第二章① ルキフェル
あれから数日が経過した。
船員たちが港街へ遊びに出かけ、船が静かになる時間はルキフェルとジャスパーが船に残り続けていた。船長のフランソワは、貴族の屋敷で寝泊まりしている。
朝、ルキフェルはジャスパーと朝食をとり、船中を軽く掃除する。昼になれば、波止場へ向かいスザンヌに会う。夕方まで言葉を交わし、笑い、別れる。そんな繰り返しの日々。
スザンヌと会う際、ルキフェルは必ず狼の仮面をつけ、外套で身を隠して彼女の前に姿を現す。出かける時、戻る時、必ずジャスパーに揶揄された。最初は照れ隠しで無愛想に振る舞い、冷たく返していたルキフェルも次第に受け流すだけで済むようになっていく。
スザンヌは「毎日は無理でも、できるだけ会う」と言いながら、結局は毎日波止場に現れる。ルキフェルが先に着くこともあれば、スザンヌが先に来ていることもある。彼は、彼女が来るか来ないかに関わらず、夕方になるまで波止場で過ごすつもりでいた。だが、そこに毎日現れるのはいつも彼女だった。晴れの日は共に歩き、雨の時は同じ屋根の下で過ごす。話題は些細な日常の一幕や、時としてスザンヌの痛みをルキフェルが受け止めたりと多岐に渡り始める。
——だが、この日々がいつまでも続くわけがないと心のどこかでは思っていた。
ある日のこと。ルキフェルは自室で、これからスザンヌに会うため準備を整えている。外套を羽織り、狼の仮面を手に持った時、扉の向こうから人の気配がした。
「ルキフェル、今いいか?」
数日ぶりに耳にするフランソワの声。ルキフェルの体は一瞬硬直し、青ざめ、狼の仮面を見下ろした。これを見られたら終わりだ。
「ちょっと待ってくれ」
慌てて狼の仮面を外套にくるみ、机の下段の大きめの引き出しに滑り込ませた。呼吸を整え、何とか落ち着きを取り戻すと低く告げる。
「……入っていいぞ」
扉が静かに開き、フランソワの姿が現れた。
彼の後ろに、一人の男が控えている。ルキフェルの目は無意識にその人物へと引き寄せられた。
長くサラサラとした髪、深い茶色の瞳、青白い肌に華奢な立ち姿。左中指には、精巧に彫られたワタリガラスの刻印が施された、漆黒の指輪が光を反射している。
目の前に立つその男は十四代目コルヴァン。伝説の情報屋でありこの船の船員、そしてフランソワ船団の旗揚げメンバーの一人でもある。フランソワはルキフェルをまっすぐ見つめ、口を開いた。
「ルキフェル、コルヴァンとの契約の件で話がある」
コルヴァン——真の名はセドリック——は慈愛の眼差しでルキフェルを見つめていた。ルキフェルは心の中でわずかにざわつき、フランソワは続けた。
「この度、コルヴァン……いや、セドリックはモンレザール家へ正式に婿入りすることが決まった」
その途端、ルキフェルの胸の奥がぎゅっと締め付けられた。船団の仲間として、そして何より日々を共に過ごしてきた仲間がもうすぐ船を降りる。その現実が、言葉を通して静かに突きつけられた。セドリックはルキフェルを見つめ他まま頷いた。
「……決まったことだ。俺は船を降りる。けど、君たちには感謝しているさ」
ルキフェルはぎこちなく口を開いた。
「えっと、コルヴァン……じゃなくて、セドリック。まずは、おめでとう」
セドリックは肩をすくめ、穏やかな微笑みを浮かべる。ルキフェルは続けて言った。
「船を降りる際に退職金を持たせよう。君の言い値で払う」
セドリックは少し苦笑し、首を振った。
「ありがとう、ルキフェル。でも、俺のことはいいんだ。ちゃんと貴族の仲間入りするためにも、この船の金は受け取れない」
ルキフェルは一瞬、言葉を失ったが、セドリックは穏やかに付け加える。
「あいつらへの面子のためだ。気にするな。それに息子のためにも」
セドリックには一人息子がいる。若い妻に先立たれ、残された息子に安定した暮らしをさせたかった彼は、情報屋時代から交流のあるモンレザール家に、数羽のワタリガラスと共に息子を預けている。
そしてセドリック自身は私掠船団の一員として海を渡り、他国の情報や密輸船、船団の動向、さらには貿易ルートに至るまで全てを把握し、船団を支えていた。彼の存在がなければ、この船はここまで円滑に運営できなかったのだ。ルキフェルは深く息をつき、胸の奥で尊敬と感謝の感情が湧き上がった。
「わかった。今までご苦労だった。ありがとう……お幸せに」
セドリックは微笑み、ルキフェルの言葉に頷く。
「礼には及ばないさ。お前がちゃんと覚えていてくれるだけで十分だ」
その余韻が漂う中、フランソワの声が室内に響いた。
「それと、ルキフェル。近々、また航海に出ることになりそうだ」
ルキフェルの身体が一瞬、硬直する。
「航海に……出る?」
フランソワは淡々と頷いた。
「そうだ。新しい情報収集、そして船団の任務。港にいる時間は少なくなる」
ルキフェルは鋭い視線をフランソワに向けたまま、胸の奥でざわめく感情を必死に押し殺していた。スザンヌと過ごす日々、波止場での穏やかな時間。それが突然、遠のくように思えたのだ。
「そ、そんな……急に……」
フランソワは肩をすくめた。
「急ではないが、準備期間も必要だ。覚悟しておけ」
ルキフェルの心は動揺で揺れ、しばらく言葉にならなかった。胸の奥で波のような焦燥と不安が押し寄せている。フランソワは少し意地悪そうに笑みを浮かべ、ルキフェルに言った。
「なんだ、嬉しくなさそうだな? 久々に海に出られるんだぞ」
ルキフェルは一瞬、我に返る。深呼吸をひとつして、少し無理やり笑みを浮かべながら答えた。
「そうだね……また海に出られるなんて、嬉しいよ」
だが、その声の裏で胸はざわついていた。波止場でスザンヌと過ごす時間が限られていくこと。狼の仮面越しに交わした日々が、今後はもうすぐ遠くの記憶になること。ルキフェルの瞳は、無意識に部屋の窓越しの波止場を探していた。昼光に照らされた彼女の姿、微かに揺れる髪、そして笑顔が頭に浮かぶ。出航までの限られた時間、あと何度、彼女の隣に座れるのか。
やがて扉が閉じ、フランソワとセドリックの足音が遠ざかると、室内には静寂だけが残った。まだ昼間だというのに、二人はこれから酒場か港のどこかへと繰り出すのだろう。だが、そんなことはどうでもよかった。ルキフェルはすぐに机の引き出しを開け、外套と狼の仮面を取り出す。手早く身につけながら、胸の奥でせわしなく鼓動が鳴り響く。今日もスザンヌに会わなければならない。部屋を飛び出して甲板に上がると、ジャスパーが笑みを浮かべて声をかけてきた。
「おう、今日は遅めの出発だな」
ルキフェルは振り向きもせず、無言で頷いた。言葉を交わす余裕もない。彼の足取りは早く、焦るように船を降り、波止場へと向かっていった。船の木製の舷側がかすかに軋む音を背に、ルキフェルの心はすでにスザンヌの姿を求めていた。
波止場に着くと、陽光が水面をきらきらと照らしていた。潮の香りが鼻をくすぐり、かすかな風がルキフェルの外套を揺らす。いつもの場所に佇む、スザンヌの姿が見えた。彼女は軽く笑みを浮かべ、こちらに目を向ける。
「ノワール、どうしたの? なんだか焦ってる」
「そんなことはない。ただ、ちょっと寝過ぎた」
ルキフェルの心の奥では焦りが収まるどころか増していた。仮面越しの顔を少し引き締め、冷静を装いながらも、胸の奥でざわめく焦燥を必死に抑える。スザンヌは首を傾げ、にっこりと微笑んだ。
「そう。じゃあ、いっぱい話そうか」
二人は波止場の端まで歩きながら自然と話し始めた。ルキフェルは少し微笑みを浮かべ、波止場の風に髪をなびかせながら問いかける。
「晩餐会には、間に合ったのか?」
スザンヌは肩の力を抜き、少し楽しげに答える。
「ええ。怪しまれずに帰れて、ちゃんと出席した」
スザンヌはふふっと笑みを漏らし、続ける。
「色々な男性に挨拶されたけど、どの人と話してもつまらなくて、途中で飽きちゃった。男の人って、自分の立場の話ばかりするの」
スザンヌはルキフェルをちらりと見て、柔らかい声で言った。
「でも、ノワールと話してる方が楽しい」
ルキフェルは一瞬視線を外し、微かに笑みを押し込める。
「……俺もだ」
スザンヌは少し驚いたように目を見開き、次の瞬間には柔らかく笑った。
「ふふっ、やっぱりそう思ってくれるのね」
ルキフェルは頬に微かな熱を覚えながら視線を波止場の方へ移す。二人の距離は自然と近く、隣同士で立っているだけで互いの呼吸や小さな動作が伝わる。スザンヌはルキフェルに少し身を寄せ、そっと声を落とした。
「ノワール、今日も海は穏やかね」
「そうだな……」
ルキフェルはスザンヌの顔を見つめながら、別れの話題を切り出そうかどうか迷っていた。心の中で言葉を組み立てるものの、なかなか口にできない。そんな沈黙を破るように、スザンヌがふいに笑みを浮かべて言った。
「そういえば、ノワール。初めて会った時より、随分素直になったね」
ルキフェルはその言葉に一瞬、息を止める。まだ続きがあることを予感させる声のトーンに胸がざわついた。
「……素直、か」
スザンヌは目を細め、柔らかな光の中でゆっくり言葉を重ねた。
「私たち、もうしばらくこの街に滞在するみたい。だから……これからも、できるだけ一緒にいたいわ」
ルキフェルはスザンヌの言葉に耳を傾けながらも、心の中は波のように揺れていた。彼女の笑顔や軽やかな声は確かに心地よいが、同時に航海への覚悟が胸の奥で重く圧し掛かる。
「ああ、そうか」
「うん、そうなの」
ルキフェルは頷くことしかできなくなった。以前なら言葉を選び、冗談や軽口で返すこともできたのに何も返せなくなった。ただ彼女の話を受け止めるだけだ。一方のスザンヌは、彼の変化にまったく気づかない。彼女は楽しげに身振りを交え、昨日の出来事や街の小さな噂話、些細な出来事までを次々と口にしていく。時折笑い声が波止場に響き、ルキフェルの耳をくすぐった。
「それでね、昨日の晩餐会では本当に……ふふ、そうなの、でもお父様ったらね…」
彼女は夢中で話し続け、まるで自分の言葉が波に乗って空へ舞うかのようだった。
ルキフェルはその様子をどこか切ない気持ちで見つめる。口を開く余裕もなく、頷きや短い返事だけで、スザンヌの言葉の洪水を受け止め続ける。
気づけば、彼女の笑顔と声に包まれながらも、ルキフェルの胸の奥には焦燥と別れの予感がじわじわと広がっていたが、スザンヌはそんなことお構いなしに、彼との時間を全力で楽しんでいる。
ルキフェルはスザンヌの笑顔を見つめながら、どこか遠くに意識を漂わせていた。彼女の言葉は柔らかい風のように流れていくが、その一つひとつが彼の胸に鋭く突き刺さる。
どうやって別れを切り出せばいいのか。何と言えば、彼女を傷つけずに済むのか。
その答えを探そうとしても、言葉は見つからない。波止場で過ごす日々、笑い合った時間、交わした約束。それらを思い出すたびに、喉の奥が締め付けられた。
スザンヌは貴族の娘だ。一方、自分は海賊だ。
たとえ今は微笑み合っていても、やがて世間はその絆を許さない。名誉も家柄も、彼女の未来を縛り、自分の存在を拒むだろう。ならば、自分が彼女の前から消えるしかない。
彼女の記憶の中で、自分という影が薄れていけば、それが彼女にとって一番の幸せになるのかもしれない。
——喧嘩別れ。
ふと、その言葉が脳裏に浮かんだ。無意識に拳を握りしめる。胸の奥で、何かが軋む音がした。
そうすれば、彼女は自分を憎むだろう。忘れようとするだろう。でも、それでいい。それでいいんだ。
唇を噛み、ルキフェルは視線を落とした。次に顔を上げたときには、もう迷いはなかった。
スザンヌはいつものように明るい声で話し続ける。昼の陽光を受けて、髪がきらきらと輝き、笑顔が眩しかった。ルキフェルは彼女の横顔を見つめながら、心の奥で何度も言葉を整えていた。
どうやって、どんな言葉で、彼女に別れを告げるべきか。
その思いに気を取られるうちに、歩みは自然と遅くなり、足取りが重くなっていく。波止場を進む彼の影は、やがてスザンヌの先を行く明るい笑顔から少しずつ離れていった。気づくと、ルキフェルは立ち止まっていた。手に握った外套の重みも仮面の冷たさも、すべてが心に刺さるようだった。少し先を行ってしまったスザンヌが、首を傾げてこちらを振り返る
「……どうしたの?」
ルキフェルは息を整え、深く一度息を吸い込む。頭の中に、数えきれない言葉が浮かんでは消えた。
どんな言葉であれ、どんな言葉であれ、どんな別れ方であれ、彼女が傷つくことに変わりはない。
心の奥で、スザンヌの笑顔がじりじりと胸を締め付ける。震える声で、ルキフェルはようやく口を開いた。
「すまない、スザンヌ……もう、君と会うことはできない」
スザンヌの瞳が大きく見開かれる。
「……嘘よ」
「嘘じゃない」
ルキフェルの言葉が、スザンヌの胸に小さな氷を落とすように響いた。信じられないという驚きと、胸の奥でざわめく寂しさ。スザンヌの笑顔は消え、揺れる瞳がルキフェルを見つめる。ルキフェルは唇を軽く噛み、仮面の下で小さく肩を落とした。外套の重みと、決意の重みが、今この瞬間に凝縮されている。スザンヌの瞳に一瞬、光が消えた。口を開こうとするが、言葉が出ない。驚きと困惑が入り混じり、彼女の肩は小さく揺れた。
「……そ、そんな……」
小さな声で呟いた彼女の言葉に、ルキフェルの胸がぎゅっと締めつけられる。このまま一緒にいたら、君にもっと辛い思いをさせるだけだ。貴族の暮らしと自分の世界は交わらない。頭の中で幾つもの理由が渦を巻く。だが、どれも声に出す勇気はなく、胸の奥が痛むばかりだ。スザンヌはゆっくりと歩み寄ってルキフェルを見上げた。
「ノワール……ねえ、どうして? 何があったの?」
ルキフェルの喉が詰まり、瞳が揺れる。外套のフードをさらに深く被り直し、狼の仮面に手をかける。声を振り絞るようにして言った。
「俺は……ここで、君に寂しい思いをさせたくない」
ルキフェルは言葉を切り、呼吸を整えて続ける。
「だから、あと数日したら旅立つ。もう、君と会うことはできない」
スザンヌは青ざめ、言葉を失った。
「そ、それって本当に……?」
ルキフェルは仮面の奥でわずかに肩を落とす。目の前のスザンヌを守りたい、それが理由で選んだ別れ。胸の痛みは、守るための決断であることを打ち消すほど重くのしかかる。
「だから、今日限りだ。このあと、すぐ……」
これが、自分たちのために必要な別れだ。どんなに辛くても、後悔しても。二人の間には一瞬の沈黙が訪れ、海風だけが二人の間を撫でる。ルキフェルは仮面の下で小さく息を吐き、心の奥で何度もため息をつく。言わなきゃよかったのか。だが、言わなきゃもっと後悔しただろう。その時、あの澄んだ声が心の奥まで届いた。
「今日限り、なんて言わないで」
ルキフェルはハッとして顔を上げた。目の前には、潤んだ瞳で自分を見上げるスザンヌがいる。
「私……最後まで、一緒にいたい」
彼女の瞳から雫が溢れて、頬を伝った数粒が石畳を黒く染める。ルキフェルは言葉を失って見つめるしかなかった。スザンヌはしゃくり上げなら声を震わせる。
「そうよね……ノワールは、海にいる人だもの……長く続くわけないって、私も思っていたはずなのに……」
言葉がそこで途切れた。顔を両手で覆って泣きじゃくるスザンヌを目にした途端、ルキフェルの胸の痛みが一瞬にして吹き飛んだ。彼女の両肩に手を伸ばすと、華奢な肩がびくりとした震えが掌に通じる。スザンヌが恐る恐る顔を上げると、ルキフェルは彼女の瞳をじっと見つめて口を開いた。
「……最後まで、そばにいる。だから、泣くな」
スザンヌは目を見開くも、ルキフェルのギラギラした翡翠の瞳を前に首を縦に振った。ルキフェルはそんな彼女を見て、最後まで目を離さず、残り少ない陸での時間を彼女のために、今だけ会うことを許された自分たちのために使おうと心の中で誓うのだった。




