第二章③ ルキフェル
港に戻ったルキフェルは静かに停泊する本艦〈リュシアン〉を見つめ、足を止めた。心の中に渦巻く混乱と喪失感のせいでしばらくは何も考えられず、ただ目の前の船を眺め続けていた。突然、彼の背後から陽気に響く声がした。
「よう、ルキフェル。外に出てるなんて珍しいな」
ルキフェルは思わず身体を固くし、振り返った。そこには、フランソワがどこか満足げに腕を組んで立っていた。
「フ、フランソワ……」
ルキフェルは息を整えつつ尋ねる。
「セドリックとの別れは済んだか?」
フランソワは肩をすくめ、柔らかい笑みを浮かべながら答えた。
「ああ、しっかりな。あいつの新たな門出を祝ってやった」
ルキフェルは胸の奥で微かに安堵しながらも、心のどこかに残る焦燥と寂しさを抑えきれなかった。フランソワはルキフェルをしばし観察した。いつもなら皮肉のひとつでも飛ばしてくるはずの青年が、今はどこか遠いところを見ている。
「……浮かない顔だな。何かあったか?」
フランソワに問われ、ルキフェルはびくりと肩を揺らした。返す言葉を探すように唇がわずかに動くが、結局顔を横に振った。
「……なんでもない」
海風が彼の髪を乱した。ほんの一瞬だけ、青年の影を残した眼差しが迷いを断ち切るように鋭く光る。
「行こう。みんなが待ってる」
そう言って背を向けたルキフェルの歩みは、もう躊躇いを知らなかった。波止場に靴音が響くたび、迷いは少しずつ海に溶けていく。その背中にはクォーターマスターとしての責任と、新たな航海への覚悟が確かに宿っていた。フランソワはそんなルキフェルの後ろ姿を見送りながら、思わず小さく笑った。
「……あいつ、ちょっと見ない間に男前になったな」
夕陽に照らされた港を一瞥し、フランソワは肩をすくめる。
「まあいいさ。風も変わったことだしな」
そう呟くと彼もまた桟橋を歩き出し、〈リュシアン〉へと戻っていった。
夜の海は穏やかだ。甲板の上では、新たな航海の始まりを祝って水夫たちが樽酒を囲み、陽気な歌を口ずさんでいる。ランタンの明かりが波間に揺れ、笑い声が潮風に混じって遠くへ散っていった。ルキフェルもその輪に誘われたが、彼は手を軽く挙げて首を横に振る。
「すまないな。今日はもう、寝たいんだ」
ほんの少しだけ微笑を添えてそう言うと、彼は杯を受け取らず背を向けた。木の階段を下りる足音が、宴の喧騒の中にゆっくりと溶けていく。
「おいおい、ルキフェル殿。せっかく柔らかくなったと思ったのにー」
「まったくだ。ちょっと話しかけやすくなったと思ったら、あれだもんな」
水夫たちは笑いながら肩をすくめたが、彼の背中を見送る目にはどこか尊敬の色も混じっている。甲板に残った灯りの向こうで、ルキフェルの影は静かに艦内へと消えていった。夜風が彼の通った跡を撫で、遠くで波がやさしく舷を叩いている。
船室の扉が静かに閉まった。その音を合図にしたように、ルキフェルの肩から力が抜けていく。背中を扉に預け、ゆっくりと膝を折った。重い外套が床に滑り落ちる音だけが静まり返った室内に響いた。断ち切ったはずだった。これでいいと思った。それなのに胸の奥では、どうしようもない痛みが波のように押し寄せてくる。スザンヌの笑顔、怒った顔、泣き顔、全部が鮮明すぎて瞼を閉じても焼きついて離れない。
「……なんでだよ……」
掠れた声が漏れる。喉の奥が熱くなり、呼吸が震える。握りしめた拳が膝の上で白くなる。自分で突き放した。自分で言葉を選び、刃のように彼女に突き立てた。その結果が、これだ。何も守れず、何も得られず、ただ胸の奥にぽっかりと穴だけが残る。ルキフェルは顔を上げた。視界が滲んで、船室の灯りがぼやける。ようやく、その涙が自分のものだと気づいた時、彼は小さく笑った。笑いながら、頬を伝う雫を拭おうともせずに。
「……ああ……そうか……俺は……」
言葉が途切れ、嗚咽に変わる。震える声の中に、初めて真実が滲んだ。
「……ちゃんと、好きだったんだ……」
扉の外では遠くに水夫たちの笑い声が微かに聞こえるが、彼の耳には届かない。静寂の中でルキフェルは膝を抱え、俯いた。
「……最低だ……」
涙のしずくが床に落ちる。潮のように静かで、どんな嵐よりも痛烈だった。船室の中はひどく静かだ。灯りは小さく、木の壁に映る影がゆらゆらと揺れている。自分の部屋なのに、やけに広く感じた。机の上には何もない。窓辺にも棚にも、彼女の気配はもうどこにもない。それが当然のことのはずなのに、今はただ空っぽが痛い。
「……俺は、何やってんだ……」
呟いた声が、自分の耳に虚しく響く。拳を握っても、爪が掌に食い込んでも、心の痛みは消えない。思い出したのは、あの港での彼女の顔。泣きながら、それでもまっすぐ自分を見ていたあの目。
意気地なし。あの言葉が、胸の奥で何度も反響する。
「……ああ、そうだよ。俺は意気地なしだ」
笑おうとしても声にならなかった。喉の奥が熱く、視界が滲む。込み上げるものを堪えきれず、ルキフェルはそのまま顔を伏せた。震える声が床に落ちる涙と一緒に零れる。
守りたかったのに、傷つけた。遠ざけたのに、まだ心のど真ん中にいる。彼は何もない部屋で波の音を聞いていた。どれほどの時間だったのか、自分でもわからなかった。ただひとつ胸の奥に残っていたのは、もう戻れないという、どうしようもない現実だけだ。
ルキフェルは重い身体を引きずるようにして立ち上がった。足元がふらつく。船体がきしむ音が、やけに遠くに聞こえる。机に手をつき、ようやく腰を下ろしたとき、肩が小さく震えていた。ふと横を見ると壁際に小さな鏡があった。見慣れたはずの鏡だが、いまはその存在がやけに残酷に思えた。太極拳を通じて心と向き合うことはできた。怒りも、恐れも、呼吸と共に鎮めてきたが、鏡の中の自分だけはどうしても直視できなかった。視線を逸らしながら、喉の奥で苦い笑いが漏れる。
「……何が、克己だ……」
自分に言い聞かせてきた言葉が、今は皮肉にしか響かない。もし、彼女にこの素顔を見せていたら。あの時、フードを取っていたら、彼女はどうしただろうか。彼女は、自分の声と瞳が好きだと言ってくれた。なら、この顔を見ても……その言葉をくれただろうか。
ルキフェルは無意識に自分の頬へ手を伸ばした。指先は、記憶のない中で刻まれた傷跡をなぞっていく。穢れた手だ。この手で、彼女の頬に触れてしまった。もし彼女が同じように自分の顔に触れてくれたら、そう考えた瞬間、胸の奥が激しく疼いた。すると、闇が頭の奥底で囁く。
——その顔でか? 彼女を震わせるだけだ。
ルキフェルはびくりと肩を震わせ、息を詰めた。声は続く。
——お前に、彼女を愛する資格はない。愛を知らぬお前に、誰も愛せはしない。
耳を塞いでも、声は心の奥から響いてくる。まるで、自分の内側が自分を嗤っているようだった。ルキフェルはゆっくりと俯き、震える手で顔を覆った。指の隙間から零れ落ちる呼吸が、鏡面を曇らせていく。曇りの向こうに見えるのは、もはや自分ではなかった。罪と後悔だけでできた、もうひとりの怪物のように思えた。
「……黙れ」
掠れた声が狭い船室の空気を震わせた。だが、闇はやまない。
——お前は嘘つきだ。彼女を救うだなんて、ただ逃げただけだ。その顔を見られるのが、怖かっただけだ。
「黙れっ……!」
声が次第に荒くなる。喉の奥で唸るように息を漏らした。鏡の中の自分が、じっとこちらを見ている。冷たい瞳。無数の傷が走る顔。口の端に、皮肉めいた笑みが浮かんでいる気がした。
次の瞬間、ルキフェルの拳が鏡を打った。鋭い音と共に、破片が飛び散る。手の甲を裂いた痛みが遅れて走った。血が滴り、鏡面を赤く染めるが、それでも鏡は壊れきらない。蜘蛛の巣状の亀裂の中に、無数の自分がいた。割れてなお、何十もの目が彼を見返している。その視線が、痛いほどに突き刺さった。
「……もう、お前なんか見たくない」
ルキフェルは掠れた声で呟いた。血のついた拳をだらりと下ろし、肩で息をする。息を吸うたび、胸の奥が焼けるように痛んだ。
「なら、俺は——目を背けるだけだ」
フードの影が彼の顔を覆う。
「この顔を隠しながら、俺は生きる」
割れた鏡の破片が足元で鈍く光った。ルキフェルはそれを踏み越え、暗がりの中へと歩き出す。背を向けた瞬間、船体がゆるやかに軋み、海風が音もなく吹き込んだ。
まるで、誰かの嗚咽を運ぶかのように静かに。
暗い廊下をルキフェルはゆっくりと歩いていた。深々とフードを被り、肩をすくめたその姿はまるで闇の中を彷徨う亡霊のよう。足音が一つ、また一つと響くたびに、船内の木壁が微かに軋み、年を取っていく。まだ新しかった木材は、彼の通り過ぎる後からゆっくりと色を失い、古びた質感へと変わっていった。まるで、彼の心が触れたものすべてを老いさせてしまうかのように。船灯の光が、彼の影を長く伸ばしていく。影は廊下の奥へと這い、やがて壁を、天井を、船全体を包み込む。闇と光の狭間で、ルキフェルは静かに息を吐いた。その吐息にすら、どこか疲れと哀しみが滲んでいた。
やがて、彼は階段に辿り着く。何段も、何段も駆け上がり、足音が木の段板を叩くたび時間が進んでいくようだった。最後の一段を踏みしめ、外へと踏み出すと冷たい夜風が彼を迎えた。甲板には誰もいない。波の音だけが、静かに響いていた。
ルキフェルはしばらく空を見上げ、それからゆっくりと手を上げ、深く被っていたフードを勢いよく外した。月光が彼の顔を照らす。
光に照らされた顔には、変わらず無数の傷跡が刻まれていた。
それでも、その輪郭は以前よりも鋭く、強く、どこか静かな決意を宿していた。頬の線は引き締まり、背は伸び、かつての少年の面影はほとんど残っていない。それでも、その眼差しの奥にはあの日、港で涙を堪えた少年の面影が微かに揺れていた。
十九歳。
少年の心を捨てた代わりに、孤高の男としての影を背負っていた。
月光の下、風が彼の外套を揺らす。彼はその場に立ち尽くし、静かに目を閉じた。海は何も言わない。だが、波音だけが彼の耳に届いていた。
その音がまるで、新しい夜明けの予感であるかのように。




