第二章② ルキフェルとスザンヌ
それから、また数日が過ぎていく。
遊びに出ていた船員たちも徐々に戻り、船は少しずつ活気を取り戻す。ルキフェルは航海に備え、物資の補充や積載管理といった責務を淡々とこなしていた。クォーターマスターとしての計算や手続きはすべて滞りなく済ませる一方で、積荷の運搬や甲板での実務は細かく指示書を書き、甲板長や航海士に委ねる。自ら重い荷を運ぶことはせず、その間もルキフェルの心はスザンヌとの時間に向かっていた。
普段であれば出発三日前には準備を急かすために、ルキフェル自らが甲板を駆け回るのが常だったため、甲板長や航海士たちは今回の光景を不思議そうに見つめる。甲板長は眉を寄せ、呟くように言った。
「普段は出発の三日前くらいから、急かして準備させていたのに……今回は数日かけてのんびりか」
するとジャスパーが軽く肩をすくめ、にやりと笑いながら返す。
「まあまあ、彼もやっと遊びを覚えたんですよー」
その一言に、甲板長と航海士は軽く笑みを返し、ルキフェルへの注意を逸らされた。ジャスパーは持ち前の軽口と方便で、わずかに緊張していたルキフェルの心も自然にほぐす。ルキフェルは軽く頷き、心の中で安堵しつつも、今日もまた波止場でスザンヌと過ごす時間を思い描いた。
そして出発当日。ルキフェルは甲板で、細かい積荷の配置や航海士への指示を最後まで確認した。指示書を整え、甲板長と航海士に手渡しながら、淡々と告げる。
「俺はこれからやることがある。その間、船は任せた」
甲板長と航海士は、受け取った指示書を手に頷く。ルキフェルはさっと船を降りる。今日も外套と狼の仮面は忘れていない。心の中で呟く。
——狼の仮面は、波止場についてから付けよう。
甲板長は背中を向けながら呟いた。
「あの子、やっと人を頼ることを覚えたようだな」
隣の航海士もふと頷く。
「それに、なんか男前になったな」
少し間を置き、航海士が冗談めかして言う。
「もしや、女の元かー?」
甲板長は大げさに首を振り、笑いながら答える。
「まさか、あの生真面目で堅物な彼が……考えられねえな」
その場で甲板上に笑い声が広がる中、ジャスパーは港を駆けていくルキフェルの背中をじっと見つめていた。
「…あいつ、大丈夫かな」
港の風に吹かれながら、心配そうに眉を寄せるジャスパーの視線が、波止場へ向かうルキフェルを追っていた。
ルキフェルは港の石畳を駆け抜け、波止場に到着した。手には外套を抱え、足早に足音を立てないよう気をつけながら歩く。到着すると、人の気配を探るように周囲を見渡す。少し離れたところに、スザンヌが佇んでいた。ルキフェルは息を整えながら、外套を羽織ってフードを深く被り、狼の仮面をそっと顔にあてる。完全に身を隠す装いを整え、ゆっくりと彼女に近づいた。
「ノワール」
スザンヌの声が光に溶けるように柔らかく響く。ルキフェルは仮面の奥で冷静を装って答えた。
「待たせたな。行こうか」
スザンヌは困ったような笑みを浮かべた。それから、いつも通り二人だけの時間が流れる。ルキフェルは内心、焦りを隠しきれなかった。
今日も彼女と過ごせる時間は限られている。航海が始まれば、またしばらく会えない。
ルキフェルはスザンヌと話しながらも、内心では胸の奥でせめぎ合う感情に揺れていた。
航海が始まれば、しばらく彼女に会えないこと。あの日々のように、昼間の波止場で自由に語り合えない日々が続くことを思うと心がざわつく。今こうしている時間も、あと少しで終わるんだ。
ルキフェルはため息を漏らす。スザンヌの笑顔が、耳に響く声が、指先に感じる距離の温もりがすべて愛おしくて、切なくて仕方がなかった。しかし、航海に出るという覚悟も同時に必要だった。
自分にはやらねばならぬことがあり、仲間と船を守り、任務を全うしなければならない。それは、スザンヌのためにもなると自分に言い聞かせる。けれど、同時に思う。
もし自分が彼女を陸に残し、航海へ出れば、日常的な触れ合いや安心感を奪うことになる。それで、彼女が寂しい思いをするくらいなら、いっそ忘れてもらった方が彼女のためになるんじゃないか、と頭の中で考えが何度も反響する。だが同時に、胸の奥に今すぐ手を伸ばしてでも、彼女をこの場に引き止めたいという衝動が芽生える。
フードの下で唇を引き結び、ルキフェルはその葛藤を静かに押し込めた。波止場の風が、少し冷たく頬を撫でる。ルキフェルは狼の仮面を軽く握りしめ、心を落ち着けようとするも、胸のざわつきは収まらないままだった。その時、スザンヌが歩みを遅くして、やがて足が止まった。ルキフェルも足を止め、彼女を振り返るとスザンヌは海に目を向けて呟いた。
「……最後だよね」
ルキフェルも海を見つめ、溜息を吐いた。
「……そうだ」
スザンヌは少し息を整え、ルキフェルに向き直ると震える声で言った。
「じゃあ……最後に、顔だけでも見せて」
ルキフェルは強く首を振った。
「……できない」
スザンヌは少し間を置き、次の言葉を探すように呟いた。
「じゃあ、せめて本当の名前を教えて」
ルキフェルはその問いにも頑なに答えず、目を伏せたまま告げる。
「無理だ。俺たちは身分が違うんだ。一緒にはなれない。お前にはお前の生きる世界がある」
スザンヌの目が揺れて涙が光ったが、必死に感情を押さえつけて強く言い返す。
「選ぶのは私よ! 私にだって、生きる道を選ぶ権利がある!」
ルキフェルは仮面の奥で一瞬言葉に詰まる。彼の胸は張り裂けそうだったが、目の前のスザンヌを守るため、これ以上自分の気持ちを優先させることはできない。
「……わかってる。だからこそ、これ以上は関われない」
スザンヌは唇を噛み、涙を必死に堪えながらも視線を逸らさず、ルキフェルを見つめる。
「……そんなの、ひどいわ。あなた、ずるい……!」
ルキフェルは小さく息を吐き、仮面越しにその瞳を見据える。
「ずるいのが俺だ。……でも、これが今できる精一杯だ」
二人の間には言葉では表せない緊張と切なさが張り詰め、波止場の空気を支配していた。スザンヌは静かに小さく呟いた。
「……身分が、邪魔なんでしょ」
ルキフェルの胸がざわつく。彼女の表情は穏やかだが、瞳には真剣さが宿っていた。スザンヌは一歩、ルキフェルにゆっくりと近づく。
「あなた、船に乗ってるって言ったよね?」
ルキフェルは僅かに目を見開く。
「……ああ、そうだが」
スザンヌはためらわず言った。
「私も……乗せて」
その言葉に、ルキフェルの体は一瞬硬直した。彼女の真剣な眼差し、そして笑顔の奥にある無邪気な期待が胸を刺すが、彼は海賊としての掟と自ら定めた律法、それから幼い時に目の当たりにした血の記憶が脳裏に刺してきた。
「女を連れ込んだ者は決して許されぬ。違反すれば、容赦なく罰が下る」
アランの低い声、フランソワの刃、気付けば自分の足元に転がっている男女の亡骸、赤く染る甲板。
脳裏に鮮やかに蘇ると同時に、どこか暗い空間、女の叫びと顔を伝う水と皮膚を焼く熱が襲ってきて、知らぬ闇に引き摺られる感覚が思わず呼吸が浅くなった途端、ルキフェルの中で理性と感情が激しく衝突した。怒りではなく、必死に守りたいという想いが爆発した。
「だめだ! 絶対にだめだ!」
ルキフェルは半狂乱に声を荒げた。
「女は、船に乗れないんだよ!」
ルキフェルの眼には恐怖も怒りもない。そこにはただ、彼女を——どんな犠牲を払っても——守ろうとする意志だけが映っていた。スザンヌは一瞬言葉を失い、唇を震わせた。涙が零れそうになるが、必死にこらえた。その瞳に映るのは、怒りと戸惑い、そして彼を想う切なさ。
ルキフェルは息を荒くしながらも彼女との距離を少しだけ保ち、胸の奥で痛む思いを抑え込む。これ以上近づけば、彼女に危険が及ぶ。それだけは、絶対に避けねばならなかった。スザンヌは小さく息を呑み、震える声で言った。
「なんで、そんなひどいこと言うの……?」
スザンヌの目に涙が滲むが、声には決意も混じっていた。
「頭では分かっていても、私……これがお別れだなんて嫌。離れたくない……!」
ルキフェルの胸が強く締め付けられたが声を荒げた。
「俺はよく海にいる、けどお前が居ていいところじゃない!」
スザンヌが驚いて一歩後ずさるが、ルキフェルはその反応をよそに言葉を続ける。
「危険が付きまとうんだ、海には。嵐も、敵も、法も俺も……お前を傷つけるものだらけだ! それに、海で生き抜くには冷酷さも必要なんだ。お前には、そんな世界で生きる術はない! 俺の近くにいたら……必ず誰かを傷つけることになる。俺自身も……お前のせいで弱さを見せることになる!」
ルキフェルは守りたい一心で言っているが、言葉の刃は彼女の心を深く傷つけてしまうばかりだ。スザンヌは涙をこらえながらも、一歩も退かずにルキフェルを見つめていた。彼の言葉の意味は理解できる。それでも彼の側にいたい、その想いが揺らぐことはない。ルキフェルは手を少し振り、さらに距離を取る。
「だから……お前は船に近づくな。俺の傍にいるな。お願いだ、頼むから……!」
彼の声は切迫していて、必死さが滲む。仮面の下では、心が軋むように痛んでいた。スザンヌは震える手を精一杯前に伸ばす。
「ノワール……お願い、行かないで……!」
刹那、ルキフェルの脳裏にまたも男女の亡骸が浮かんだ。
この手を掴めば、何もかも失う。
次の瞬間、港に乾いた音が響いた。スザンヌの頭が真っ白になる、勢いで拒絶された手の甲に痺れが残る。ルキフェルは荒い呼吸を繰り返し、掌は熱を持ってじんじんと広がっていた。二人の間にしばらく沈黙が落ちた。スザンヌは手の甲を摩りながら目を潤ませ、ルキフェルは何も言わず荒い呼吸だけを整えていた。やがて、彼の方から少し震える声で告げる。
「……目、閉じろ」
スザンヌは一瞬、戸惑いの色を浮かべる。
「え……?」
ルキフェルは再び力強く言い聞かせる。
「いいから、目を閉じろ」
圧に逆らえず、言われた通りにスザンヌはゆっくりと瞼を下ろした。息遣いがわずかに震えている。ルキフェルはフードに手をかけ、そっと引き下ろした。次いで、狼の仮面も外す。手の中で仮面を抱え、目を逸らすことなくスザンヌの顔を見つめた。ルキフェルはスザンヌの肩に手を置き、耳元で低く囁く。
「いいと言うまで、開けるな」
スザンヌは一瞬肩を強張らせるも、従うように目をぎゅっと閉じ続ける。ルキフェルは両手をそっと伸ばし、スザンヌの手を包み込むように握った。手の温もりを確かめるように、彼女の両手を自分の手に重ねて狼の仮面を渡す。
「これ、返す」
スザンヌは手の中の仮面に触れ、わずかに息を飲む。重みと温もりを感じながらルキフェルの意図を理解しかけ、胸の奥がざわつくのを覚えた。ルキフェルはスザンヌの閉じた瞳を前に、息をひそめるように立ち止まった。今ならこの無垢で美しい顔に触れ、唇を奪うことだってできる。そんな考えが頭をかすめた。彼はそっと両手でスザンヌの頬を包み、唇に触れようと身を乗り出した瞬間、胸の奥から、押し殺していた自分自身の声が響く。
——傷だらけの顔で迫るとは、彼女が気の毒だ。
一瞬の闇に心を突き動かされ、ルキフェルは唇をスザンヌに触れる寸前で止めた。息を整え、スザンヌの肩に凭れるように、深く頭を垂れる。心の奥で守るべきものと欲望がせめぎ合っている。やがて、ルキフェルはスザンヌからひと息で距離をとった。胸の奥で、今ここで唇に触れられたかもしれないという衝動と、己の覚悟のなさへの苛立ちが渦を巻く。身分の壁。彼女の未来。船団の責務。そして逃れられない孤独、自己否定、過去の後悔が重く、冷たい鎖のように彼の胸を縛る。フードを深く被り、視線を地面に落とした。呼吸は速く、手はわずかに震えている。
「……開けていい」
声はかすかに震え、ぽつんと落ちた。風のざわめきさえ耳を突き刺すようだった。スザンヌは息を呑み、ゆっくりと目を開ける。光を遮るフード、外套に包まれた青年の姿が浮かぶ。胸の奥でスザンヌの感情が揺れた。怒り、悲しみ、困惑、そしてなにより深い寂しさ。唇がわずかに震え、瞳がルキフェルのフードの影を探す。
「意気地なし………」
その一言が昼間の光よりも鋭く、ルキフェルの胸を貫いた。フードの影の奥で唇をきつく結ぶ。心外だった。守るために身を引いたのに、そんな言葉をかけられたら、こっちも黙っていられなかった。
「なんとでも言え。俺は、こういう人間なんだ」
ルキフェルが思わず口をついて出た言葉に、スザンヌの瞳が揺れる。
「お前と過ごしていたのは義務だ。お前の想いに応えてやっただけだ」
ルキフェルの言葉は冷たく、刃物のように鋭い。だが、その裏で胸の奥の痛みが、言葉を吐きながらも彼を蝕む。一瞬沈黙が訪れ、スザンヌは言葉を失った。ルキフェルはさらに一歩踏み込むように苛立ちを混ぜて付け加えた。
「お前をもっと翻弄してやりたかったが……時間が許しちゃくれねえな」
スザンヌの頬に怒りと困惑が一度に広がる。ルキフェルは足を一歩後ずさり、フードの影で顔を覆ったまま断固たる口調で告げた。
「分かったなら、さっさと失せろ。俺の前に二度と姿を現すな」
スザンヌの瞳に涙が滲み、怒りと悲しみが交錯して声が震える。
「なんで……なんでそんなことを……!」
ルキフェルは微動だにせず、ただ「失せろ」と繰り返すのみ。スザンヌは一瞬、言葉を呑み込み、嗚咽を堪えながらも再び口を開いた。
「あなた、最低よ。でも……私、忘れない。あなたの優しさ……嘘じゃないって、信じたいから!」
スザンヌは涙に濡れた頬をぬぐいながら、ルキフェルを追い越して走り去っていった。波止場の石畳に小さく靴音が消えていく。ルキフェルはしばらく動かず、その場に立ったまま振り返って見送った。やがて、スザンヌの気配が波止場から消えたのを確認すると、彼はフードをゆっくりと外した。冷たい海風が顔に当たる。仮面を外した素顔に、深い哀しみと決意が滲んでいた。ルキフェルは背を向け、重い足取りで波止場を歩き出す。冷たい海風が外套の裾を揺らし、まだ頭に残るスザンヌの面影が胸を締め付ける。
「馬鹿な女……」
さらに声を強め、自分自身にも言い聞かせるように続ける。
「俺のことなんか、放っとけよ」
歩幅を整えながら、心の奥に渦巻く感情を抑え込む。
「……これで、良かったんだ。これで」
ルキフェルの姿は波止場の先、船影に向かって消えていく。足音が石畳に淡く響き、やがてその音も遠ざかる。
新たな傷を負った青年の背中は、どこか孤独と覚悟に満ちていた。




