる美青年の顔が、ほんの一瞬だがルキフェルの視界に映る。瞼の下に潜む鋭さ、微かに緊張を孕む眉の形、静かに横たわる姿が何か心の奥に引っかかる。
「……生き延びてくれよ」
ルキフェルは小声で、心の底から願うように呟いた。
「俺は……お前と話がしたいから」
ルキフェルは船医室の扉をそっと閉め、甲板へと歩みを進めていった。階段を上がって再び闇に投じると、背中に月光がわずかに射し、フードに覆われたその姿は、孤高のクォーターマスターとしての存在感を漂わせていた。
甲板上に立ち尽くすルキフェルの耳に、遠くから軽やかな口笛が届く。ルキフェルが反射的に振り返ると、夜の闇を背景に舵輪を握るジャスパーの姿があった。月明かりに照らされて、少年の面影を残す顔立ちが微かに浮かぶ。
「なんか、あったらしいな。ルキフェル」
ジャスパーの声は落ち着いているが、どこか飄々とした余裕を帯びていた。ルキフェルはゆっくりとジャスパーのもとへ歩み寄り、舵輪のそばで立ち止まった。
「侵入者がいた。しかも、怪我を負っている」
ルキフェルの声には冷静さの中に緊張が滲んでいた。ジャスパーは舵輪を握ったまま、少し考え込むように空を見上げる。
「へえ……こんな夜中に侵入者か。そいつ、かなりの手練れだろうな」
飄々とした口調ながらも、以前の無邪気さとは違う、落ち着きのある年上らしい余裕が感じられた。
「まさか、港を出た直後に紛れ込むとは思わなかった」
ルキフェルは眉をひそめ、慎重に言葉を選ぶ。
「ふむ……まあこういうのは、おれたちの得意分野だろ? 大事なのは、どう対処するかだ」
ジャスパーの声は穏やかで、それでいて芯のある響きを帯びていた。ルキフェルは頷き、口を開く。
「まずは船医の元に運ばせた。話は、それからだ」
「なるほど……さすがクォーターマスター、的確だな」
ジャスパーはにやりと微笑み、舵輪を握り直す。その仕草からも、無邪気だった頃よりしっかりと船の指揮を理解していることが伝わった。
「そうだな、油断はできない。俺たちが動くまでは、誰も船内を自由にさせるわけにはいかん」
「任せろ、ルキフェル。おれも目を光らせておく。……んで、その侵入者をお前さんは見たわけだな。どんな奴だった?」
ジャスパーは夜風に吹かれながら舵輪に片手を掛け、興味深そうにルキフェルを見た。ルキフェルは少し間を置き、口元に薄い笑みを浮かべつつ前振りする。
「聞いて驚くなよ」
「ん?」
ジャスパーが軽く首を傾げる。
「かなり、顔が良かった。闇の中で紛れても、あれはどんなに隠れても目立つだろう」
ジャスパーは一度息を吐き、軽く「ふうん」とだけ答えた。ルキフェルは少し視線を遠くに向け、考え込むように口を閉じた。ジャスパーが口を開く。
「顔といえば……ルキフェル、自分を卑下しなくなったな。前は自分の顔が嫌だって嘆いていただろう?」
ルキフェルはすぐさま顔を顰めた。
「いつの話だよ」
ジャスパーはケタケタと夜風に乗せて笑った。
「いやあ、よく覚えてないね」
ルキフェルは肩をすくめ、口を真一文字に結ぶ。
「いちいち口に出すことに疲れただけだ。嫌なもんは、見なけりゃいい。そう結論した」
ジャスパーは笑みを浮かべつつも、ルキフェルの変化に首をかしげる。
「でもさ、昼間でも外套羽織ってフードで顔隠すって、指揮官としてはどうなのよ。みんなビビるぞ」
ルキフェルは憤慨したように声を張った。
「素顔を晒すより断然マシだろう! 指揮官としての威厳も、俺の安全も、両方守れるんだ」
ジャスパーは少し呆れたように鼻を鳴らした。
「あいかわらず頑固だな。でもまあ、それもルキフェルらしいか」
侵入者は、それから幾日経っても目を覚まさなかった。
船医の話では、意識を取り戻した際に左腕の状態を見てショックを受けぬよう、慎重にことを運ぶべきだという。彼の腕はもはや元には戻らない。
ルキフェルとしては、そんな悠長な時間を過ごしている余裕などなかった。次の獲物に狙いを定め、再び略奪へと乗り出すべき時期に来ている。だが船員の士気も、怪我人の処遇も、指揮官である自分の采配ひとつにかかっている以上、無視して突き進むわけにもいかない。せめて、あの男が目を覚ましてくれれば話は早い。何者なのか、なぜこの船に侵入したのか、その答えさえ得られればと彼は幾度も思った。
そして、ようやくその時が訪れようとしていた。
「目を覚ました、だと?」
報告を受けたルキフェルは、ほとんど反射的に足を動かしていた。船医室の扉を開けると、薬草と酒精の匂いが鼻を刺す。
その片隅、寝台の脇に一人の影が膝を抱えて座り込んでいた。それが、あの侵入者だった。彼はまだ青白い顔でこちらを見つめていた。鋭い目つきの中で、水色の瞳だけがやけに際立つ。怯えというより警戒。だが、その奥にわずかな戸惑いが揺れているのをルキフェルは見逃さなかった。肩まで伸びた茶の髪が額にかかり、着ている黒いシャツの左袖だけが途中で結ばれている。その結び目が、失われた腕の代わりに静かに揺れていた。ルキフェルは数歩近づき、声を落として言った。
「目を覚ましたか」
侵入者は何も答えず、ただ睨むようにルキフェルを見返した。
「警戒するのも無理はない。だが、お前の安全は保障する」
そう言ってルキフェルは右手を差し出すが、青年はその手を睨みつけたまま動かない。静寂の中で、ルキフェルはわずかに息を吐いた。
「……もしかして、こっちか?」
次の瞬間、彼は流暢なカスティーリャ語で同じ言葉を繰り返した。青年の目がぱっと見開かれる。
「それ! それだ、そっちなら分かるぞ!」
安堵と驚きが入り混じった声が船医室の静寂を破った。ルキフェルは息を吐き、ほんのわずかに口角を上げた。
「なるほど……スペインの出身か」
青年はまだ戸惑いの色を残したまま周囲を見回していた。薄暗い船医室、棚には瓶や包帯の束が並び、木の軋む音が絶え間なく響いている。彼の声は掠れていたが、それでも懸命に言葉を探していた。
「……ここは、どこだ?」
ルキフェルは沈黙のあと淡々と答えた。
「ここは海の上だ」
「……海?」
青年の表情が一変する。慌てて立ち上がると、ふらつきながらも窓の方へ駆け寄った。窓を押し開けた瞬間、潮風が勢いよく吹き込み、茶色の髪を乱す。眼下には、どこまでも続く濃紺の海。水平線の彼方まで陸の影など一つもない。青年は言葉を失い、唇をわななかせた。やがて、現実を受け止めきれずにその場に尻もちをつく。
「……海だ……本当に、海の上……」
震える声が笑いにも泣きにも聞こえた。ルキフェルは青年の背を静かに見つめながら、ただ一言、低く呟いた。
「落ち着け。お前は助かったんだ」
青年はまだ息を荒げたまま頷いた。その仕草の中に、まだ警戒心が見え隠れする。
「さて、名を聞こうか」
ルキフェルの問いに青年はハッとしたように顔を上げたが、すぐに視線を泳がせる。
「……名前、か」
そう言って青年は眉間に皺を寄せ、口の中で何かを呟く。
「どの名前にしようか……」
ルキフェルの目がわずかに細くなった。意味を探るように青年を無言で見つめ続け、わざとらしく咳払いを返した。
「早めに決めてくれると助かる。記録に“名無し”と書くわけにもいかないからな」
青年はわずかに口角を上げた。皮肉とも諦めともつかない笑みだ。それでも、暫く黙考したのち、どこか覚悟を決めたように顔を上げる。
「……マテオだ」
その名を告げる声音には不思議な重みがあった。まるで過去を捨て、新しい人生を生きようとする男の宣誓のように。ルキフェルは目を細めて頷いた。
「マテオ、か。いい名だ」
マテオは再び立ち上がった。キフェルはしばらくマテオを観察していたが、やがて低い声で切り出した。
「目が覚めたところ悪いが、お前について聞きたいことがある。……場所を変えようか」
ルキフェルが船医室の扉へ向かうとマテオは躊躇してから、無言のまま後に続いた。




